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『読書の方法<未知を読む>』について(外山滋比古 著)

今日は、こちらの本について。


著者の外山滋比古さんは、昨年逝去されましたが、英文学者、言語学者であり、これまで多数の著作を残していらっしゃいます。

先日ご紹介した『本を読む本』の翻訳もされています。

この本は、

・どういう読み方が、本当の読みと言えるものであるか
・われわれの精神をきたえ、真に新しい知識を獲得するにはいかなる読み方をすべきか

という主題で書かれています。

そして、

既知を読む アルファー読み
未知を読む ベーター読み

という定義で、アルファー読みが氾濫していることに警鐘を鳴らし、ベーター読みの大切さについて説いています。

ベーター読みの最たるものが、「四書五経」のような古典の素読。意味がわからずとも、何度も何度も読み上げることでおのずからわかるときがくる。そして、素読から入った読みは人間形成にも大きな影響をもたらすとのこと。

ベーター読みは、その発見を目指して、一歩一歩、けわしい山道をのぼっていくようなものである。ロープウェーがあるからというので、それに乗って頂上へ行くこともできるけれども、山に登ったという喜びはロープウェーでは味わうことはできない。
一挙に本願から攻めよ。それが素読の思想である。
素読では読んだことがわからぬということが、わかっている。これがベーター読みへの原動力となる。アルファー読みは、わかることはわかっても、わからぬことがわからない。
葦編三絶(いへんさんぜつ)。本の綴糸が三度も切れるほど、一冊の本をくりかえし読むことである。葦編三絶どころか、三回読み返した本が、五冊あるという人がどれくらいあるだろうか。
「読書百遍意おのずから通ず」これぞすなわちベーター読みの王道である。
本当に読むに値するものは、多くの場合、一度読んだくらいではよくわからない。あるいはまったく、わからない。それでくりかえし百遍の読書をすることになる。時間がかかる。いつになったら了解できるという保証はどこにもない。それがベーター読みである。
わからぬからと言って、他人に教えてもらうべきものではない。みずからの力によって悟らなくてはならないのである。


一番印象に残っているのは「未知の本を読むことは、登頂と似たよろこびである」という言葉。

自分自身も、数少ない体験だけれど、実際に登山で登頂をしたときのよろこびの記憶があります。一方で、この本に書かれているような読書のしかたをしたことはありません。もしそんな「読み」ができれば、深いよろこびをあじわえそうな気がします。

時代によって、「読み」のスタイルも変わっていくものかもしれませんが、それでも大切なことは変わらないような気がしています。

これまでと違う時間の流れ方をしている、今の治療期間を利用して、挫折した西田幾多郎、井筒俊彦を読むということをやってみたいと思っています。

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