特別支援教育について思うこと

こんにちは。
飛び亀です。

今回は長文です。

「特別支援教育」って知ってますか?
何らかの形で教育に携わる方なら、今や知らないではいられない言葉ではありますけれど。

今回は基本的には知っている方、教育に携わっている方、経験されている方向けに書きます。

……が、とりあえずはその意味から、一応確認しますね。

特別支援教育≒障害児教育

「特別支援教育」とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものです。
(文部科学省ホームページ 2020/9/27閲覧)

かつては盲、聾、養護学校などでの身体障害児教育や病弱児への教育、知的障害児教育なども含めて特殊教育と呼ばれていましたが、平成19年(2007年)から特別支援教育として実施されています。

つまり、いわゆる障害児教育にあたる用語として使われています。

ただ、大きいのは発達障害児への支援を含んだことでしょう。
これにより、「特殊教育」より広い範囲と手立てをもって支援・教育を行う「特別支援教育」の考え方に移行しました。

平成19年4月から、「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、すべての学校において、障害のある幼児児童生徒の支援をさらに充実していくこととなりました。
太字は飛び亀による (文部科学省ホームページ 2020/9/27閲覧)

もちろん他の障害児にとっても、「特殊教育」は時代にそぐわないものだったと思います。しかし、発達障害児を支援対象としたことで、「特別支援教育」はすべての学校、すべての学級で行われることとなりました。

上記ページの通り、障害児への支援教育は「通常の学級→通級による指導→特別支援学級→特別支援学校」という段階性をもって、それぞれの場面で行われることとなっています。

さて、ここまで特別支援教育は、身体障害児、知的障害児、病弱児、そして発達障害児を対象とした障害児教育だと書いてきました。
文科省はじめ各種公式的な文面や偉い人のお話を聴いても、それが前提とされているフシがあります。

しかし、特別支援教育は「障害のない(定型発達の)幼児児童生徒には関係ない教育」ではないと私は考えています。

特別支援教育の線引き

例えば、その子が明らかに日常生活に困難を抱えていても、○○障害という診断がついていないこともよくあります。
また障害とまでいかなくても、何らかの理由で一時的に困難を抱えることもあります。単純なもので言えば骨折などのケガ。あとは精神面の問題ですね。特に家族問題の影響とか。

上記のような発達障害の診断がついていない・つかない、また別の問題を抱えている子どもも、特別支援教育の対象なんじゃないでしょうか。


発達障害グレーゾーンの子どもはともかく、ケガや心の問題まで特別支援教育に含められたらたまらない、という意見はあるでしょう。
どこかに線を引かなければ、あらゆる子どもの支援が特別支援教育の担当に降り掛かってくるじゃないか。広すぎて無理だ、とか。

いや、そこまでの発言を聞いたことはないんですけどね。


ただ私の言いたいことの1つは、特別支援教育の対象について線引きした考え方をしてほしくないということです。

というのは、特別支援教育の考え方の中枢にあるのは、「幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し」という部分だと考えているからです。

特別支援教育の場が「すべての学校」であること、「通常学級」も含まれていることが、その表れです。これは「発達障害児(疑い含む)が通常学級にも多く在籍しているから」という意味合いだと思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

あくまでも私は「通常学級でも、すべての子ども支援において一人一人の教育的ニーズを把握し、それに対応せよ」という意味合いだと捉えています。

つまり、発達障害児がいるにしろいないにしろ、特別支援担当ではない先生もみんな特別支援教育(的な見立てと支援)を適宜行えるようにしよう、という話です。
「自分は通常級、あの先生は特支担当」という先生同士の線引きそのものが(あるとすれば)、特別支援教育に亀裂を入れていると思っています。

特別支援の対象が広がっても、実際の特別支援担当のみが重責を負う必要はないはずです。

そしてそもそも、「通常学級的な教育・支援」と「特別支援的な教育・支援」は対立項ではなく、普通に混じり合うものだということは、多くの教育者は分かっているはずです。

子どもたち一人ひとりへの線引き

ただもちろん、現実には特別支援教育はすなわち障害児教育です。
少なくとも特別支援教育担当の先生は、通常級で過ごす子どもとは一味違った障害児たちを毎日相手取って教育・支援していくことになります。

障害児教育への知識と技量は相応に必要であり、通常級の対20人30人40人を相手取った教育方法とは異なる部分が多くあります。

その点、通常級の先生と特支担当の先生同士、お互いに線を引いてしまうことは(あるとすれば)仕方ない部分もあります。


ただ特別支援学校はともかく、少なくとも通常の小学校や中学校においては、通常級と支援級の先生がお互いの教育について知っていたほうがいいだろうと思います。

お互いの教育・支援方法の相違で歯車が合わない、なんてのはみんな不幸です。だって、そこにいる子どもたちが違うんだから、互いのやり方が合わないのは当然です。

一人ひとりのニーズに合わせるためには、互いの受け持つ子どもについて、教育・支援方法について情報をすり合わせる必要があります。

通常級の先生は、障害をもつひとりひとりの特性と支援方法を理解しなければいけません。
支援級の先生は先生で、通常級の子たちが集団生活の中で学んでいることを理解しなければいけません。支援級に合わせることで通常級の子たちの学びが制限されてしまうことも避けねばなりません。

