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馬場修一先生のこと

大学を卒業するちょっと前に馬場先生が亡くなったとの知らせを聞き、友人と二人でお悔やみを伝えにご自宅に伺わせてもらった。今検索して確認したところ、48歳だったとのこと。若い。

当時は大学1、2年生向けに、全学共通一般ゼミナールというのがあって、開講を希望する教員がそれぞれ自由にテーマを決めて、自由な形式で授業を行なっていた。確か6単位まで取れるとか、2単位分は必修科目として認められるとか、そういった形だった。

この全学共通一般ゼミナールは、通常の授業に適応できない学生のシェルターのような役割を果たしていて、御多分に洩れず私もこの「シェルター」にずいぶんと救われた。これがなかったら大学をドロップアウトしていたかもしれない。

何に惹かれたのか忘れたが、私は2年生の時に馬場先生のゼミを取った。見田宗介の宮沢賢治論とか、『ノルウェイの森』とか、竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』とか、どうしてそういうラインナップになったのかわからないが、そういう本をグループで読んで、議論したい論点を抽出してプレゼンし、全員で論じ合う、といったスタイルだった。

先ほど述べたように全学共通一般ゼミナール自体がシェルターのようなものだったため、表向きは他人の書いた文章について論じているつもりでいても、参加者の実存の問題が抑え難くその場に溢れ出していた。

馬場先生はほとんど発言せず、ひたすら二十歳そこらの学生の青臭い意見を熱心に書き留めていた。おそらく、学生の誰よりも頻繁にペンを走らせていたと思う。

先生は少し腰が曲がっていて、なんでも、大学紛争の時に無理をしたのが祟って腰を悪くした、という噂だった。

この頃中沢新一氏の教員としての採用に関して学部内がおおきく揉めて、他の要因も多々あったのだろうが多数の教員が大学を去った。

その中の一人であった西部邁氏が辞めた組織を週刊誌で批判していて、「10年間1本も論文を書かないB氏(=馬場先生のこと)など、ろくでもない教員があそこには多い」といったような内容だった。しかし当時の私にとっては、馬場先生が論文を書いていようがいまいが関係なく、シェルターの中で自分を救ってくれた恩人でしかなかった。

そのゼミで、八王子の大学セミナーハウスに合宿に行くことになった。グループに分かれて宿泊棟に入り、飲みながらあれこれ会話をしていたのだが、そのうち酔いが回りすぎた学生が突然暴れ始めた。止めようとする他のメンバを振り切って、泣きながら叫んでいた。

彼は付き合っていた彼女を眼の前で交通事故で無くした、それを自分は救えなかった、そのことを一生抱えて生きていかなければならない、といったようなことを叫びながら暴れ続け、とうとう宿泊棟の窓に頭を突っ込んでガラスを割ってしまった。

彼自身も頭に怪我をして、少し血が出ていた。それで勢いが削がれたのか、そのことをきっかけに彼は大人しくなり、周りに何人かが集まって話を聞いてやっていた。

そのゼミの仲間とは今は全く連絡を取っていないが、中の良かった二人とはしばらく連絡を取り合っていた。

一人は学内の、当時大人気だったミュージカル劇団に所属していて、卒業してからは大学院に進み、脳科学の研究者になった。

もう一人も大学院に進んだのだが、それと並行してずっと和楽器のグループで活動していて、自宅に遊びにいった時は尺八が何十本も転がっていた。そのうち10本ぐらいは長い時間をかけて自分で竹を乾かして穴を開けて作ったと言っていた。彼は結局研究者にはならず、プロの尺八奏者になる道を選んだ。

他には顔をかろうじて覚えている学生が数人。一人は今はその分野では代表的な研究者になっている。

みんなどうしているのかな、あの、暴れて頭突きでガラスを割ってしまった彼はその後幸せに暮らしているだろうか。そういえば訃報を聞いて一緒に馬場先生の家を訪ねた友人とも、もう10年以上連絡を取っていない。

ここ20年ぐらい大学の評価システムはますます厳しくなってきており、もはや馬場先生のような教員は大学にいられなくなっているだろう。学生もまた、そのような教員を許容しないのではないか。

そして、全学共通一般ゼミナール、という名称はいつのまにか無くなっていて、今はちょっと似た、別の名称になっていた。中身がどうなのかは知らない。

カリキュラムポリシーとかカリキュラムマップとか単位の実質化とか学習目標と評価の一貫性とかシラバスの精緻化とか、そんなものを最も乱暴に無視していたのが、この全学共通一般ゼミナールだったと思う。

今はもはや「当時の全学共通一般ゼミナール」は存在しないだろうが、私はあれがあったからこそ、大学に通い続けることができた。私は全学共通一般ゼミナールに救われた。

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