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わたしとキルト①

高校は女子校に通っていた。

その高校は新宿と四谷の 間あたりにあって 新宿駅からバスに乗るか、四谷三丁目駅から20分ほど歩くかのどちらかを選べた。1年生を半分過ぎると慣れてきて 四谷三丁目駅から歩くことが多くなったが 通学途中に 福屋という美味しいパン屋で お惣菜パンを買って 朝一学校で食べるというのが 理由の一つだった。

3年生になると 昼休みにこっそりバスに乗り新宿駅のケンタッキーフライドチキンを買ってくるという荒技や、親友と帰りに 伊勢丹の地下でボンゴレロッソを食べたり サブナードのロココ調のトイレが豪華な喫茶店でコーヒーゼリーを食べたり とにかく いつもおなかが減っていた。

家に帰って家族と夕飯も食べた。

1日5食!痩せてもいなかったが太ってもいなかったのは部活が 演劇部で 常に大声で発声練習してたからだろうか。2年生になると 顧問の先生に部長にされて おまけに文化祭の劇の主役をさせられた。

多分 生徒に任せるには私たち高校生はどんぐりの背比べだったからだろう。

部員の中に児童劇団ひまわり出身で しかも 当時人気だった中村雅俊主演の学園ドラマの生徒役で出演していた 由美子がいた。16歳で既に演技の経験が豊富にある子にとって ど素人の私の存在は 許せないと思ったらしく 他の部員も巻き込んでの 冷たい態度が始まった。

集団心理も多分あったと思うが、私の味方は副部長のつかもっちゃんと もうすぐ 引退する 野原先輩ぐらいだったような記憶だ。

演劇部なんて入らなければよかった。

高校2年の夏休み 自由研究で 小さいなフランス刺繍の作品を提出した。戸塚刺繍の本を見ながら びっしりと隙間がない 刺繍の作品だった。 編み物をしている横向きの女の子の帽子や服は全て違うステッチになっていた。

それを見た美術の女の先生が 「あなた○○○○短期大学に日本刺繍教えてくれる科があるから受けてみない? 美大の中で教授のいる刺繍科はそこだけよ」

あまりに熱心に勧めるのと その先生自身の出身校だという説得力もあり 女の子のいじめを経験したというのに 2年間とはいえ、また女子だけの学校に進学した1975年春。

美大の広場にある巨大なニケ像が印象的だった。頭部の欠けた首から下の女神は大きな翼を広げていて 頭がないのに バランスがよかった。この時はのちに NIKEのロゴの羽マーク になるとは全く知らなかった。私の父はこのメーカーのスニーカーを「ニケ」と読んだが、ニケの英語読みがナイキだ。

ニケ像の広場で スケートボードする女の子たちがまだ珍しかった。アメカジなんて言葉はまだなかったけど、スケボーの少女は翌年サーファーファッションになっていた。校内には個性的な女の子たちがたくさんいたが1番多いのは、汚れてもいい作業着としてGパンやオーバーオール、カーペンターのデニム。オーバーオールはこの学校の制服のようでもあった。

その中で人目をひくいでたちの女の子が何人かいて 蛇革のロンドンブーツを履き 実際の背よりぐんと高くて、少年ぽかった。女子高校でもそうだったが 細身で背の高い子は 女の子に人気があった。そしてそういう子はロックバンドをつくりたがっていた。兄貴がドラマーだったり、ギタリストだったりの影響で、ストーンズのジャンピングジャックをギタヴォで演奏して歌って 凄く人気があった。  大学祭の時は体育館のステージや 教室をライブハウスにして、チャーの曲 を演奏してた紅蓮というバンドは 翌年 ガールズ という女の子のロックバンドとしてデビュー。まだ、ショーヤもプリンセスプリンセスもいなかった時代だ。

美大生としてアートしながら 音楽も楽しむ人がいて、私はそういう子と仲良くなったおかげで 暗黒時代の高校生から 抜けて 明るい華やかな 学生時代を過ごした。同じ日本刺繍のクラスメートの中には卒業してすぐに女優になる人もいた。皆 多分真剣に美術に向き合ってはいなかったと思う。

ただ女の子は楽しみたいだけだったように思う。

日本刺繍はとても課題が多かった。着物や帯にするのが一般的なイメージだと思うが、最初は 日本画を描き それに合わせて絹糸を染めて、やはり絹の布を枠に張り 刺繍をすることが多かった。花や風景を絵の具ではなくて 絹糸で描く。芸術というより 工芸 だ。そしてそういう授業はなんとなく自分にはぴったりこなかった。選択授業の中の世界の刺繍や グラフィックな作品を作る授業が楽しかったし 実際成績もよかった。好きこそ 物の上手なれ ってことかー。刺繍のクラスメートの中でロック好きなのは私だけだったし、はっきりと浮いた感じだった。

刺繍科に入るんじゃなかった。

お嬢様の習い事みたい(笑)と自嘲。

ロンドンブーツの子は卒業してから フェアリーズという女の子バンドでデビューしたのがとても羨ましかったのは言うまでもない。サザンオールスターズとデビューの年が同じ あの時代。多分事務所が良くなかったのだろうし 少しだけ 世に出るのが早かった。

私は卒業して両親の住む兵庫県にいったん引っ込んだものの、友だちもいないし 将来の夢もいまいちないまま 憧れていたアメリカ行きを心に決めた。

つづく








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