つまり、当然ながら子どもはみんな同じだなんて考え方では上手くいかず、「子どもたち一人ひとりへの線引き」はする必要があります。個別対応が必要な子、集団の中でこそ学べる子、それぞれの成長が阻害されないことが特別支援教育の目的でもあると思います。


通常級と支援級の2つに分けて考えるよりは、子どもたち一人ひとりの線引きをして、しかし教育の場としては一切の線引きをせず、各々が成長できるよう支援する。

それが特別支援教育、いや教育そのものだと思います。もちろん理想ですけど。

障害児教育の現場にある歪み

前項までは、主に通常級と支援級の線引きについて書きました。

ただ、そうした二項対立は割に目立つものの、支援級含めた障害児教育の内部における子どもたち一人ひとりの線引き支援方法の線引きが目立たないなと思うことがあります。


ちょっと抽象的な言い方ですね。

なんとなくですが、障害児教育・支援はかくあるべき、みたいのがまかり通っていて、(ほぼ暴言ですが)「下手すりゃ通常級より画一的なのでは」と思わなくもなくもなくもなくも……

当然ながら、一人ひとりのニーズに合わせた支援を行うための特別支援教育では、障害児それぞれに対する支援方法は異なるはずです。

そんなことは特別支援教育にかかわる方みんな分かっているはずなのですが、現場は支援方法について「こうやれ」「ああやれ」「これは駄目」「あれは駄目」ばかりです。

ただもちろん、これは仕方のないことなのです。
4点ほどそうなってしまう理由を考えました。

1.「大人1人 対 子ども複数」が当たり前の通常級と比べて、障害児教育・支援の現場は「複数 対 複数」が基本なので、他の指導者の支援方法が目に付きやすい。
=大人同士の指導タイム(良く言えばOJT)が発生しやすい

2.同様に「複数 対 複数」の現場ではチームワークが求められるため、対子どもの支援力だけでは足りず、大雑把に言えば通常学級以上のコミュニケーション能力が求められる。
=「一人ひとりのニーズに合わせた支援」を行うだけでは現場が回らない

3.障害児教育にやりがいを感じ、プライドをもっている支援者にとっての「障害者像」が重めで、知的障害児への支援を軸としていることがある。
=発達障害児と重度知的障害をもつ子では支援方法の違いがあまりにも大きく、シンプルな発達障害児への支援が意外と現場に浸透していない

4.障害児は自己リカバリする能力が低い(と思われている)ため、教育や支援が失敗すると後戻りしづらい「誤学習」をすると言われている。
=間違った支援は子どもや周囲に取り返しのつかない悪影響を及ぼすと考える人が多い

まあ他にも色々なことが浮かびますが、障害児教育(あるいは福祉)の現場は、支援者側(大人)にとっても通常学級などとは環境が大きく違うのです。

支援者が複数いる現場のリスク

先の1と2について。

大人が大人を見ている(見える)ために、「あれは駄目でしょ」などと後から言う・言われることが多いわけです。下手すりゃ後からではなく、その場で言われることもあるようですが。

支援者同士が互いの支援を見ていることは、もちろん良い面でもあります。だから、結局支援者同士の関係性の問題になります。

2に書いた通りコミュニケーションを取ってチームワークができていれば、「駄目でしょ」と一方的な指導に終わることはなく、支援方法の議論になるはずです。これはとても建設的なことでしょう。

ところがチームワークというのは一人では成り立ちません。
現実的に互いの人間関係というのは運に左右されるところがあるので、ここが上手く噛み合わない現場は、子どもにとっても不幸な場所になります。

仲が悪いのは(仕方ないとはいえ)もってのほかですが、オープンに支援方法を言い合えない程度の固い関係性っていうだけで、障害児教育の現場としては一段落ちてしまいます。

例えば小学校の通常学級における「先生1人 対 子どもたくさん」は、1人の先生の力量次第という大きなリスクがあります。

しかし「複数 対 複数」の現場にある大人側の関係性次第というリスクは、結構馬鹿になりません。もっとできるはずの人間が、馬の合わない現場で落ちていくなんて最早ありふれた光景です。が、これは子どもにとって大きな損失です。

もちろんこんなのは教育現場だけの話ではなく、あらゆる仕事に当てはまることです。どちらがいいという話ではなく、どちらのリスクも把握したうえで覚悟した人事をすればいいことなのです。

