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まるネコ堂の文章筋トレをふりかえってのひとり言

まるネコ堂の文章筋トレに、今日は11回目の参加。回数に意味はないけど、一応カウントしている。ラジオ体操のスタンプみたいなものだ。10分と60分で書く、に取り組んだ。

最近、なんとなく文章筋トレでちゃんと書けていないことが続いているように思っている。文章を読み返してないからわからないけど、最中や終わったあとの感じとして。

「ちゃんと書ける」とはどういうことか?というと、上手い下手ではなく「書きたいと思ったことがまあまあ書けた」ということなんだけど、最近はそこに至らない。なんでか?と考えると、まあ大前提として、限られた時間の中で書き切れる筋力がないということもそうだし、そこまで書きたいと思うことがその場で思いついていないからということもある(言い換えると、どうでもいいことは書きたくなくて、やっぱり自分の中にあるなにかしらを言葉にしたいという欲求があるということで、その欲求から自由になることがまず必要なことのような気もするが)。

加えて、継続していると「土手」のようなものができてくるから。「土手」というのは、違う言葉でいうと、「っぽさ」のこと。

たとえばnoteでは「自由に書く」なんて私は言っているけれど、不特定の人の目に触れるという状況や、過去の投稿記事へのリアクションなどを日々見ることで、自分の中にある種の制限ができてくる。意識してやっていることも、気づかずにやっていることも含め、書く内容や書き方に、影響が出てくる。人の目を意識して、noteならnoteの「土手」や「っぽさ」から外れる内容は自粛し、捨てて、書かないことになる。迷いながら、だけど。

文章筋トレでも継続して参加していると似たようなことが起こっている。限られた人数だけれど、これまで目にした他の人の文章から自分が感じる「っぽさ」があって、それに対してそこで交わされるコメントの数々の「っぽさ」があって、自分が書いた文章にもらったコメント「っぽさ」があって、それらのことから何かしらの「まるネコ堂の文章筋トレっぽい」感じの「土手」が、自分の心の中に、形作られてくる。

そのこと自体は当たり前のことだと思っている。いい悪いではなく、自分が作っているものなので、認識してつきあっていけばいいことだ。だけど、その土手の中を流れてくれそうな文章の呼び水を、最近は見つけられていない。なんかこうやって書いていると、マッチポンプみたいに思えてくるけれど。

文章筋トレで、実際に書き始める時間まで書くことを何も考えていないと、やっぱり直前のことが浮かんでくる。今日だと、朝考えていた「時間」について。『モモ』の世界における時間について考えていたから。カイヨワの「遊び」について。特に「パイディア」と「ルドゥス」(※)の2極について。それから、昨日参加した文章講座とその後のオンラインミーティングについて。

(※) 自分のためのリンク

カイヨワは遊びの「パイディア(Pidia)」と「ルドゥス(Ludus)」という用語を発明することで遊びの本質を言い表した。

パイディア(Pidia)
即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力

ルドゥス(Ludus)
恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約に従わせる力

カイヨワはこのパイディアとルドゥスという2つの力を極として位置付けられた活動が遊びであるとした。つまり、遊びとは自由奔放でありながら何か見えない規則に縛られている、一見矛盾した行動であるとカイヨワは位置付けたのである。
(引用元)https://www.kunimiya.info/blog/2014/09/20/review-les-jeux-et-les-hommes/


で今日は、結果的に何を書くことになったかというと「昨日のこと」と、冒頭に書いたような「っぽさ」について。しかも途中で書くことを変えたので余計に思うように書けなかった。

書き始めのときはだいたいいつも、自分がそのことについて何が気になっているのか、何がわからないのか、についてはわかっていない。書きながら探っていく。

で、その文章に対してコメントをもらうと、「そういうことじゃないんだよな」と思うことがよくある。

大前提として、「どう読んだか」というコメントなので、それはその人のものだということはわかっていて、違う違くないということではない。それに自分のことをわかってもらおうと思って書いているわけじゃないので、それでOKだし、そもそも文章が不十分過ぎるのだからしょうがない。

だから「それはそれとして」受け取っておいて、終わったあとに「そういうことじゃないんだよな」と検証する時間を、自分ひとりで持てばいいのだろう。

だけど実は、その「そういうことじゃないんだよな」と思ったときこそ、「自分の言いたいこと」や「自分が知りたかったこと」が見つかる「隙間」ができるときでもある。裂け目や突破口が見えるというか。そうすると、その隙間に突入したくなるので、それ以外のことをあんまり考えられなくなってしまう。4ハウスのさそり水星が、急にスイッチの入ったドリルのようにもぐる実力を発揮する。前提を保留しながら対話をすることもできない。

だから話をしていても話をできたなという感じにならない。話をすることでまたあらたな「そういうことじゃないんだよな」ということが生まれて次の突入が始まる。「コミュ障か」と思いつつ、そういう異質や差異が、ベイトソンの「違いを生む違い(a difference which makes a difference)」だとも思うので、結果的にはよい時間になったなあと、いつも後から思う。

ちなみに私は今日「逃げる」とか「戦う」とかって内容の文章を書いたけれど、改めて考えるとそんなにマッチョに戦っていない。自分のことではなく、戦っている人を思い浮かべながら書いていたのだろう。

私自身は別に「っぽさ」と戦うわけじゃなく、独自の文章表現を目指しているわけでもなく、自分のオリジナルの文体を捜し求めているわけでもない。ただただ、クドさやクセのない、中原中也の「一つのメルヘン」という詩で読まれているような、さらさらとさらさらと流れるような透明な文章を書きたいと思っている。実用的な文であれ、文芸的な文であれ。

さらに、言葉や書くことを探究している目的は、わからないことを考えるためであると同時に、他者との溝に架橋をすることだ。だから最終的にはトレーニングをしながら、特定の「誰かに向けて」書くというところに向かっている。

今日のnoteはひとり言だけど、その「誰かに向けて」というのは、改めて自分の中で確認したことだ。

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