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映画『82年生まれ、キム・ジヨン』を観て

韓国で130万部以上のベストセラーとなった原作は、日本語にも翻訳されている。2年前の発売時、SNSなどで紹介している人が多かった印象がある。顔がなく、向こうの風景が見える表紙はインパクトが大きかったが、私はなぜだか手にはとらなかった。

その話題作が映画化され、日本では10月から公開となった。公開終了が迫っていたので、昨日観に行ってきた。

駆け込みで観に行った理由は、何人かの方のnoteで感想を読んで興味を持ったから。その多くはとても「共感的」なものだった。自分も同じような苦しみがあった、これをもっとみんなに見てほしい、というような。

ひとまず、映画のあらすじ。

結婚・出産を機に仕事を辞め、育児と家事に追われるジヨン。常に誰かの母であり妻である彼女は、時に閉じ込められているような感覚に陥ることがあった。そんな彼女を夫のデヒョンは心配するが、本人は「ちょっと疲れているだけ」と深刻には受け止めない。しかしデヒョンの悩みは深刻だった。妻は、最近まるで他人が乗り移ったような言動をとるのだ。ある日は夫の実家で自身の母親になり文句を言う。「正月くらいジヨンを私の元に帰してくださいよ」。ある日はすでに亡くなっている夫と共通の友人になり、夫にアドバイスをする。「体が楽になっても気持ちが焦る時期よ。お疲れ様って言ってあげて」。ある日は祖母になり母親に語りかける。「ジヨンは大丈夫。お前が強い娘に育てただろう」――その時の記憶はすっぽりと抜け落ちている妻に、デヒョンは傷つけるのが怖くて真実を告げられず、ひとり精神科医に相談に行くが・・・。(公式サイトより)


乱暴なのを承知で一言でいってしまうと、「抑圧された女性」の物語だ(それだけではないのだが)。この小説を読んだり映画を観たりして「これは私のことだ」と思う人が多いらしい。

だが、私は「これは私のことだ」とは思わなかった。
私からは、この主人公は「恵まれている」ように見えた。

たしかに、韓国であっても、日本であっても、理不尽なことは多い。
女性であるというだけで多くのことが制限される。
そのことは、多くの女性が共感するところだろう。

それでも。
義母がうるさいにしても、旦那さんが気を回してくれている。旦那さんが浮気をしているわけでも、家庭を省みないわけでもなく、手伝ってくれている。両親も健在で、姉弟や旦那さんとも仲が良く、同僚、上司にも理解者がいる。お金の心配も、とりあえずない。

比べるものではないが、もっとひどい状況にいる人はたくさんいるのではないか。そんな風に思ってしまっていた。途中まで。

だが、観終わるころには、おそらく私のような人間が、自分の枠組みで比較してジャッジをする人間が、この主人公のような女性を、より苦しめてしまうのだろう、と思った。

今年芸能人の自殺が相次いだように、まわりから見えているものと、本人の苦しみは一致するわけではない。本人にしかわからない、本人さえわからない苦しみがある。苦しみがあるということを、他者がジャッジしてあれこれ言う資格はない。

私が「恵まれている」と思った、主人公のジヨンの環境や人間関係は、彼女の受容性、さらに我慢や抑圧の結果成り立っているのだとしたら・・・。事情はまったく変わってくる。「恵まれている」ように見えることが、その本人を苦しめている壁や鎧になるからだ。


高校生のとき、バスの中で痴漢に遭ったジヨンに対して、父親がこんなようなことを言う。

「誰にでも笑顔をみせるな」
「すきをみせるからだ」

公園で小さい娘を連れてベンチに座っていると

「主婦は気楽でいいね」

お店で飲み物を買おうと並んでいると

「最近この店、子連れが多いよね。外に行こうか」

その人たちは何の気なしにつぶやいていても、その言葉は刃のようにジヨンを切りつけ、ますます追い込んでいく。

ジヨンは解離性同一性障害の(ような)症状を見せるようになる。それはあまりの苦しみから逃れるための防衛機制だろう。

勘違いしてはいけないのは、そういう病になるのは、本人のせいではないということだ。

病気はシステムが作る、と私は考えている。これは家族療法の考え方に基づいているが、家族、親族、職場、地域、社会などの社会的集団、社会的システムの歪みが、一番もろいところに出てくるものだと思っている。言い換えると、システムの歪みを、そのシステムの中の誰かが引き受けて、病気という形で表してくれているものではないか、と。

