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審判の日

私の通っていた中学では、生徒は全員部活動に強制加入させられた。スポーツは苦手だったが、苦手な生徒でも比較的続けやすいとの噂を聞いてテニス部に入った。ずっと下手なままで、特に試合となると、部内のメンバー同士の試合でさえひどく緊張した。

ある時、それまでずっと避けてきたのだが、たまたま他にメンバーがいなかったので部内の試合の審判をやらざるをえないはめになった。審判ともなるとプレーヤーの時より更に緊張度が増し、もう、何が何だか分からなくなった。「イン」とか「アウト」などとコールするのだが、目で見た情報と、口から出てくる言葉が一致しないほど、極度の混乱に陥った。

私がおかしなジャッジをするたびに、プレーしているメンバーは私にクレームを付けたり、にらみつけたりしていたが、そのうち彼らはお互い目で合図して含みのある笑顔を交わし合い、何かを「決めた」ようだった。それ以降は、私がどんなジャッジをしようとも、一切私を非難するようなことはなくなった。

少し時間をおいて、私は、「ああ、彼らはこれを「試合」とするのを諦めて、「ラリーの練習」と捉えることにしたのだな」と気づいた。彼らの態度の変化はあまりにも露骨だったので、恐らく、私がそう気づくことは、彼らも十分予測していただろう。

そのような空気の中で、いまさら「自分には審判はできない」と役目を放棄することもできず、ひたすら、もはやまったく彼らの相手にされていないコールを続けた。「イン」とか「アウト」とか、一体何度繰り返しただろう。ずいぶん長く感じた。ようやく「試合」が終わった。

折に触れて思うのは、たぶんあの「試合」は、今もまだ続いているのだろうな、ということだ。卒業してから何十年も経っているが、基本的に何も変わっていない。いまだに周囲の人間が参加しているありとあらゆる「ゲーム」が全くわからないし、全くついていけない。

こういうことを言うと「別にいいじゃないか」「周囲のことなど気にすることはないじゃないか」と必ず言われるが、そういう話ではないのだ。もしそういう話だとしたら、私はすでにここにはいない。このような文章がここに書かれることはない。

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