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クリッカブル社会

とあるUXデザイナーが、「ボタンを作った時点で負け」的な話をしていた。ボタンを一つ作ると、その画面を使う度にユーザーがクリック「しなければいけなくなる」のでユーザーに負荷を増やすという話だ。

遡って考えてみると、そもそもiPhoneなどで使い慣れたボタンは元々は物理的な「ボタン」(正確な言葉は「スイッチ」)を抽象化したものにすぎない。そして、物理的なボタンしかなかった頃の記憶がある人は少し遡って思い出して欲しい。

昔のボタンはとても特別だったとおもう。ダイアル式じゃない電話が初めて家に来た時。カセットデッキのボタンの録音ボタンを押した時に再生ボタンも同時に押し下げられるあの「ガチャ」な感じ。ウォークマンのボタンが初めてデジタルになった時の「カチッ」な未来感、、。

それからしばらくして、ペラペラのボタンたちが出てきた。金属配線がプリントしてあるプラスチックの板を押し付ける、電子レンジや洗濯機で使われているアレだ。量産すると普通のボタンに比べて圧倒的に安いのだが、「押した」感が少なく、ずっと使っていると劣化して破れてしまう。あれくらいの時代からどうやら「ボタン」の運命は大きく変わったようだ。

ソフトウェアでボタンを作れるようになってから、ボタンを作るコストは0になり、ボタンは我々の生活を侵食する勢いでどこにでも表示され、クリックされることを期待している。結果、一気にボタンの「特別感」は消えてしまった。普通にスマホやPCを使っている人なら、1日数千回のクリックやタップをしているのではないか。逆に言えば、脳はそれだけの「判断」を無意識にしているわけで、結果物事をじっくり考える時間を奪っているようにおもう。

自分の能力を拡張してくれたり新しい世界を見せてくれたあのボタンは、いつのまにか操作している人が「操られている」ような存在になり、画面上のボタンをクリックしたときに「お金を引き落とされる」とか「広告を見せられる」とかそんな心配が伴うようになり、ボタン自体の能力は(ワンクリックショッピングのように)飛躍的に拡大したが、使ってる我々の楽しみは激減してしまったように感じる。

工業化の流れを辿れば常に物は安くなり、量産できるようになる。が、果たしてそれが我々を幸せにしているのかは十分注意しないと、意図しない「クリッカブル」な社会に飲み込まれてしまう。

個人的には、「ドアノブを回すために10クリック必要」のような社会には疲れてきた。


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