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言葉のラベルを貼らないで。自分で世界に名前をつけるから。

以前、あるグループワークに参加しているときに、私が発言した内容に対して、「ああ、○○ね」と、今どきのよく使われている単語に一言で言い換えられたことがある。

たしかに内容は似ているし、そう言われればそうなんだけど、でも私はその言葉を使ってはいない。「〇〇だ」というのは、その人が私の話を聞いて、思ったことであって、私が言ったことではない。

そのとき、私の意見は、「〇〇だ」ということにされて、記録をされた。
それは私の意見じゃなく、その人の「解釈」なのに。

たいしたことじゃない、と言われればそれまでなのだけれど、そのときは私なりに真剣に考えて、自分の体験を踏まえてその話をしたのだった。だから、その文脈のかたまりをぺろっと一言でラベルづけされたことで、その後なんとなくもうその人には、本当に思うこと、本当に考えていることを話そうとは思えなくなった。その人がキャッチしやすい言葉を発したほうがいいかな、というふうにその場を「こなす」モードに切り替えてしまった。

そのグループワークというのは、「よいチームを作るには?」について考える場だったのに・・・。

そんな風に、誰かの話したことにたいして、ぺたっと言葉のラベルを貼ってしまう人がよくいる。仕事ができると言われている人や、リーダーや経営者などにも結構多い気がする。

おそらく、大量のタスクを効率よくこなすためにこれまでもそうやってきたのだろう。入ってくる情報に、その人の枠におさまりのいい言葉のラベルを貼ることで、整理しているのだろう。

でもそういうとき、確実に、目の前の人よりもタスクが優先されてしまっている。その人が語った言葉も、その背景の情報も、まったく抜け落ちてしまっている。

かくいう私も、デフォルトが、超タスク志向なので、いつも人の気持ちを置き去りにしてしまっていた。

仕事でもそう。家族に対してもそう。そういうことを体験的に学ぶ人間関係トレーニングに参加しているときでさえ、タスクスイッチが入った瞬間にそんなことは頭の中から吹き飛んでいた。以前、USJで脱出ゲームのアトラクションに入ったとき、家族が崩壊しそうになったこともある(笑)

メガネに「タスク < 人の気持ち」と書いて、いつも見えるようにしておかないと、ニワトリ3歩で、すぐ忘れる。自分のこうあるべき、こうしたい、という進め方に突っ走ってしまう。


現代言語学の父と呼ばれるソシュールは、もともと存在する事物や世界に対して言語で名前をつけているのではなく、人が言語によって世界を分けていると考えたという。

たとえば、英語では日本語と異なり「兄」と「弟」をbrother、「姉」と「妹」をsisterと呼んでおり、年齢が上か下かで分けていない。だが、敬語の文化が強い国は、確実に呼び方が年齢により分けられている。色の名前もそう。色はグラデーションであって境界はない。区別をする必要があるから、名前をつけている。

そんな風に私たちは、言葉によって世界を「分ける」ことによって「分かろう」としているのだという。

言葉のラベルがついたほうが安心することもある。
以前書いたが、長年治らない「原因不明の湿疹」よりも、「アトピー性皮膚炎」と言われたほうが、なんとなくすっきりする。
落ち着きがない、集中が続かない、すぐ忘れると自分の欠点を嘆くよりも、ADHDと言われたほうが、自分のせいじゃない気がしてなんかちょっとほっとする。

不安定な状況のなかでは、より言葉のラベルを求めがちだ。
10年ちょっと前、独立して、明日がどうなるかもわからないときは、「肩書き」を懸命に考えていた。会社名も役職もない、ただのなんでもない自分で社会に立つには、あまりにも不安で無防備に感じだのだ。


だが、大事なのは、ラベルではない。実体、本体だ。
ラベルを貼られた側の人、事象、気持ち、状態、何らかの感じ、が本体だ。

書くときに、言わんとしていることにピタッとする言葉が見つからないとぐっと負荷を感じることがある。そういう状態はストレスに感じる。

だが最近は、すぐに見つからなくてもいいんじゃないか、という気がしている。

言葉のラベルを貼る前の、その「何らかの感じ」を、見て聞いて、触って嗅いで、じっくり味わってみてもいいんじゃないか。私たちはラベルを味わうのではない。本体そのものを感じて味わう生き物のはずだ。

子どもの世界は、とても豊かに感じられる。それは、言葉のラベルがつく前の感覚で満ちているからだろう。

だから「言葉が見つからない」ことをもっと喜んでもいいんじゃないか。
思う存分、その見つからない感じを楽しんでいいんじゃないか。

そしてそこから自分で、手探りでフィットする言葉を見つけたら、正々堂々と世界に示せばいい。それが、自分の言葉で語るということじゃないだろうか。それが、私やあなたが、リアルに接している世界の豊かさを、外の世界に示すことになるのではないだろうか。

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