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結婚とは

つい先々月、結婚して20年目を迎えた。

2年間の別居生活があるから19年間まるまる一緒に暮らしていたわけではないけれど、別居期間中も夫は毎月生活費を振り込んでくれたし、時々会っていたりもしたから、まあ結婚生活20年目というのは戸籍上でも現実の上でも誤っているわけではない。

「俺、結婚するとき年収聞かれた覚えないんだけど」

私たちは、時々婚活について話し合うことがある。婚活中の、相手の魅力ポイント?として男性の場合、年収が第一のようで、わびしいなあと夫はこぼす。

私たちは一年半の交際期間を経て結婚したけれど、そういえば年収なんて聞いたことなかった。いま思えば、おいおいしっかりしろ、地に足つけてちゃんとこの相手と結婚生活ができるのか考えろ、と自分に言いたいところだが、恋は盲目とは恐ろしいものである。

そもそも交際のきっかけとなったのは、(出会ったとき無職だった)夫が転職できた、じゃあ私がお祝いにご飯でもおごってやろう、というものだったから年収なんて低かったに決まっているのだ。新人社員の年収なんてたかが知れているし、結婚するにあたっても別に私も働いていたし、二人合わせれば何とかなるんじゃない? くらいの軽い気持ちで気にも留めなかったのだ。

婚活と違って、恋愛結婚の場合、大事なのは盲目さなのかもしれない。

さていよいよ本題である。

よく結婚はいちに忍耐といわれるが、それもあながち間違いではないのだけど、私の場合はちょっと違う。

「このひとのいない生活が想像できるか?」がキーポイントになってる。正直全く想像できない。したくもない。忍耐というのはここで議題に上ってくる。「このひとのいない生活」に比べたら、忍耐の緒が切れる、という事態には全然直面しないのだ。

その割には週に1、2回の割合で朝から怒鳴っている。なにしろ夫は朝起きられない人なのだ。毎朝起こしている。いよいよ遅刻しそうになってもまだ起きてこない場合、私は「いつまで寝てるのよっ!?」と廊下から夫の部屋に向けて怒鳴り、気分が悪いので30分間くらいは不機嫌になることもある。夫はどこ吹く風でひたすら経を唱えるように「眠い…眠い…眠い」を繰り返しながら私が淹れてやったコーヒーを飲み煙草を吸って、ようやく、現在は仕事部屋と化している和室のPCの前に行く。

これには全く腹が立つ。なにしろ別居期間中、夫は一人で起きて出社していたのだ。なのに私と一緒に生活している期間はずっと起こされなきゃ起きないのだ。別居期間中を差し引いても17年間毎日毎日私が起こしている。普通のご家庭だったら離婚の原因になってもおかしくない。

でもまあそれ以外は、時々休みの日にパチ屋に行くことが許しがたいくらいで、これといって不満はない。起きられないのも、あくまで許しがたい程度で、許せない、とまではいかない。基本的にケチ臭いのも許しがたい、程度だ。(最後には結局私のほしいものは買ってくれるし)

そもそも我々夫婦は、あまり接点というものがない。詩を書くことが共通の趣味となっている以外は。

が、これが実は重要なのだ。詩を書くことは、二人ともライフワークみたいなところがあるから、この手の話のネタはいつでも事欠かない。ライフワークが同じというのは、子供がいる、よりは劣るだろうが、それなりにかすがいになっている。

うちは子供がいないので、子はかすがい、というものがない。互いへの愛情と共通のライフワークがすべてなのだ。どちらかと問うまでもなく、私のほうが愛情過多なのだが。たとえば私が精神疾患を抱えていること、実家と絶縁していること、夫しか頼れる人がいないということ、などを無いものとして扱っても、やっぱり私は夫がこの世で一番好きなのだ。で、好きでいさせ続ける夫の魅力というものに参っているのである。あと、私に偏執狂的な側面が強いことも見逃してはならない。

結婚生活とは「このひとのいない生活が想像できるか?」を考えたとき、即答でと答えられるだけの愛情がないと続けられない。

なんかもっと深淵なる哲学的エッセイにしようと思っていたのに、ただのノロケになってしまった感が…。

蛇足だが夫の名誉のために言っておくと、現在では4人家族がつましく生活できるくらいの税金を払っている程度には稼いでいる。