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写真から学んだ「意味で見ない」ということ

2年前、写真表現の教室に通っていた。
通おうと思った理由はいろいろあるのだが、書き出すとダラダラ長くなるので努めて一言でいうと「文章を書くときの ”眼” が手に入る」と思ったからだ。

クラスが始まって基本的なカメラの知識を学んだあとは、とにかくたくさん撮って講評して、の繰り返しになった。「読むと書く」のように「撮ると観る」を繰り返す。

最初の取材に出る前に「やらないで」と言われたことが3つある。

画面構成・・・奥行、シンメトリーなどは考えない
意味性・・・それが何であるかは考えない、意味づけせずにモノを観る
美意識・・・一般的な、知らず知らずに身についてしまった美意識を忘れる

これはおそらく、他の写真教室とは違うところだろう。

普通にしていたら、構図を考えて撮ってしまうし、美しいものを残したいと思って撮ってしまう。でも私の場合、もともとそんなに写真を撮るのが上手いわけではないので、大体日の丸構図だ。美意識も優れていない。なんなら劣っている部類に入りそうだ。

私がなかなか抜けられなかったのが「意味性で撮ってしまう」ということだ。

車、キャベツ、ブランコ、石、紫陽花、信号、植木鉢、、、

そういう風にひとつのモノと思っているものであっても、様々な形や部分からなっている。そういう「かたまりで撮らない」ということだ。意味とかかたまりでモノを捉えてしまうクセからなかなか抜けられなかった。

ただただモノを見て、「鉄とガラスの境のこの部分の形がおもしろい」とか「この錆の部分の質感が不思議」などと意味に囚われずに「モノそのもの」を観ることができるまでには、時間を要した。

逆に「やること」として説明されたのは、「形態」、「質感」、「量感」、「空間」を撮るということだ。もっというとそれを2次元の写真に再現するということだ。

だが、初心者はとにかく最初はおもしろいと思う「形態」をしっかり捉えることから始めよと言われた。モノの気になる部分を、断片的に、単純に、寄り、引きで、光のあたり方を意識しながら、角度を変えて何枚も撮る。150分で150枚を撮るところからスタートした。

さらに、人工の物を取っても、それは誰かの作ったものでしかない。「写真表現だからね」と言われた。表現とは撮影者が発見したものだ、と。

そうすると、結果的には風化、浸食、壊れたなどして形が変わっているものや、錆びとかヒビとかゴミのようなものばかり撮るようになる。そして、道端で道路のひび割れとかごみばかりを一眼レフで撮っている怪しい人が出来上がる。

「通報されないように気をつけてね」と講師は言っていた。もし撮影をしていて咎められるようなことがあったら、写真教室の会員証を提示して説明するようにとの説明まで受けた。

※ちなみにここに書いたのは、あくまでも入門クラスと基礎クラスにおける一部分の話ですので、これで全部ではないです。念のため。

で。
実際に言われたようにやってみると、身の回りには、普段まったく目を向けないものが溢れているのだと想像以上に驚いた。世界が突然姿を変えたかのようだ。そりゃあそうだ。普段は目には入っていても見ていない裏側だけを見ながら街を歩くようになるのだから。表と裏、図と地が逆転しているようなものだ。


たとえばこの写真。これ何だかわかりますか?

画像1


これは道端ではなく、博物館に展示してあった「溶岩」なのだけど、「溶岩を撮ろう」とはしていない。「なんかおもしろい形だなあ」と思ってシャッターを押していることが画面から伝わるだろうか。


そしてこの写真。

画像2


これは家の近所で見つけたモノ。「でっかいサボテンだなー」という驚きがまずあって、でも「サボテン」というかたまりは忘れて背景に押しやる。そうするととにかくこの「ひび割れと皺」が気になる。思わず手を伸ばして「感触」を確かめたくならないだろうか。


こんな風に写真を撮ることは、思っていた以上に楽しかった。もちろん技術的にはいたらないところばかりだ。3時間かけて300枚撮っても、講評に出せそうなのは2~3枚くらいしかない。それでも自分独自の発見をカメラに納めて人に見てもらえること、こういう新しい表現のしかたに喜びを感じた。


そんな風に週に1回のクラスに半年通ったが、中級クラスが始まる前にやめた。初級クラス最後の全体講評会で、「プリントの黒が全然ダメだよね」と思いっきりダメ出しをされて心が折れた。

当時、毎週の講座の時間に加えて、撮影や印刷にもすごく時間をとられていた。とくにプリントは、ある程度撮影をする度に教室に行って、何度も印刷して確認しながら調整をしなくてはならなかったので、「あんなにやったのに……」とやる気がぷつんと切れてしまった(ちなみにデジタルプリントです。このとき私にはフイルムなんて到底無理だと思いました)。

いったんやめて、また心と時間とお金に余裕ができたら続きから行こう、と自分で折り合いをつけた。


さて、そもそもの教室に通った目的、「文章を書くときの ”眼” が手に入ったか?」についてだ。

意味性で観ない。
発見を表現する。

ことをしつこくやり続けたことで、確かに文章を書く上で重要な「メガネ」を手に入れたと思う。でも、今は、わざわざそのメガネにかけ替えないと使えないし、かけ替えても目が慣れるまでに結構時間がかかるような状態だ。

今日はこの投稿を書くことによってその「メガネ」を引っ張り出してきて、メガネふきで拭いて、また使えるようにした感じだ。

ちなみに、今日は書いていないけれど、「人物を撮る」という課題もしょっちゅうあってこちらはこちらで別の意味で非常に学んだことが多かった。人物を撮るということはそこに「関係の物語」が介在する。それはまたいつか(と得意の先延ばし)。


ここまで書いて思い出したのだが、 この教室に通い始めた頃に参加した『脳の右側で描け』の5デイ・ワークショップでも同じようなことを思い、同じようなことを書いている。なんならこっちの方がより詳しく書いている。


こんな風に、メガネを手に入れてもいつもメガネケースに仕舞いっぱなしなんだよな、私は。これを機に、いつでも使えるようにしたいものだ。

ただし。
いつもいつもこんな風に世界を見ていたら、生きにくくてしょうがない。普段のモードと写真や右脳モードを上手に切り換えながら、世界をわが手でちゃぷっとつかんで表現する喜びを味わっていきたい


え? 「したい、したい」言ってないで、今すぐにでもその「意味で見ないというメガネ」をかけて言葉で表現してみたらって言いました?

それは私の内側の声か。
そうね。そうだよね。「したい」と思ったときにほんのわずかでもそれをやってみる。一歩踏み出す。それは大切なことだ。できないとしたら、できるレベルまで具体的にイメージされてないということだ。それはポエム(幻想)だ。

きっと明日までに、私はこの文章を何度か読み返す。だから、ここまで書いておけばさすがに何か行動するだろう。と、明日の私にまたパスを回しておいて「。」を打つのである。

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