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ボルネオ1人鳥見旅⑤〜サンダカン死の進行の痕跡を訪ねて〜

前回のnoteの記事はこちら↓

ボルネオ1人旅も前半が終わり、Rainforest Discovery Center を後にして、高速バスでボルネオのもう1つの有名探鳥地であるキナバル公園(Kinabalu Park)へ向かいます。その距離約250km。サンダカンから国道22号線を進み、ラナウにあるキナバル公園に行く道のりです。

ここからが今日の本題です。

このサンダカン→ラナウというルートは太平洋戦争の戦史に詳しい方ならピンとくるかもしれません。これは「サンダカン死の進行」という、太平洋戦争末期に旧日本軍が連合国軍の捕虜に対して強制した死の行軍のルートです。この進行は食糧も物資も乏しい中、サンダカンからラナウまで250kmの距離を徒歩での移動を強制したものであり、旧日本軍の戦争犯罪の1つとして知られています。

その行軍は過酷なものであり、約2500人いた連合国軍の捕虜のうち最終的に生き残ったのは6名のみ。日本側でも数百名の死者が出たと言われています。日本では知名度は低いですが、オーストラリアでは同国軍の戦史上最大の虐殺事件として有名みたいです。

恥ずかしながら、僕はこの旅をするにあたってサバ州の歴史を調べていた時に、この存在を初めて知りました。

この死の進行が起きた78年後に、奇しくも日本人の僕が同じルートを辿る…。それが分かったとき、僕は日本人として何かしなければならないと感じ、サンダカンを出発する前にサンダカンメモリアルパークに行って慰霊碑に黙祷を捧げてきました。


サンダカン→ラナウへの死の行進が始まった場所
サンダカン死の行進の資料館に行きました。
生き残った6名の捕虜の証言などがありました。
当時の捕虜収容所のジオラマ再現

欧米では第二次世界大戦の戦跡を訪れる旅行が人気があるため、死の進行があったサンダカンにも多くの観光客が訪れますが、日本人には人気が無くほとんど来ないのだとか。もっとも、ここは日本の外務省が渡航中止勧告を出している地域という理由も大きそうですが…

それでも地元の人は、日本人にもっと来てほしいと言っていました。

サンダカン死の行進の慰霊碑
ここで黙祷しました。
サバ州の州旗とともに、死の進行で犠牲になったイギリス、アメリカ、オーストラリアの国旗が掲揚されていました。
このコンクリートの建造物は旧日本軍の貯蔵庫と調理場だったみたい。
放置された空港建設用の旧日本軍の重機

これらの戦争の痕跡を見ると、今はセミの声と鳥の囀りが響く平和なこの森も、かつては銃弾の飛び交う戦地であったのだと実感します。

かつて僕と同じくらいの歳の人達が祖国のために戦い、そして生きて故郷の地を踏むことなく、この地で散っていった…。虐殺を受けた連合国軍の兵士たちは、最期に何を思ったのでしょうか?帰郷の渇望でしょうか。それとも日本への憎悪でしょうか。

そんな思いを巡らせながら黙祷を捧げまさした。



思えばこの旅を通して、色んな国から来た人と仲良くなりました。その中にはイギリス、アメリカ、オーストラリアの方々もいます。彼らと一緒になって鳥を探したり、ジョークを飛ばして笑い合ったり、目的の鳥を見つけて喜びを分かち合ったり…本当に楽しい時間を過ごしました。フレンドリーな人ばかりで最高の仲間です。


しかし今から七十数年前、日本人はこの地で彼らと壮絶な殺し合いを行い、そして虐殺した。そう思うと胸が張り裂けそうになりました。それと同時に、今のこの平和な時代がたまらなく愛おしく感じました。


いつまでもこの平和が続いてほしい…そう願いサンダカンを後にしました。

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