ジヨンが解離したとき、ジヨンは自分が慕っていた人間になる。自分の支えとなっている存在になる。そうやってギリギリのところで、自我を守っているのだろう。さらにその存在が発する言葉は、当のジヨンだけでなく、抑圧された社会でシステムの歪みを引き受けている人の声を、代弁しているのだと思う。小説や映画にこれだけ反響があるということは、声を押し殺している人たちの言葉を、この作品が発したということなのだろう。

映画の中でジヨンは、

「こういう生活もいいと思う。ときおり幸せを感じる。でも、閉じ込められている感じがする」

という状態から、最終的に自分を解放してあげることができた。完全に解放されていないにしても、希望を持てる終わり方だった(映画の終わりは、小説とは違うらしいが)。

そういう意味で、気づいた人が集団システムに働きかけて違うループを回していくことを試みつつ、病を引き受けている人もまた、自分というシステムに働きかけて、違うループを回していけることを願わずにはいられない。そのためにはもちろん、映画のように理解者や支援者が必要だ。

私が最初に「もっとひどい状況の人がいるのではないか」と思ったのは、その部分だ。理解者や支援者に出会えないまま、ただ苦しみ続けなければならない人、置き去りになっている人がたくさんいるのではないか、ということだ。そこに対して自分が何ができるのかわからないし、これからも考え続けなければいけないことなわけだけれど、今年自己洞察瞑想療法士養成講座に通っているのは、そのための自分なりの取り組みだ。


私自身は、女性だということで不利を被った(被っている)とは思っていない。ひどい扱いを受けたことはいろいろあるが、自分のアイデンティティがゆらぐほどではなかった。子どもを産み育てることは、自分の経験を振り返っても、それはそれは大変なことだ。だけど、それが女性特有だとは思っていない。

私がそう思うのは、家庭にしろ、職場にしろ、この映画の主人公のような環境には「たまたま」いなかったから、ということかもしれない。だからといって、苦しみがなかったわけではない。環境が変わればまた別の、特段女性に限ったわけではない苦しみがある、というだけだ。私が最初に主人公を「恵まれている」と思ったのは、そういう違った立場(詳細省きますが)の苦しみから見た時の、素直な感想だ。

男性だって同じだろう。男性には男性ならではの生きづらさや、逃れられない苦しみがあるだろうし、そもそもそれらの苦しみが、女性/男性だからこそなのか、男女関係なく起こることなのか、あいまいなことも多い。完全に線を引けることの方が少ないのではないか。

もちろん社会に根強くはびこる男尊女卑や女性蔑視の価値観、親やそのまた親から受け継いだ負の連鎖みたいなことは、無視できない問題であり、改善されてほしいと思うが、だからといってこの作品を、女性の、抑圧からの解放を呼びかけるもの、という風にはとらえたくない。

代わりに、

今、家族は、職場は、学校は、社会は、どうなっていますか?
あなたのまわりに苦しんでいる人はいませんか?
あなた自身はどうですか?
何かに閉じ込められている感じがしていませんか?

そういう投げかけとしてとらえ、できることなら自分を省みたり、誰かを気にかけたり、大きな視点で自分が関係しているシステムを捉えなおしたりと、そういうきっかけにできたらいいなと思っている。

いつも「思っている」ばかりだな、と書きながら思うが、あくまでも今日の時点でということだ。

今日の私はこんなですよ、こんなことを考えましたよ、ということを未来の自分に向けて発している。発することで、それはきっと届くはずだ。あなたは今日の私のことを、忘れていませんか?と。

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