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画面ごとに「これが映画だ」と呟くことしかできない恐るべき映画について――ルイ・フイヤード監督『ティー=ミン』(Thi-Minh,1918-19)

 映画とは『ティー=ミン』(Thi-Minh,1918-19)のことである。かような断言をふと呟かせてしまう恐るべき作品というのが存在する。ルイ・フイヤードLouis Feuilladeが第一次世界大戦の末期に撮り上げた『ティー=ミン』は、そのような作品である。

 フイヤードは、これまですでに、映画史上の傑作というべき、全5部作の『ファントマ』(Fantômas,1913-14)、『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』(Les vampires,1915-16)、『ジュデックス』(Judex,1917)、私は未見だが、『後のジュデックス』(La nouvelle mission de Judex,1918)――個人的には『続ジュデックス』と邦題をつけたいところではあるが――といった連続映画をすでに手掛けており、連続映画ならではといってよい出鱈目さが生々しい現実のパリに息づく、独自の世界を映画に定着させていた。多くは第一次世界大戦下で撮られた作品であるが、『ティー=ミン』は第一次世界大戦末期、欧州が新たな秩序を獲得しようとしていた一時期の作品である。この時代背景は、『ティー=ミン』の物語にも少なからぬ影響を与えているようにも思う。『ファントマ』は、ベル・エポックBelle Époqueの華やかなパリを背景に、紛れもなく悪として描かれるファントマなる犯罪者をめぐる一連の作品群であるが、この悪役があまりに魅力的であったがゆえに、フイヤードはこの後、徐々に正義漢を主人公に物語る方向に舵を切り始める。『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』は、そのバランスがもっとも取れた作品であり、エデュアール・マテÉdouard Mathé演じるフィリップ・グランドなる新聞記者を主人公にしているが、ミュジドラMusidora演じるイルマ・ヴェップという、たとえばオリヴィエ・アサイヤスOlivier Assayasの作品にも残響を留める魅惑的な悪を生み出したことでもよく知られている。その後の『ジュデックス』は、いわゆるピカレスク・ロマンふうの、悪徳銀行家を打ち倒すためには過激な行動にも出る正義感を主人公に設定している。つまり、悪の側から正義の側へと物語の中心を移行させてきたのであって、この傾向は『ティー=ミン』でも踏襲されることになるのだが、いっぽうで物語のスケールはより拡大していく。悪役とされる男女は、一都市の犯罪者でもなければ、犯罪組織の組員でもなければ、悪徳資本家でもなく、国家間を暗躍するスパイである。「第29文書」なる機密文書を偶然にも手に入れてしまった男女が巻き込まれることになる。この物語のスケールの拡大には、あるいは複数の国家間の巨大な戦争という時代背景があるのかもしれない。

 ルイ・フイヤードにとって、この物語のスケールの拡大は、自身のフィルモグラフィに新たな冒険を刻む試みであったといってよいかもしれない。しかしこの種の冒険はこれのみではない。これまでもっぱらフランスの首府パリを舞台として語られていた物語は、『ティー=ミン』においては南仏ニースをその主たる舞台としている。これは、単なる舞台の変化ではなく、画面のムードそのものが変わることを意味する。つまりこれまでの作品、たとえばそれは『ファントマ』でもかまわないし、『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』でもかまわないが、それらの画面には比較的背の高い建物が立ち並び、華やかさそしてときにアンダーグラウンドないかがわしさが画面を彩ることになる。いっぽうで南仏ニースを舞台とした『ティー=ミン』では、ごつごつした岩山やそこに生える独自の植生、豊かに広がる地中海といった自然が、南仏の乾いた強い陽光を受けて画面を彩っている。つまり、フイヤードにとっては、これまでの連続映画を物語のスケールの拡大と、南仏の画面のムードによって更新する試みであったのである。

 だが、私が『ティー=ミン』に震撼したのは、このような物語のスケールの拡大ゆえでもなければ、南仏の画面のムードゆえでもない。『ティー=ミン』の絶対的な素晴らしさとは、やはり、画面ごとに「これが映画だ」と呟かせずにはいられぬ充実したショットにある。この種の確信は、21世紀の映画がなかなか抱かせてくれない感覚であるが、画面、とりわけロングショットの素晴らしさとその贅沢さにおいて、感嘆せざるを得ない。たとえばプロローグのワン・シーンを取り上げてみよう。ルネ・クレステRené Cresté演じる冒険家ジャック・ダティスがニースに帰還したとき、傍らにはインドシナで世話になったというマリ・アラルドMary Harald演じるティー=ミンがいた。互いに惹かれ合う男女ではあったが、ルネ・クレステはふたたびインドに旅立つことになる。しかし彼が不在のうちに、マリ・アラルドはさる理由からスパイたち(とはいえここではそのような人物であることは明らかではない)に狙われることになる。ある日、ルネ・クレステが手漕ぎボートで地中海に漕ぎ出す。画面手前に黒々とした岩が映っており、画面奥に向かってボートが進んでいく。やがて新たなボートが画面手前に現れる。それは岩陰から現れたスパイたちが操っているのだが、マリ・アラルドが漕ぐボートに接近していく。今まさに事件が起こると思われたそのとき、画面は字幕に切り替わり、その日の夜になってもマリ・アラルドが帰ってこないことが明らかにされる。ルネ・クレステの屋敷のメイドと姉が海岸に駆けつけると、そこにはマリ・アラルドが漕いでいたはずのボートが空の状態で発見される。いくらでも激しいアクションを描くことができたはずだが、そのあたりはあっさりと処理して次の場面に映ってしまう。ロングショットが充実しているからこその、この贅沢な画面の連鎖に驚かされる。
 その後ルネ・クレステが帰還したあと、マリ・アラルドが誘拐された事実にショックを受ける。このときマリ・アラルドが画面手前にゆっくり歩いてくるフルショットが、海を映すショットにオーヴァーラップされるショットを観ることができるが、このショットに私はぞっとするような恐ろしさを感じたのだが、この種の魔術は、21世紀の映画のほとんどからは失われてしまったように思える。

 ロングショットの贅沢な画面処理、そして画面のもつ魔術の魅惑――『ティー=ミン』の画面の充実と驚きの連鎖には、「これが映画だ」とひたすらに呟くことしかわれわれには残されておらず、あらゆる饒舌は禁じられ、失語症のように言葉を失い、ただその偉大さに恐れおののくばかりだ。


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