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池尻大橋のいつものお店と、いつかの大雪の日

結婚する前の2年ちょっとの間、池尻大橋で一人暮らしをしていた。東急田園都市線の渋谷の次、三軒茶屋の手前。246沿いのマンションの4階の部屋は、ベランダの窓を開けると首都高速と同じ高さだった。首都高が渋滞しているときは、運転手や助手席の人とばっちり目が合う。どういう顔をしたらいいか戸惑ってしまうことがよくあった。

せまいワンルームだが、交通の便が良いのでうちに集まってよく女子会をしていた。キッチンは小さいから料理はほとんどせず、デパ地下などのお惣菜を持ち寄ってひたすら食べて飲んでしゃべる女子会だ。女友達との話題なんてひとつに決まっている。恋愛話しかない。一人ひとりの話を順番に聞いて、キャーキャーギャーギャー、わいのわいの、ゲラゲラゲラと、上下やお隣の部屋の方には本当にうるさいと思われていたのではないだろうか。

その頃よく行っていた近所のお店は、『火花』にも登場するへぎそばのお店「花しずく」。夜中もやっていたので、本当によく行った。そして、かなり前に移転してしまった和歌山ラーメン「まっち棒」。欧州カレー屋さんの「ビストロ 喜楽亭」。たまに足をのばして、三宿の「ZEST」(もう閉店している)か、世田谷公園のところにある「ラ・ボエム」へ。日用品や食品などの買い物はスーパー「ピーコック」(これももうない?)

にぎやかな時間も多かったが、圧倒的に一人で過ごした時間の方が多い。家では大体いつも紺色とグレーのスウェットを着て過ごしていた。3日に1回、レンタルビデオ屋さんに通った。店員さんには絶対「あの人また来た」と思われていただろう。この頃はまだVHSのビデオ。今となってはもうどんな映画を見たのか覚えていないけれど、1990年代の終わりには、とにかく毎晩1本の映画を見ていた。それだけ見ていたのに大して映画通になっていないということは、一人の時間をやり過ごすため、消費するために見ていたんだろうと思う。残念なことだ。

はじめてPCを購入したのもこの頃だ。当時のパソコンは今から考えると信じられないくらい大きかった。ワインセラーですかと思うくらい大きな本体に、横幅よりも奥行きのあるブラウン管のモニター。映画を見ていない時間はPCを使ってせっせとホームページを読んだり、メールを書いたり、WEBデザインの勉強をしたりしていた。

池尻大橋で過ごした時間は、どこか夢の中のような雰囲気がある。毎日暮らしていたはずなのに、思い出してもあまり実感がともなわない。ぼんやりと映画を見ているような感覚になる。何かの感覚がすっぽりと欠けている。毎日の仕事はそれなりに頑張ってやっていたし、恋人とは月に2~3回はあっていた。それでも、何かが欠けていた感じがする。

自分はこの街の住人ではなくて、よそものだという感じがいつもあった。生活がすごく偏っていたからかもしれない。すべてが246沿いで住んでしまうような、いつも決まった道しか通らないような、その土地や人々とは交わらないような、偏った生活だった。内へ内へ、自分へ自分へと意識が向いていたのだろう。まわりに目も足も、心も向けていなかった。かといって何かについて自分の中でじっくり考えていたわけではない。将来のことも、過去のことも考えず、ただ日々をやり過ごし、消費していた。


もっとも実感を持って思い出せるのは、いつかの大雪の日のことだ。あるとき、仕事のあと渋谷で飲んでいて、大雪が降ったことがあった。いつも飲んだ後はタクシーで帰っていたが、その日はどれだけ待ってもタクシーは捕まらない。タクシーを待っている間に、電車はもうなくなっていた。雪は足首が埋まるほどに積もっている。一緒にいた友人たち数人は、カラオケかどこかで朝まで時間をつぶしてから帰ると言う。私はとにかく部屋に帰り着きたかった。幸い雪はやんでいる。そのままヒールとストッキングで、池尻大橋まで歩いて帰ることにした。

とにかくツルツルすべった。ヒールのかかとを雪に刺しながら一歩一歩慎重に歩いた。一駅といっても2kmくらいあり、普通に歩いても30分くらいかかる距離だ。すべらないようにゆっくり歩いていたので、部屋に帰り着くまでに1時間以上かかった。体は完全に冷え切って、足はかじかんで感覚がなくなっていた。

びしょびしょなまま玄関を開けると、当時飼っていた猫(ポチ、ハチワレ、♂)が、「今起きた」みたいな寝ぼけた顔で「ンニャ」と迎えてくれた。震えながらユニットバスにお湯をため、着ていた服を脱いでハンガーラックにかける。「はーっ」と長い溜息を何回もつきながらお風呂であったまり、スウェットに着替える。冷蔵庫から缶ビールを取り出して開け、PCの電源を入れる。胡坐をかいた太股のうえにポチが乗ってくる。PCいじりに飽きたら、ドライヤーで髪を乾かす。ビデオの映画を流して部屋の電気を消す。途中で寝落ちしてもいいように、テレビはタイマーでオフのセットをしておく。枕を2つ重ねてベッドに横になる。

スタッとポチが枕元に飛び乗ってきて「ミャオ」という。私は布団を少し持ち上げ、腕枕の恰好をする。ポチがその腕にチョコンと前あしとあごを乗せて目を閉じる。そんな風に、いつかの大雪の日も、ポチと一緒に映画を「聴き」ながら眠りについたのだった。

そうだ。いつもそうやって途中で寝ちゃうから、当時見た映画をあまり覚えていないのだ。今は、寝る前の映画はkindleの本になり、腕の中にいたポチは板橋の霊園で眠っている。

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