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そのビッグワード、ちょっと待った

2年くらい前、とある対話の場に参加したときのことだ。

その日のテーマは「よいママとは?」。私は最初、他の人の様子を見ながら話を聞いていた。参加している人たちは全員初めて会う人で、年齢は20代~60代とばらけている。女性は2人だけだったので、途中から私は「ママとして」の自分の体験を踏まえて発言をした。

たしか、

大学生と高校生の息子がいるが、これまでの自分自身を振り返って、自分が「よいママ」だとは到底思えない。だが、ここでいう「よいママ」というのは、自分で考えたものではなく、いわゆる世間一般に作られた「よいママ」のイメージな気がする。自分はそのイメージ通りのママには絶対になれないと思うし、そうならなくてはいけないのなら「よいママ」じゃなくていいやと思う。それに、世間一般の「よいママ」が、本当にうちの子供たちにとってよいかどうかは、彼らの問題なので私にはわからない。

みたいなことだ。

その後、「逆によくないママってどんなママ?」という話になり、虐待をする、自分の価値観を押し付ける、なんでも怒る、口うるさい、などなど、よくないママのイメージについての発言がいくつも出てきた。

その流れで、もう一人の女性がこんな発言をした。

「結局、全部、愛なんだよね~。ママがやることは、全部愛から来ているんだよ」

私は、その人が言わんとしていることはなんとなく伝わってきたものの、とっさに思った。

(いや、全部愛なんだ!はダメでしょ。でかすぎるでしょ)

その人のなかでどういう思考の流れがあって「結局」なのか。
その人のなかでどこからどこまでが「全部」なのか。
それを私は知らない。他のみんなもおそらく知らない。

そして何より、「愛」というビッグワード
その人はどういう「つもり」で「愛」という言葉を使っているのか。
それはここにいる私や他の人と同じ意味やイメージの「愛」なのか。

そういうことを思いながら訊ねてみた。

「その”全部愛から来ている”というのは、一般的に言われていることなんですか? それとも何かそう思う体験があったのですか?」

「ママたちは自分はダメなママだって悩んだりしているけれど、ママたちがやることってみんな子どものためによかれと思ってやっていることだから、根本にあるのは全部愛なんだよっていうと、みんな安心するのよね」

といった内容の返答が返ってきた。何かの相談職をしている方らしかった。

その後、対話がどういう流れになったのか忘れてしまったけれど、その方にとって、「全部愛なんだ!」はゆるがない結論のようだという印象が強く残っている。

後から振り返ってみると、私はそのとき

1)「愛」というビッグワードを使って、何かを言った気になること
2)参加しているそれぞれの人の発言を、一緒くたに意味づけしたこと

という2つに引っかかっていたようだ。

2)に関しては、対話が熟していない段階で「つまり」とか「ようするに」とまとめることによって、ばっさりと切り取られてしまう質的なものがあるということなのだが、また別の話になるので今回は触れないでおく。

今回は1)のビッグワードに関してだ。

「愛とは何か?」というのは、とんでもなく大きなテーマだ。

苫野一徳さんが20年考えるくらい、大きなテーマだ。

エーリッヒ・フロムは『愛するということ』のなかで「愛することは技術であり、能力である」と述べているが、それを説明するのに本1冊費やしている。

キリスト教は「愛」の宗教だし、仏教では「愛」はあまりよろしくない意味で使われている。おそらく「愛」の意味に近いのは仏教では「慈悲」だ。

挙げればきりがないほど、「愛」にはいろんな定義、解釈、意味がある。

それを「全部愛なんだ!」と言われてもよくわからない。もうちょっとくだいて別の表現で、「愛」という言葉でどんなことを言い表したかったのかを教えて欲しい。そのときの対話の場でそう言えればよかったのだけれど、そこまで瞬時に自分の思考を整理できなかったことが少し悔やまれる。

その言葉を使う背景を聞かないと、意味がわからない言葉というのはたくさんある。いわゆるビッグワードと言われる言葉で、平気で使う人は案外多い気がしている。

かくいう自分自身が、過去、自信満々に、なんの補足もなく、ビッグワードを使っていた。いまだに無自覚に使ってしまうことも多いかもしれない。だから使う人の気持ちはとてもよくわかる。

自分の例でいうと、ある程度の経験や思考の筋道があってその言葉に辿り着いているし、本当にその言葉がぴったりしっくりくると思っている。なんなら「正解を見つけた」「真理を見つけた!」「これが最も本質的な考え方だ」くらいに思っている。

特に、自分が時間をかけて辿り着いた結論(めいたもの)だったりすると、「わからない人の理解が足りない」くらいに勘違いしてしまうこともあったりする(思い出すとめちゃくちゃ恥ずかしいのだが)。

だけど、周りの人は私ではない。自分が思っていることを、周りの人はまったく思っていないかもしれないし、同じようなことをまったく違う言葉で表現するかもしれない。

だから、ビッグワードを一段も二段も、くだいて言う必要がある。その上で、最後にまた、ビッグワードに戻ればいい。

「愛」という言葉だけでなく、私がよく使っていたのは、バランス、つながり、対話、理念、フロー、喜び、楽しさ、やりがい、信じる、etc...
「ビッグワード」という言葉も、ビッグワードに入るだろうか。

対話の場や何かを書くときには、こういったビッグワードは要注意と自分に言い聞かせている。

使うなら、どれだけでもくだいて説明できるくらい、心して使うべし。書いたものを読み返してビッグワードに気づいたら、言い換える努力をするべし、と自分に戒めている。

だが、わかっていながら使ってしまうこともまだまだ多い。なぜかというと、一言で言いたいことを言える気がして、ラクだから。ようするに、さぼり、手抜きなのだ。

ビッグワードを使うときは、しっかり言葉をつくした先の、最後の仕上げで使おう。具体の言葉を積み重ねた最後のトッピングが、抽象のビッグワードだ。

こういう「べき論」的なことを書くと、自分ができていないことを指摘されるんじゃないかと身が縮むけれど、できていないからこそ、自分に戒めているということだけ、今一度書いておきます。


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