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病気との闘い㉑生死を彷徨った時の夢 その1

みなさんお久しぶりです。
さぁ、いきましょう!

みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!


ふたつの痛みの病に侵され、痛みに呪われたflutist_umakoです。


しばらく、執筆できないくらいの強い痛みに襲われていて…。

今も元気とは程遠いのですが、


「何かせねば」


という思いで何とか書いています。


前回の「病気との闘い」シリーズは復学した時の大モメ話でしたね。

さて、今日のお話は私が復学してからのお話です。

今回は大学とはちょっと離れた闘いです。



突然の意識喪失!何が?


私の2回目の4年生(卒試・国家試験に向けた1年)を送っていた日の事。

2回目の4年生は大学内にある重症心身障がい者施設にロングショートステイという形で大学の中に住み、そこから学内の図書館に行って勉強したり、月に一回の模試を受けたりしていました。


2008年4月26日、私は施設の方に病院受診に連れて行ってもらい、受診中に意識喪失状態になったそうです。もちろん、痛みによるものではなく。

医師の診察を受け、私はすぐにICUに入ることになったそうです。

その時担当した医師から実家の両親の元へ電話が行った際、医師は、



「大変な状態」



と告げ、それでも遠方だし、私の状態が落ち着いたこともあり翌日来てほしいと言われたそうです。


もちろん私は、その時のことを一切覚えていません。これは、当の本人が意識喪失していたこともありますが、以前受けた治療の後遺症で記憶がないのかもしれません。


両親が栃木の病院へ着き、2日ほどすると私の状態は落ち着き、



「連休(GW)明けには退院できます」



と医師に告げられた両親はひとまず安心して山梨に帰ったそうです。

そして、5月2日私は退院しました。




再度意識喪失!今度は何が?


私は5月2日までの事ははっきり覚えていないまま、日常生活に戻りました。

5月14日、私は午前は図書館で、昼食を食べに施設へ戻り、再び図書館に行くと告げ出かけました。

しかし、30分もしないうちに私は、


「身体がだるい」


と、施設に戻ってしまったそうです。

こういう事はよくあったそうなのですが、直前の入院の事もあったからか、施設の看護師さんがいつもと様子が違う?と私の部屋に来てくれた時...


その時私は、意識喪失し呼吸も浅く緊急を要する状態だったそうです。


救急車で附属病院へ向かい、私は挿管され呼吸器により生かされている状態でICUに入る事となりました。


病院からの電話で母が栃木に翌日の5月15日17:32に着くと、医師から、



「大変危険な状態なので親族をすぐに呼びなさい」



という、ドラマで聞いたことのあるセリフを言い渡されたそうです。


私は死ぬんだ...


私は重症肺炎を起こしていたそうですが、例えば咳が止まらない、胸が苦しいといった症状はありませんでした。

もちろん、私は口からは太いチューブを入れられ、そのチューブを抜かないように鎮静剤を使われていたので全く覚えていません。

さらに、鎮静されていても無意識にチューブや点滴を抜いてしまうため、手には医療用ミトン、拘束もされていたそうです。




家族が集められた時


そして、医師から告げられた通り私の家族は栃木の病院に大集合することになってしまいました。もちろん、甥っ子姪っ子も。

IUCには大人が2人ずつしか入れなかったようです。

こどもはいろんな菌を持っているため入れないのがルールでした。


家族が集まった日は日曜日で、たまたまIUCには私ひとりしかいなかったため、大人と一緒に姪っ子は入ったそうです。

何せその時の私は死にゆく身、看護師さんが取り計らってくれたんだと思います。


しかし、


「いつものumaちゃん」


でない事に、姪っ子はこどもながらにとてもショックを受けたそうです。

私の姿を見たからか、姪っ子はその後しばらくおねしょをするようになった時期があった、と後に聞きましたが、かわいそうな事をしてしまったと心が痛みました。



重症肺炎の原因・時系列


多少話は前後しますが、私の重症肺炎の原因ですが、上に書いたように私にそれらしき症状はありませんでした。

でもそれもそのはず、ある鎮痛薬で咳反射を抑えてしまうため咳き込む事はないし、多くの解熱鎮痛剤を飲んでいるので熱が出にくかったのです。

それにしても...?


医師たちは、



「細菌による肺炎ならばステロイドパルスを3日間することで効果が期待できるが、間質性肺炎なら数時間後も保証はできない」



と、病院に着いたばかりの母にそう告げたそうです。

しばらくの間あとから追いかけてきた父と母は病院で待機していてほしいといわれ、交代でホテルに戻る生活だったようです。


入院から3日経った5月17日:長女家族、次男が病院に到着。

姉も兄も私の様子、姿を見て涙したそうです。

そしてこの日再び撮ったレントゲンでは少しの改善がみられたが、血液検査の数値は依然悪いままでした。


5月18日:長男家族到着。

5月19日父は仕事のため一旦山梨に帰らなければいけなかったようです。

まだ予断を許さない状況下、一人で私の様子を見守ることになった母は、父を新幹線の駅に送った帰り道、その重圧からか信号が赤になっているのに気づかず事故を起こしていたそうです。

幸い大事に至らず、事故を起こしてしまった相手も事情を理解してくださる神対応だったらしいです。


5月21日:私が暴れたことで左手の動脈に入っていた針が曲がってしまったが、レントゲンの結果が良いので酸素を80%から60%に。

5月24日:酸素が45%から40%になった。

5月25日:鎮静剤、鎮痛剤を使うも、私が眠りながら眉間にしわを寄せ、涙をこぼしている姿を見た母は日記に、


「痛みや苦しみに耐えている姿が痛々しい」


と記している。

5月26日:人工呼吸器が外れる。私の意識があったかどうかは定かではないが、幻聴、幻覚症状があったとのこと。

5月27日:翌日挿管チューブを抜くから、と私の拘束を取っていたら、母や看護師さんの目を盗んで自分でカフに入った空気を抜かないまま強引にチューブを抜いてしまう(笑)。そしてこの日に一般病棟の個室へ。

5月28日:私の錯乱ぶりに母が医師に相談する。ICU症候群という一過性の幻覚・幻聴とのこと。


5月30日:私が依然混乱状態。姉と泣きながら電話で話す。姪っ子と甥っ子が、


「umaちゃん、がんばれ!umaちゃん、がんばれ!umaちゃん、がんばれ!umaちゃ~ん!!」


という動画を送ってくれ何度も私も母も大笑い。


このあと一歩一歩回復してゆきリハビリ(OTとST)を経て、8月20日に退院となった。


ステロイドパルスが効いたという事は私は何かしらの細菌感染で重症肺炎になったのだろう。


この間、ともだち、叔父・叔母が会いに来てくれたが、誰よりも来てくれたのは大学の教授陣だった。


今再び思う、私は幸せ者だ。



終わりに


ここまで読んで鋭い方は気づいたでしょうか?

そう、私はまだ生死を彷徨った時の夢の話をしていない。

しかし、今日ここに書いたように、この時何が起きていたのか語らないと、私の夢の話はできないと思ったのです!

夢については次回のお楽しみに取っておいてもらいたいです。

では次回、乞うご期待!

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