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同じ本を、目で読むときと、耳で聴くときの違いについて

Audibleで、角田光代さんの『八日目の蝉』を聴き終えた。


ナレーターは大塚寧々さんと蓮佛美沙子さん。
1章の聴き始めは大塚寧々さんの活舌がちょっと……と思ったが、1.2倍速にしたらそこまで気にならなかったので、聴き通すことができた。

2章の蓮佛美沙子さんは活舌がよく、気持ちよく聴けた。そしてお二人とも、すごく引き込まれる語りだった。

今回、3週間くらいの間に、小説を読んで、映画を観て、Audibleを聴く、ということを試してみた。同じ作品に異なるメディアで接してみて、どのように違うか?というのを体験してみたかったからだ。

ちなみに、『八日目の蝉』は過去にNHKでもドラマ化されており、NHKオンデマンドで途中まで観たが、原作と異なるアレンジが多くキャストがちょっとしっくりこなくて、途中で観るのを止めた。


で。
映画は時間的な制約もあり、どうしても原作をそのまま映像化することはできないので、異なる作品としてとらえ、今回は比較から外しておく。ちなみに、『八日目の蝉』の映画はすごくよかった。原作を読んだ後に見ても、”物足りなさ”を感じなかった。


さて。
1つの作品を、目で読むときと、人の声で読まれたものを聴くときの違いについて、考えてみたい。

まず、自分が小説を読んでいるときに何をしているか。
文字で描写されている世界を、頭の中でイメージとして立ち上げている。

それはリニアにつながったものではなく、自分がこれまで見たものや行った場所など、粒度のバラバラな記憶の断片という粘土で、ペタペタと世界を作るような感じのことをしている。他の言い方でいうと、映像や画像やスケッチなど、視覚的な素材でコラージュを作っているという感じだ。

それとは別のことも同時にしている。だいたいが、登場人物に自分を重ねながら読んでいくので、ページが進むにつれて感情的に作品に没入していくことになる。『八日目の蝉』の場合は、不倫相手の子供を誘拐した希和子に自分を重ねていた。だんだん自分の感情が希和子になっていった。希和子の薫に対する愛情が育っていくように、自分も薫を愛していった。

そういう視覚的コラージュと、特定の人物への感情移入ということが、目で読むときに自分が行っていることだ。


では、耳で聴いているときに何をしているか。
読んでいるときと同じように、聴きながら風景や情景を立ち上げている。そこは同じことをしているように思う。

だが、大きな違いがある。
耳で聴いているときは、そこに他者の声が介在している。ナレーターは単に作品を読み上げるだけでなく、そこに役としての「演技」が入る。

「演技」とたった2文字で書いているけれど、ナレーターの、書かれていないものまでをも汲み取って出しているであろう声によって、こちら側が聴いているときにイメージするもの、感じることは、多大に影響される。

読んでいるときは自分のペースで、純粋に自分が響くところに感情が振れていたが、声を聴いているときは、演技がばしっとハマっている部分に「うっ」と感情が揺さぶられる。文字で読んだときに響いたセリフではないセリフに、心が反応する。ナレーターの声の波動に影響を受ける。

違う言い方をすると、作品中で力を持つ言葉が、読んでいるときと聴いているときとでは異なる、ということだ。


あと、これは私の個人的な感覚だけれど、読んでいるときはどちらかというと観客席からスクリーンを見ているようなイメージをしがちなのに対して、聴いているときは空間的に広がりや奥行きを持ってイメージをしている。これ、違いがまだうまく言えないのだけれど、視覚よりも聴覚の方が、他の感覚をより一緒に使うからじゃないかと思っている。


以前、本→映画→Audibleと、全く同じプロセスで又吉直樹さんの『劇場』という作品に触れた。そのときは最初に本を読んでから1年近く間があいていたので、本の内容をざっくりとしか覚えていなかった。そのため、映画の影響を大きく受けた。Audibleを聴きながら、映画のシーンや役者さんを思い浮かべることが多かった。だから、純粋に「読む」と「聴く」を比べるには、映画化された作品があってもそれは観ずに、間もあまり開けない方がいいように思う。忘れてしまうと比べられないから。

さらに、どの順番で作品に触れるかも大きく影響しそうだ。最初に触れたものよりも、後から触れたもののほうが、1回目の下地がある分、より作品世界を細やかに深く、感じやすくなるだろう。同じ本でも、1回目に読んだときより、2回目に読んだときの方が、いろいろ見えてくるのと同じだ。


ということで、「読む」→「聴く」の順番を変えて、また比較してみようと思う。

ディーリア・オーエンズの『ザリガニの鳴くところ』は、Audibleで初めて触れた作品だ。これを本で読んでみるとどうなるか。他にも、Audibleで初めて触れようとしている作品がいくつかある。それらを2~3冊試してみてから、今日の続きを改めて考えてみたい。



最後に、以前、ニャークスのヤマダさんの記事のコメント欄に書き逃げしたことについて、ずっと心に引っかかっていたので書いておきたい。

>>「耳で聴く」ことの身体性というのが、今気になっているんです。耳で聴いたときの身体への残り方、これはなんなんだろうか、と。

と私が書いたことについて、

>身体に残る?ずっと聞くことに集中し過ぎると、何かしらが“残る”ような感覚があるということですか?

とコメントをいただいていた。

雑な書き方をしてしまったけれど、これは、耳で聴いたときの方が、作品に出てくる場所に行ったとか、登場人物のそばにいたとか、登場人物の感情になってしまってしばらく抜けないとか、「自分が体験した」という感覚になることが多い、という意味だ。

私はウォーキングをしながらAudibleを聴いていることが多いので、自分が身体を動かしながら聴いているからかもしれないと思っていた。本を読んでいるときは身体はじっとしていて、観念の世界だけで読んでいるから、だから違うのかなと。

でも、聴覚と身体性に関していうと、他にも気になることがある。例えば、リストの「ラ・カンパネラ」のようなピアノ曲を聴いていると、自分の心臓が叩かれているような感じがする。バイオリン曲を聴いていると、バイオリンの弦の振動に共鳴するように心臓が震えている感じがする。音楽と小説とではまた違うかもしれないが、聴覚と体感覚の関係については、以前から気になっていた。

そこで、聴覚と身体性の関係について何か説明しているものがないかと探してみると、こんな記事がヒットした。

聴くことと身体を感じることのかかわり

私たちは生まれてからずっと,何かが顔や頭に触 れたときに,あるいは手で何かに触れたときに鳴る音と同時に皮膚に感じる触覚とを一緒に経験し,その関係を学習しています.両者の関係は非常に強いため,音によって触覚が生じたり変化したりするのです.
見たり,聴いたりする感覚は多くの場合,身体から離れた対象に関するものですが,触れる感覚は対象の存在を確かめる感覚だといわれています.

つまり、聴くことによって何かしらの「触れる感覚」が生まれ、それが「自分が体験したこととして、身体に残る」ということなのかしら? という理解を、今のところしている。

まだ中途半端だけれど、このことは引き続き探究していこうと思う。
と、将来の自分にパスをまわして、今日は終わりにしたい。



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