「着用写真を提示しない」というブログ記事を読んで考えたこと

わたしは服のブランドというかお店をやっていて、twitterでまわってきたこのブログを読んで、すごく思うところがあったので、考えたことを書いておきたい。(このブログをふまえて考えたことではあるけどこのブログへの批評とか意見とかではなくて全部自分の話です。)

タイトルを見てあっ私も言葉にしたかったやつかもと思って読んでみたのですが、

まだ読んでない方はぜひ読んでください。

このひとの言っていることものすごくよく分かる。わたしも自分の姿にコンプレックスがずっとあって服を買うこと超苦手なのと、お客さんがそういうルッキズムの呪いみたいなものにとらわれているのも頻繁に見るし悔しくなる。


「店頭でそんな必要ないのに恥ずかしい気持ちになったあれを、あのささやかな絶望を、あのどうしようもない惨めさを爆破したいんです。」


わたしも爆破したい。とても共感する。この人もブランドも全然知らないけど、勝手に同志認定してしまった。

けどわたしの売っている服で「着用写真を提示しない」のは現実問題難しい。指輪と違って、着たらどんなかんじになるのか想像しにくい。だからそのまま真似して実践はできないけど、

服をえらぶとき、主役はあなたです。

というメッセージを(その表現方法は言葉以外かもしれないが)明確に持っていたいなと改めて思った。


さてここから、自分の話なんですが、記事を読んで

「着用写真→試着→イメージとぜんぜん違う→私は美しくない」

の流れを考えてて、発見があった。

わたしの売っている服(のジャンル?)はちょっと特殊で、「私は美しくない」に向かう矢印の前に一個"逃げ場"があるなと。

わたしの売っている服って、和服なんですよ。いわゆる、きもの。

きものって、

着てみて、イメージとぜんぜん違う…ってなったときに、ワンクッションある。

そう、

「着付け」!


これ なにげにすごいことなのでは、と思った。

これは着付けによって「美しさ」というか「自分の理想のイメージ」が損なわれ得る、ってことでもあるけど、

逆に着付けという過程があることによって理想に近づくことができる、コントロール可能な範囲が、ジュエリーや洋服より広いということでもある!

「私は美しくない」に行く前に、できることがある!

ということ。

これはだいぶ希望なのではないか。


着付けって、まあ着ることなんですが、それがきものが洋服と一番違うところだと思うのですが、つまり

着るときに形を決める ということ。

洋服は、作るときに決めます。型(パターン)によってそれが決まる。タイトとかルーズとか。デザインイコールパターン。着るときは着るだけ。

一方きものは、基本的にパターンは共通(!)で、ほぼ平面なので、どういうかんじで身体に添わせていくかでシルエットが決まる。丈感とかルーズさとか、着るときに決める。それを着付けと呼んでる。

着付けってめんどくさいからきもののデメリットと捉えられがち(だって往々にして着付けができないからという理由で服の選択肢にきものが入らない)。けど、着付けいらずの着物を開発するとか、着付けなんて適当でいいよと強調したりとかして、なかったことにする方向性の他に

着付けという段階があることを、この服の"強み"と捉えて発信していく

ことには、意味があるかも。

今回のこの話みたいな、ルッキズムを乗り越えたいとか、これからもアップデートされゆく現代〜未来の価値観にもマッチしていけて、

これからもよりよくなっていける道が、もしかしたら「着付け」にあるのかもしれない。

めんどくさい服の未来、意外と明るいかもしれない。

と思いました。


あと蛇足ですが…

着付けも、自分がどうありたいかに向かうためのただの手段なので、他人に評価させるものじゃない。服をえらぶときも、着るときも、主役はあなたです。のメッセージ、忘れないようにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?