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ルールでダメなのはわかっても、そもそもの前提である「なんでダメなのか?」がわからないとき、どうしたらいいか

今さらそんなこと言ってんの? と思われそうな気もするが、いまだに納得がいっていないことについて書きながら考えてみたい。

過去の何かしらの嫌な出来事は、時間が経つにつれて「あの経験があったから今の自分がある」とか、「あの出来事で大事なことに気づいた」という風に何かしらの意味を「抽出」できることが多いような気がしている。

だが、かなりの時間が経っても、そのときのことが何かにつながった気がしないという、自分の記憶の中で孤立した体験がいくつかある。タコ糸が切れた凧のように、記憶の中をさ迷っているままだ。今日はそんなことを書いて整理してみる。

お弁当を残しちゃいけません!という幼稚園の先生

通っていた幼稚園はお弁当持参だった。そのときの担任の先生は、お弁当を絶対残してはいけませんと言う先生だった。

ある日、扁桃腺が痛くて食べたものを飲み込めないということがあり、先生に訴えた。

「のどがいたくて飲みこめないのでのこしていいですか?」

私は小さい頃からよく熱を出していたので、扁桃腺の痛みはその後高熱が出るという兆候だということを小さいながらも自分で理解していた。

でも先生には通用しなかった。まったく聞く耳を持ってくれなかった。

「ダメです。残さず全部食べなさい」

幼稚園児のお弁当の量なんて少ないものだけれど、アルミのお弁当箱にフォークのあたる音だけが虚しく響きながら、他の子がみんな食べ終わって外で遊んでいる中で教室に一人残され、飲み込むたびに切られるような痛みを喉に感じながら、涙を流して食べ続けた。

いつも残しているわけじゃないじゃんか。いつもちゃんと残さず食べているじゃんか。本当に喉が痛いのに。それをわかってもらえないことのくやしさが、喉の痛みよりも強かった。

食べ終わるまで許さない小学校の担任の先生

小学校でも同様の記憶がある。
4年生の担任の先生だったか、その人も絶対に残してはいけないという主義の人だった。当時私は、豚肉の脂身の部分とピーマンが大嫌いで、口に入れると吐き気を催すほどだった。

なので、給食で「酢豚」が出たときは拷問のようだった。
給食の時間が終わっても食べられず、そのままお昼休みになる。班にしていた机をみんなは前向きに元に戻すのだが、自分だけが、教室の真ん中で机を戻さない形で、食べさせられ続けた。他の子は校庭に遊びに行ったり、教室で話したりしている。

そんな中、口に入れただけで、ピーマンの苦みや脂身のやわらかい感触で、全身にぞわぞわと寒気が起こる。それでも我慢して一口噛むと、うえっとなる。無理だと思い廊下に飛び出して、水道に猛ダッシュする。自分の手にそれを吐き出しても、捨てるところがない。トイレに行ってトイレットペーパーでぐるぐる巻きにして流す。そしてまた教室に戻り、続きを食べることに挑む。そして寒気と吐き気がして教室を駆け出す……ということを昼休みの間に何度か繰り返し、5時間目が始まるときにやっと、もういいと食器をさげさせてもらえた。

もはやそれって虐待ではないかと今となっては思うのだが、まあそのあたりの価値観は今回はふれないことにする。その経験があってからは、嫌いなものが入っているおかずは、配膳のときにそもそも食器に入れてもらわないことにした。

突然暴力をふるう高校の教師

それから、高校のとき。これは食事ではなく、服装の話。
その時代は、スカートの丈をみんな短くしていたのだが、ほとんどの子はウエストのところを何回か折るだけで、服装検査のときは折っているのを戻すことでクリアしていた。

私は入学直後に自分でスカートの裾上げをして、ウエストを折らずに短いスカートをはいていた。ウエストを折るとスカートのヒダが変にゆがむのがいやだったから。もちろん、最初の服装検査でひっかかって注意をされ、その後結局スカート丈を直したのだが、そのときに生徒指導の先生に目をつけられてしまったようだ。

何か月かして、当時付き合っていた人と遊びに行った先でおそろいで買った七宝焼きの指輪を学校ではめていたことがあった。その頃はそういうものが特別に感じる年頃だ。生徒指導の担当は社会の先生で、私は社会の授業中にその先生から指輪を外せと注意された。はい、とその場は素直に従って外した。私は注意されればスカートの丈も戻すし、指輪を外せと言われれば従う程度の、本当にごく普通の生徒だった。

それから何時間かが過ぎた休み時間のことだ。授業が終わったあとに指輪は指に戻していた。廊下を歩いていたら、いきなりその先生に胸ぐらをつかまれ、階段の踊り場の壁にドンっと押し付けられた。まったく違う意味の壁ドンだ。突然だったし、息が苦しいし、もうパニックだ。

「てめー、指輪を外せと言っただろ」

と、ものすごい形相で怒鳴られた。そこいらじゅうの生徒が見ている前で。

何この人、やりすぎじゃない? と思いつつも、ものすごい形相で睨むので、「この人危ない」と思いその場で指輪を外すと、没収された。その後どういうことになったのか覚えていないが、残ったのはその教師に対する不信感だけだった。

これって結構な暴力じゃないか?と思うんだけど、まあ中学のときのバレーボール部の顧問の先生がいつも木刀持っているような時代だったから、そのときは「むかつく」と思ったくらいで日常に戻ったような気がする。

