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極度に間接化したオペレーションにおける評価関数の最大化

(2015/3/23)

何につけ、オペレーションが間接的になればなるほど最終的に変化を与えている実体についての関心は薄れ、オペレーションの評価関数を最大化することに意識が集中する。

幾つもの中間段階をはさんだ投資行為はその典型であろう。

物々交換から貨幣の時代になり、硬貨から紙幣、兌換紙幣から不換紙幣、さらに電子マネーになったことで、「評価関数の最大化」への動機付けはますます高まっている。

実体物の交換や購入であれば、いくら取り引きに成功しても目の前に積み上がった実体物の山を見れば、これ以上は使い切れない、さばききれない、保管しきれない、といった物理的な制約や、もうこれだけあれば十分だ、という「満足感」がブレーキになる。

しかしそういった実体物が存在しない、数字を増やしていくだけの世界では、歯止めとなる物理的心理的障壁は存在しない。

そういったオペレーションによって評価関数が最大化されるということは、オペレーションの連鎖における各部分、特に末端部分での利益は可能な限り簒奪されるということを意味する(もちろんこれはオペレーションの連鎖のどのステージを担う人材がどの程度稀少かに依存する問題であり、それ自体興味深いが)。従って、どれだけ末端部分で合理化を進めて生産性を向上させたとしても、そこで新たに生まれた利益はそのステージを直接担う者ではなく、前述の「評価関数の最大化」のために「常に」簒奪される運命にある。

それでも、各ステージを担う者がそれぞれそこそこ幸せであればよいのだが、オペレーションの連鎖の上流に於いて「評価関数の最大化」を行うとき、下流の担い手が困窮するだけではなく、上流の担い手も、評価関数の上昇と比べると相対的に幸福度の変化量は小さくなっていくであろう(=収穫逓減)。

上流の担い手が「評価関数の最大化」によって収入を1億円増やしたところで、それによって得る追加の幸福度よりも、年収100万円の100名が倍の年収を得られるようになった方が社会全体の幸福度は高まるのではないだろうか。

当然ながら、資本主義下での商行為を否定するものでは全くないが、この「極度に間接化したオペレーションにおける評価関数の最大化」というメカニズムにブレーキをかける手段がせいぜい「累進課税」「寄附への動機付け」「ノブレス・オブリージュ」ぐらいしかない資本主義のシステムというのは、どう考えても「非合理的」だし、「効率が悪い」と言わざるを得ない。

「最適化の意思」は、文脈が削ぎ落とされて対象の記述が抽象化されればされるほど、歯止めがきかなくなるだろう。

例えば会社組織の経営者は、もちろん利益を最重要視するだろうが、同時に、社員、顧客、ブランド、社会環境、組織の中長期的推移などもリアリティーのある形で視野に入っているため、「利益の追求のための戦略・オペレーション・組織の最適化」は「それなりの程度」に留まるだろう。つまり一般の経営者にとって、「事業活動」という対象の認識は良くも悪くも多次元で、ノイジーなものである。

しかし、株主、機関投資家、その顧客、と、会社組織の事業活動への関与が間接的になればなるほど、「事業活動」という対象の記述が利益、あるいはROIという形に抽象化され、それ以外の次元、ノイズはリアリティーのある形では認識されなくなる。するとそのようなアクターは、特段「公共性」や「人間性」や「倫理観」を欠いたりしているわけではなくとも、人間の当然の思考プロセスとして、その抽象化された指標(のみ)を最適化しようとするインセンティブを強く持つようになるのではないだろうか。

対象への投資が間接的になればなるほど対象を記述する指標が抽象化され、指標が抽象化されればされるほど、その指標のみを最適化すること以外のインセンティブが消滅してしまう。別の言い方をすると、「本来そこまでする必要のなかった最適化」をしてしまうのではないか、ということである。

そのような行為が悪いと言っているのではない。むしろこれは、人間が「最適化の意思」を持っている限り、「対象の記述の抽象化」がもたらす必然的な帰結である。そして、「対象の記述の抽象化」自体も、もちろん一概に悪いことではない。そのような情報圧縮によって我々は様々な事物を「取り扱い可能」にしてきたわけである。

しかし同時に、「我々は、「本来そこまでする必要のなかった最適化」をしてしまっているのではないか」「我々を、「本来そこまでする必要のなかった最適化」に向かわせているメカニズムはどのようなものであり、それは本当に我々が望むメカニズムなのか」ということに対する反省的視点もまた、持ち合わせたい。

この問題が昔からどうしても気になっていて、様々なビジネス書や経済・経営関係の学術書を読んでも、あるいはそういう専門家の講演を聴いても、この問題にダイレクトに向き合っていないので全く腑に落ちない。

(まあこういう話は基本的にはマルクスの頃から議論され尽くしているのだろうが、それならそれで現代においては、もっとそういう学問的蓄積を背景にしてビジネスを論じて欲しいものだ。)

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