そのはずですが、学校や福祉の現場ではその点あまり重視されていないところがあるように感じます。あくまで、個人的にですが。

子どもたちのレベルに合わせて

先の3について。

当たり前ですが、教育も支援も子どもたちのニーズに合わせて行うということは、その子のレベルに合わせて行うということにもなります。

障害者支援を生業としているスペシャリストの方々は、当然ながら「重め」の方の支援にも当たっていて、そこからスキルと自信をつけてきたんだろうなと思うことがあります。

もちろん全員ではないですが、そうした方の場合、知的な遅れの少ない発達障害児に対しても「重めの子への支援に準じた」支援を行ってしまうことがあるんじゃないかと感じます。

こういうのって障害児教育の現場に限らないことで、それこそ通常学級において、いわゆる「下の子に合わせた指導」ばかりを行ってしまうことに近いと思います。そうすると、いわゆる「上の子」がくすぶったり。

障害児教育における一人ひとりの差異は、現実的には通常学級における40人の差異より大きいと思われます。各レベルに合った支援スキルを身に着けていくのは大変なことなのですが、支援者は頑張るしかありません。

というか、その支援者の成長に一番いいのが、結局チーム内でコミュニケーションを取りやすい環境なわけですけどね。
「ADHDの○○くんには、そういう手助けする支援よりも、こっちの方を試してみない?」とか誰かが言えるだけで全然違うからね。

ちなみに、発達障害児は重度知的と比べてだいぶ軽く見えるのか、逆に放任に近い扱いをとってしまう人もいるとかいないとか。

「誤学習」という言葉が嫌い

さて、4についてです。

実はこの記事で一番言いたいことは、この話です。
ただ、「嫌い」と書いた通り本当に好き嫌いの話であって、理屈は通っていません。すみません。

でも、

「その支援じゃ、子どもが『誤学習』するでしょ」
「だから、そういう『失敗』はさせちゃだめ、先回りして止めなきゃ」

これが特別支援教育、障害児教育における現場頻出指導です。
よく聞くの私だけなのかもしれませんが(笑)

理屈は正しく、筋が通っているのです

いわゆる定型発達の子どもであれば、「失敗から学ぶ」ことができる。
というか失敗こそが学びであり、『教室はまちがうところだ』というのが通常学級における素敵ワードで、私も好きな言葉です。

ところが、障害児教育においてはそうも言っていられないようで、最悪の場合、先のような「失敗させるな」というワードが飛んできます。

理解のある方は、口では「多少の失敗は子どもたちの経験だよ」と言うものの、やっぱり相当先回りしておおよその失敗を防がれています。


実際、それ(先回り)が障害児教育であり、支援なのかもしれません。

通常学級だって、なんだかんだ先回りに準備をして、子どもたちに失敗させるとしても先生にとっては計画的、というのが理想なのかもしれません。そして、その失敗を子どもが自分で解決できるようにする。それが教育です。

ところが障害児の場合、失敗を成功で上塗りすることが比較的難しい。
必要以上に失敗が多くなるため、通常級のようなやり方では自己肯定感を落としてしまう。

結果、二次障害にも繋がる。

また「誤学習」として、社会的に正しくない方略を覚えてしまうこともある。

それを踏まえれば、先回り先回りで少なくとも失敗が減るようにすることは、障害児にとって必要不可欠な支援であることは疑いようもありません。


それでも個人的に引っかかるのは何かというと、ワードセンスなのです。

子どもたちの成長過程において、「失敗」とか「誤学習」とかいうワードをあまり並べ立てたくないのです。

その言葉に支援者側の精神性が宿っている気がして。


学習中に叫んだり、人を噛んだり、物を投げたり、他人の物を触ったり、舐めたり、自分の世界に入ったり、走り出したり、いたずらして気を引いたり……
これは「失敗」であり、「誤り」なのでしょうか。

そうした行動は、彼ら・彼女らが何らかの意味をもって行っていることです。拒否か、要求か、発散か、刺激を求めてか、愛情表現か……

多くの支援者は、これを分かっています。
分かっているのに、失敗だとか誤りだとかいう表現で扱うのは矛盾であり失礼なんじゃないでしょうか。

そして、このワードを使っていたら、いずれ「その行動の意味」を読まないまま「社会的に誤った行動」としてのみ扱い、別の「社会的に正しい行動」で上書き処理するだけの教育に成り下がるんじゃないか(※)。

そういう恐怖があります。

杞憂であることを祈ります。


※障害児支援においては、「本人の意志に直接働きかけずに、外から行動を変容させる」ような行動主義的アプローチが主流です、たぶん。

それは、まさに「上書き処理」のような形で障害児の行動や習慣を変えていくスタイルとも言えます。

こういう書き方だと悪い印象になりますが、言葉が通じず意志も読みづらい障害児の将来のためにも、そうしたアプローチは必要なものです。

ただ、それを機械的に行うのが特別支援、というふうになってしまうのが恐怖なのです。
例えばABAのような行動主義的アプローチは相応に有能ですが、あくまでも1つの手段に過ぎないという認識を支援者みんなにもってほしいというのが願いです。

なんで※以下で大事なこと言うの。

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