「約束がテーマの明るいエッセイ」を諦めた過程
「約束(プロミス)エッセー大賞」という公募を見つけた。トップページに、「『約束』をテーマにした明るいエッセーを募集します」とある。
私はテーマの定められた公募を探していた。締め切りまで余裕があって、字数制限もちょうど良さそうだったので着手した。
最近はもう文章を書く作業の恒例になっている、連想ツリーを書いてみた。
そしてこの時点で、「なんか、明るくないなあ」と思った。
そのあと文章でも色々とこねくり回してみたのだが、応募するにふさわしいエッセイにまとまる気配がない。
程なくして応募は諦めた。しかしせっかくなので、雑多に色々考えた過程をここに書いてみる。
これを読んでいる誰かには、この公募は合うかもしれない。ピンと来た人は、是非挑戦してみて欲しい。ちなみに私は今年の秋ピリカグランプリの存在を三毛田さんのXで知り、たちまちピンと来て応募まで漕ぎ着けられた。
私はまず、「約束」を辞書で引いてみた。
「当事者の間で取り決めること」
「ある社会や組織で、守るように定めたきまり」
私は紙の中心、「約束」と書いた丸枠から2本の線を伸ばし、「当事者間の取り決め」の丸枠と「社会や組織で守るべき決まり」の丸枠を書いて繋げた。
「当事者間の取り決め」
なぜ、取り決めをするのだろう?つまり、なぜ約束をするのだろう?
私は、「共存するため」という仮説を立てた。
取り決め、ルール、縛りを設けてまで、時に不自由を感じてまでお互いに共存をしたいから約束が必要になる、のではないか。
となると、なるほど。「約束のある関係は明るい」のかもしれない。そうまでして共存したい両者がいるということだ。
私は「約束」の丸枠の隣に、真っ先に「『明るい』?」と書いた丸枠を作っていた。「『約束』をテーマにした“明るい”エッセー」という募集要項に、実は最初に見た時から疑問を持っていたのだ。「約束は、“明るい”のか?」と。
しかし、なるほど。約束を設けるほど大事な人間関係が存在することは、確かに“明るい”かもしれない。
さて、私と約束を取り決めている人とは、誰がいるだろう。
夫。
約束1「私の持病を悪化させない」
中途半端で申し訳ないが詳細は省く。とにかくこれを守らないと、守る努力をしないと、私も夫も両方困る。これは守るべき約束だ。
持病を悪化させないための細かいルールというのがいくつかある。その瞬間は不便を感じたとしても、長期的にお互いの関係を良好に保つために、必要な約束だ。
約束2「ケンカしたらその日のうちに仲直りをする」
付き合ってすぐに、夫から提案された約束だ。交際してからもうすぐ7年。ケンカと呼べるものは片手で数えられるくらいだが、この約束は守られている。
我々夫婦のケンカには「その日寝るまで」というタイムリミットが一旦設けられているため、その日中に言うべき主張をお互い全て出し切らなければケンカがその日中に終わってくれない。眠くても、面倒でも、とにかく発生したらその日のうちにお互い出し切る。
「その日のうちの仲直り」が形式的な時も、正直に言うとある。恐らくは両者とも、心の中ではまだ納得しきれていない、という状態で翌日を迎えることもある。
そうなったらまたその話は蒸し返されるのだが、ケンカ発生初日にほぼ全ての主張が出揃い、一度形式的にでも仲直りをしていることで、翌日以降の「蒸し返しフェーズ」では、一日目の「ケンカフェーズ」よりも、遥かに建設的に話が進む。
この約束のおかげで、我々のケンカは尾を引かない。
これも、その瞬間は不便を感じたとしても、長期的に共存するために必要な約束だ。
さあ、他に約束を取り交わしている人は誰がいるか。
自分。
自分?いや、自分以外は?
多分いない。
自分以外には夫だけ?
私には、約束を定めてまで共存するべき人が、自分以外には夫ただ一人しかいないみたいだ。
それって、どうなんだろう……
明るくない。
さて、自分との約束についてだ。
これは、一つの大原則を軸に成り立っている。
「自分を嫌いな状態でいない」
この原則を満たすために、「タスクをリマインダーやアラームで管理する」「朝6時に起きて運動か執筆をする」「メンタルが良くない時は家から出る」「Xのおすすめタブを開かない」といった、細かいルールが存在する。全て、「自分を嫌いな状態でいない」ためにある。
「自分を嫌いになる」こと自体は禁止していない。そういう出来事だってあるし、そうなってしまうようなネガティブな経験や失敗は、時にポジティブな成功体験よりも役立ってくれることもある。
しかし、「自分を嫌いでい続ける」のは問題だ。「自分を嫌いな状態、続いてるな」と思った時は、その原因を突き止めて、何とか克服を試みる。原因特定と対策立案は、主に夫との対話を通して行っている。夫がいなかったら、本当に自分はどうやって生きていくつもりなのだろう。
この大原則「自分を嫌いな状態でいない」に内包されているが似ている項目に、「卑屈にならない」がある。
卑屈になる時というのは、大概が自分と他人を比べた時だ。自分が持っていないもの、時には、本当は自分には必要ないものを持っている他者を見て、「それがない自分は駄目なんじゃないか」といたずらに焦っている時だ。
そうならない人間関係がある。自分と相手の違いをあるがままに認めて面白がったりできる関係、卑屈にならずに共存ができる関係がある。
それができる人を、大切にしたい。さっき「私には約束を定めてまで共存するべき人が、自分以外には夫ただ一人しかいない」と言ったが、卑屈にならずに共存できる人のことも大切だ。だから、大切な人はもうちょっといる。誤解を受けそうなので、そこはフォローしておく。
逆に言うと、「あなたは私と違ってこれを持っていないの?それって遅れているよ。問題だよ。早く私に追いつきなよ」という圧を感じる人のことは、無理に大事にしない。自分が卑屈にならないために。
そうやって私は、私と共存している。
「社会や組織で守るべき決まり」
「約束」のもう一つの定義だ。これは沢山ある。「会社」「仕事」でくくれば、就業規則や具体的な仕事の方法やルールが山ほどある。
私は、それが結構好きだ。ごくたまに納得いかないルールも存在するが、「働くため」という共通の目的を持った人達が多くのルールに則って動いている組織は、私にとってとても過ごしやすい。
大学を卒業して入社した時は、全員が当たり前に時間を守り、理性的な言葉遣いで業務上必要な言葉を交わし、業務で関わる誰かにとって必要なタスクを合理的に定められた締め切り内に行う、という行動の一つ一つに泣きそうなほど感動した。いい加減な大学生しかいない、規律も目的も成果もあったもんじゃないサークルだの集まりだのなんだのしかない学生生活になんて、二度と戻りたくないと心の底から思った。
さて、そんなふうに仕事上発生する約束というのは多数存在するが、それらは個人同士で交わしたものではない。
「書類が出来たらメールで送ってください」「承知致しました」という約束は業務上必要だから生まれるのであって、片方の退職などによりお互いが仕事相手じゃなくなったら、この二人の間には何の約束も発生しなくなる。
「社会や組織で守るべき決まり」は、誰か個人と共存をしたくて交わしているわけではない。仕事や会社から約束を強制されているのだ。
「約束のある関係は明るい」という仮説に戻ると、やっぱり私には、約束を設けてまで共存したい相手が、本当に夫と自分しかいないことになる。
それってどうなんだろう……
やっぱり、明るいエッセイにならない。