ツーブロック絶対禁止!の高校の校則

時はだいぶ流れて。
次男が高校に入ってから、髪型をツーブロックにしていることで何度も注意を受けた。家にしょっちゅう電話がくるし、髪型を直すまで登校してはいけないと謹慎処分を受けたこともある。修学旅行先の沖縄で、他の生徒たちから外れて床屋さんに連れていかれたこともある。

そっちの指導を受ける方がめんどくさいからツーブロックにこだわらなくてもいいんじゃね?と思ってたんだけど、その年頃だからこそこだわりたくなる次男の気持ちもわかるし、決まりだからと態度を徹底する先生の行動もわからないこともない。

ただ、私が純粋に理解ができなかったのは、「なぜツーブロックがダメなのか?」というその理由だ。子どもたちの通っていた中学でも、ツーブロックやソフトモヒカンが禁止ということを言われていて、数年来なぜその髪型がダメなのか不思議だったのだ。なんならおしゃれだし、長髪にするよりよっぽど清潔感があるじゃないか。金髪にしているわけでもメッシュを入れているわけでもない。

さらに、そういうツーブロック禁止の地域のある美容室の美容師さんたちも、そういう事情はよく知っているので、次男は美容師さんと相談して、ツーブロックかどうか決めきれない微妙なラインに切ってもらっていたという。ツーブロックか、ツーブロックでないかの基準は何か? 境界はどこにあるのか? 高校の先生の誰がそれを判断しているのか? ということも疑問だった。

なので、自宅に電話がかかってきたときに、それを先生に訊いた。担任の先生は「そういう決まりなんで」と繰り返すだけで話にならない。「すみません、もうちょっとちゃんと説明していただける方に変わってもらえませんか」というと、学年主任の先生が電話に出た。

「決まりだからダメっておっしゃることはわかるんですが、そもそもどうしてツーブロックがダメなんですか?」という質問に対してその先生は、

ツーブロックやソフトモヒカンは、ここからがOKでここからはNGと境を決められない。だから全部ダメなんです

という回答だった。たしかに極端なモヒカンはどうかと思うし、極端なツーブロックがあるのかどうかわからないが、そのときはたしかにそうかもなとなんとなく納得した(今考えると、その極端な髪型がどうダメなのかまた疑問が起こってくるが)。

振り返ってみて改めて思うこと

ここに書いたのに加えて、「PTA活動」についてもいくつも納得がいかないことがあるのだが、それを書くと際限がなくなりそうなので、また今度にして。

こうして納得いかないいくつかの記憶を振り返ってみると、親としては

食べ物を残さずに、ありがたくいただくという価値観を持ってほしい
好き嫌いなく食べられる子になって欲しい

と思うから、そういう「残してはダメです」という先生の気持ちもわからなくもない。

さらに、高校のときの自分や次男を思い返すと、

決められたことに逆らって無駄に疲れるより、素直にルールにしたがったほうが楽じゃないか

とも思ってしまうのだが、ただ教師の側が、どこまでそれを強制するのか?というと、やっぱりプロセスに問題があると禍根を残すというか、逆効果なんじゃないかなと思う。

食事も、誰かだけ特別に残してOKにすると、ただの好き嫌いで残す子との線引きが難しくなるのはわかる。でもそれを、無理やりに、教室の真ん中で一人だけ、見せしめのように食べさせることは果たして意味があるんだろうか?

もしその子を慮って、喉が痛かったら残してもいいよ、そんなに気持ち悪いのだったら食べるのをやめていいよ、といった場合、他の子からじゃあなんでぼくは(私は)ダメだったのと、説明を求められるかもしれない。誰か一人の子の納得と、クラスの他の子の納得と、どうやって線を引いていくのか。そもそも線は引けるのか。

高校の服装や髪型だって、校則に違反しているのは生徒の方なんだけど、でもそもそもなんでそれが禁止されているかという説明があったかと考えると、自分のときに禁止ですということは言われても、なぜそれがダメなのかという理由を説明された覚えがない。次男もそれは説明されていないと言っていた。

誰かの髪型がOKになると、じゃあ俺だっていいじゃん!という子が出てくるだろう。そうすると全部OKか全部NGにするしかなくなるのもいたしかたない気がする。そういうことは想像はできる。

じゃあ、自分が教師だったらどうするか? と考えてみると、なってみないとわからないがこれはかなり難しい問題だ。その都度その都度、目の前の子に誠実に向き合っていくしかないのかな?

おそらく先生側が「それがルールだから」で済ますのではなくて、そういうルールになった背景や前提が共有されるような対話がされると、生徒側はしぶしぶでも納得に近づくのかもしれない。

だから、生徒側は「納得いかない」と思ったときは、それを「問い」の形にしてちゃんと訊ねることが大事な気がするし、先生側は単にルールを強いるのではなく、「そもそもなんでそうなのか?」という視点をいつも持ち、そもそもの前提を説明できる態勢であることが必要な気がする。

という、そもそもの疑問にあまり棹をさせない結論しか、今日のところは思いつかないけれど。

あと、書いていて思ったのが、今日は、自分が覚えているいくつかの「納得がいかない」出来事を思い出して書いているけれども、実はその何倍もの「納得がいかないと思われること」を、自分の子供たちや一緒に仕事をした人たちに強いてきた可能性はすごく高い。

自分が思い当たらなくても、相手が覚えていることは多々あるだろう。これはまあ、言ってもらわないとわからないので、今後はなにか衝突や葛藤があるごとに想像しながら対話を重ねていくしかないかな……。

そういうときに有用そうな、おのれを「かっこに入れて」状況を見るということについて、内田樹さんの本を見て思うところがあったので、後日投稿を改めて書いてみたい。

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