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ライティング・マラソン#31の記録

7/16(日)にライティング・マラソンの31回目を実施した。

☆ライティング・マラソンとは?「ライティング・マラソン」とは私が勝手に言い換えて呼んでいるだけで、もともとはナタリー・ゴールドバーグの『書けるひとになる!―― 魂の文章術』という本の中で「作文マラソン」として紹介されているものだ。やり方は簡単。一定時間書く。時間が来たら自分の書いたものを読み上げる。お互いにそれを聞く。他人の書いた文へのコメントはしない。コメントをしたくなったら次の自分の文章にそれを表す。そうやって書いては読み、読んでは書くを繰り返していく。それをやるとどうなるか? ナタリーは「書きたいことが気軽にどんどん書けるようになる」、「自分を切り開く体験」になるという。

今月はあらたにやそりえさんが参加されて、先月に引き続き新たな風が吹いた。やそさんの文章は繊細で丁寧で、ふくらみがあって、「どうしてこんなに短い時間でここまで書けるの!?」と思うさすがのクオリティだったので、ぜひご覧ください。

さて、私のあまりさすがではないクオリティの文章を載せるのはどうかとも思ったが、マラソンの通過点として残しておきたいと思う。ちなみのこの日のテーマ決めは、タロットカードの小アルカナを引いて行った。

10分「忍耐」ソード8

今日のライティングマラソンでは、noteにアップできるような文章を書きたいと昨日から思っていた。なぜかというと、最近のnoteには哲学対話のレポートと、病気の経過観察のこと、そして韓国ドラマのことしかUPできていないからだ。

書く筋肉をしなやかに鍛えようと思ってやり始めたnoteだが、この2年くらいはそれができていないことがいつも心のどこかにもやっとした影を残していた。以前のように「書きたい!」というほどの欲求にはなっていないが、「書かなくちゃな…」という弱い罪悪感のようなものが育っている感じだ。

noteに限らず「やらなくちゃ」と思いながらずっと棚上げになっているものがいくつもある。棚上げをし続けたとしても、いつかやればそれでいいじゃないかと思うタチだけれど、物事には適切なタイミングというものがあるだろうし、自分の持ち時間にも限りがある。

何より、ぐっと腰を入れて取り組むべきときに取り組まないと、いつも途中までであきらめる「途中まで」がたくさん積み重なった人生になってしまう。

「途中でやめるのはよくないことなのか?」と考えてみると、やめてもいいと思うけど、やめたのならきれいさっぱり手放したほうが健全かもしれない。どこかで「いつか続きをやろう」という未練のようなものを残しているから「途中感」が「罪悪感」になっていくのではないか。だとしたら、完全にきっぱりとやめてしまえばいいのではないか。

20分「開拓」ソードA

途中で足踏みしていることの他にももやっとしたものがある。自分が書く文章に、自分が飽きてしまっているということだ。

5月の連休に、西村佳哲さんが主催する「書くワークショップ」に参加した。遠野のクイーンズメドウという自然豊かな、馬とともに暮らす施設で、5日間書くことに向き合った。最後の日だったか、私はこんなことを発言していた。

「自分の書く文章が、よくも悪くもいつも同じ感じ、同じパターン、同じトーンなので、それにちょっとうんざりしている」といったようなことだ。

よくいえば自分らしい文体。悪くいえばいつものクセ。よくも悪くもいわなければ、ある種の傾向。自分がキーボードを叩いて、もしくはペンを走らせて並べた言葉たちは、いつも同じリズムや同じ曲調だから、書かれている内容が違っても、またこんな感じか~となってしまう。

じゃあ、どうしたらいいか。
意識して文体を矯正してみるしかないのではないか。以前やっていたように、誰かの文体をそっくりそのまま写して、その呼吸をマネしながら書いてみるしかないのではないか。

自然に持ってしまったある種の傾向は、やっぱり意識しないと変えることは不可能だ。意識したって変えることは難しいだろう。意識しなければ何も変わらないどころか、どんどんその傾向が強固になっていくだけだ。

自分のなかの言葉になる前の何かに言葉を与えることを、西村さんは「ポンプアップ」と表現していた。水を汲み上げる力のようなものだ。ポンプアップした水を、どのように加工して出すか。そこにはまだいくらでも開拓の余地が残されている。これを書いたからには、ベイビーステップでも、開拓の一歩を踏み出したい。

今朝、5時になる前だろうか、猫たちが私の部屋をガサゴソと探検している物音で目が覚めた。ベッドの中で横になったままKindleでクリティカルリーディングの本の続きを読んだ。たまたま読んだ部分にはパラグラフライティングについて書かれていた。

日本語の段落は単なる意味のまとまりだが、英語でいうパラグラフは1つの論証のことをいう。1つの段落では1つのことについて述べる。1つの文章では1つのことしか言わない。1文目に結論を持ってくる。その後、根拠を述べ、最後にまた結論を述べる。抽象から具体、そしてまた抽象に戻る、といった内容だ。

たまたま今朝、それを読んだわけなので、このパラグラフライティングを文体矯正のベイビーステップとしてやってみることにしよう。次の30分の時間をそれに使ってみる。少なくとも、いつもの自分の文章ではなくなるはずだ。

30分「柔軟性」ペンタクル2

柔軟性とは、目の前の状況に対して、自ら基準を打ち立て、変数を考慮しながら最適な対応をする力のことである。

まず、「こういう場合どうしたらいいか?」と迷うような状況で、判断する基準や秩序がないとき、自分なりに基準や秩序を打ち立ててそれに沿って目的に近づこうとする行為は、柔軟性の1つの現れである。

たとえば、
カレーを作ろうと思ってスーパーに行ったけど、白身魚が安かったのでアクアパッツァにする。
忍耐、開拓、柔軟性というテーマで1つのまとまりのある文章を書く。
待ち合わせの相手が1時間遅れるというので、書店に行き最近出版されている本の動向を見る。

こういった状況では、どのようにもできる可能性がある。そのなかで、自分なりの基準を設定し、当初の目的である行為を完了させたり、新たな課題をクリアしたりする。これらは、柔軟性があるからこそ実現可能なことである。

次に、既存のべき論にしばられず、多くの変数を考慮しながら、その状況に適した思考や行動をとれるということも、柔軟性のもう1つの現れである。

たとえば、
クラスで何か問題があったとき、関係者から話を聞いて、全体像や個々の気持ちを配慮して解決策を練る。
企業が多様な働き方を許容できるよう、社員のそれぞれのニーズを考慮しながら制度設計をする。
事故があったとき、まずは被害者の救助をし、速やかに警察に連絡をし、道路上で交通の妨げになっているものをどかしたり交通の整理をしたりする。

こういった状況では、その状況における最善手が求められるが、それをなしうるのが柔軟性を基にした思考や行動である。

これらのことから、柔軟性とは目の前の状況に対して、自ら基準を打ち立て、変数を考慮しながら最適な対応をする力のことであると考える。

***
最後の30分は、パラグラフ・ライティングに挑戦したが、論証になっているかというと非常に危うい。つっこみどころが多々ある。

だけれども、いつもと違う書き方をしたよ、という記録として。
来月も楽しみだ!


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