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自分の当たり前が、ずっと当たり前でも、誰にとっても当たり前じゃないということ。


 先日、未来のためにできることとして、
こんな記事を書いたのだけれど

字数の制限で伝えきれなかったことを今回は書こうかと。(1000字じゃ足りないよ~😱)


ということで補足の方が長くなりそうだけどやってみよう! めんどくさい人は、気になるところを選択してみよう🚁💨



【当たり前の奥深さ】


 当たり前というとCOWCOWさんの
あたりまえ体操が思い浮かぶくらい
大好きなネタなのだけど……

『右足出して 左足出すと 歩ける♪』

当たり前のように受け入れて笑っていたけど、二足歩行ができない時もある今の私からしたら

「それってめっちゃすごいことやん!」

と思うようになり

「自分の当たり前が必ずしも
誰にとっても当たり前じゃないんだな……」

と改めて感じるようになった。

でもそれは私に限った話ではなく……

当たり前は、時代や環境、ライフステージ、年齢によって容易く変化するものでもあり、必ずしも誰にとっても当たり前ではないということ。

そして、あまりにも当たり前すぎると、人は簡単に慣れてしまうという危うさも秘めているということ。

だからこそ

「今はその過渡期なのかもしれないな。
 いや、過渡期であってほしいな」

と私は思っている。

当たり前のように使っているからこそ、意外と深~い言葉なのである。(あたり前田のクラッカー🎉が通じるか、通じないかレベルにね! それはさておき創業百周年以上も決して当たり前ではなく、すごいことだよね👏)


【当たり前について疑問を抱いた話】


 大人になってからも「ムムム?」と思ったことは意外とあるのではなかろうか?
(楽○カードマン🦸‍♂️現れてるで!)

~職場での言葉づかいの巻~


 私はこれまで時差出勤の多い仕事を経験してきたのだけど、社会人になって初めての時

「おはようございます」

と挨拶したら、先に仕事をしていた上司に

「おはようございますじゃないでしょ!
『お疲れ様です』でしょ!」

と注意され、仕事前からしょんぼりした経験がある。

(だってまだ朝だし、仕事前から“お疲れ様です”って変じゃない? 確かに相手は先に仕事始めてるけど……)

と、当時の私はモヤモヤしていた。

郷に入れば郷に従えなので、慣れてしまえば何ともないのだけども! だ・け・ど!
(小島よしおさん、も出してたよ~!
 私もたまに『そんなの関係ねぇ』の動きを
 勝手に始めるから親近感
を抱いている。)


 実際、去年の今頃に人生で何度目かのビジネスマナーを学んだ際にも

「朝から『お疲れ様です』と言われると士気が下がるからやめてくれ」

と言われた方や、帰り際に上司に「お疲れ様です」と言ったら

「おまえに『お疲れ様です』と言われる筋合いはない!」

とキレられた経験のある方もいらっしゃった。(それも片手で数えられる程度の受講生の中に複数も……)

 で、令和時代に新たに現れた言葉が

『お疲れ様でございます』


だそう。(一応二重敬語でもないみたい😅)

そうなったらもう、笑うしかなくない😂?
(ちなみに迷った時には『ありがとうございます』が一番無難らしいけど、朝の挨拶問題はどうすれば……?)


そもそもビジネスマナーの基本はお互いが心地よく過ごせるように気配りすることなのに

「出勤・退勤の挨拶のひとつで青筋立ててるとかお猪口より器ちっちぇし、アホくさ!」

と、あの挨拶一つで泣きそうになっていた若き日の私はどこへやら……辛口せっかちおばさんが私の心の中で爆誕した。(でももし、自分がキレられる側だったら相当ヘコむだろうな……私の辛口せっかちおばさんだって、さすがに心の中でしか呟けないよ……)

 その後、別の時差出勤の職場でそういった指摘を受けたことはないけれど、仕事中に注意を受けた際に

「そうですよね」

と応えていたようで

「あの時、声をかけたら『そうですよね』
って言ってたよね? わかっているなら
何でその時、そうしなかったの?」

と、叱られたことがある。


仕事上での対応については反省すべき点があったのは事実なので、私自身も見直そうと思ったけれど、「そうですよね」がそんな風に受け取られるとは思わず、個人的に頭が真っ白になってしまうほどショックを受け、指摘されるまで気づかなかったほど私は目上の人に対して当たり前のように使っていた

そして、心を落ち着かせてから調べてみたところ、部下の「そうですよね」に対して怒りを覚える方が一定数いることを知った。


弁解のようだけれど、私の場合は

「そうですよね(おっしゃる通りです)」

と、共感の意味を示しているつもりだった。
(そこが「わかっているなら、何でそうしないの?」につながってしまったんだろうな、と後になって思い至った。)

せめて、最初に注意を受けた時に

「そうですよね。今後、気をつけます

一言つけ足すか、それが無理でも再度指摘された際に

「失礼な言葉づかいをしてすみません。

ただ私は『○○さんのおっしゃる通りだな、今後は気をつけないといけないな』と自分自身に対して『そうですよね』と無意識のうちに口にしていたんだと思います。

でもそれを○○さんに聞こえるように言って不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

と、伝えて謝っていたら、また違っていたのかな……我ながら言葉足らずだったな……と、未だに歯がゆくなる

その一方で私はずっと、どんな相手からの言葉に対しても自分なりに咀嚼して飲み込むためのワンクッションとして「そうですよね」を使っていたんだとも思う。

実際、友達と話す時でさえ

「そうやんね~」
「私も思った!」
「確かに」

という言葉が口癖になっている自覚はずっとあった。心の中で「私、また“確かに”って言ってる……」と自分でも嫌になるほど
(ただそれを「目上の人に対して無意識で使ってたのは失礼だったし、聞き流していると思われても仕方ないよな」とも思った。)

 また他の部署の方が

「今日こんなことがあってね~」

と、とてもうれしそうに話に来てくれたため頷きながら聞いていたら肘で小突かれ

「入ったばっかで分かったような顔して聞くなんて生意気だよ」

といったようなことを言われたこともある。

そう言われたらその通りだけれど、私としては相手が話している状況を頭に思い浮かべながら、話しに来てくれた相手が気持ちよく話せるように頷いたり、相槌を打ったりしていただけであって、それすらも「わかったつもりに見えていたのか……」と悲しくなった。

だから、どうがんばっても一旦、共感してからじゃないと話せない私は「そうですよね」や頷くことすら否定されると、それ以上のことが(世間話も含め)全く話せなくなり

「はい」
「すみません」

しか言えないロボット人間になっていた。

 そのくらいのことでコミュニケーションが取れなくなるなんて社会人失格だ! と自分の存在を否定するほど責め続け、そのことでさらに人間関係がこじれてしまったけれど、どうあがいても私には無理だった……

今となっては、その方にとっての当たり前私にとっての当たり前がどうがんばっても噛み合わなかったとしか言い表せない。(他の方となら普通に話せていたから……)

それでも私はその方に対して尊敬する部分も感じていたからこそ、もっとちゃんと向き合って話せなかった自分が今でも悔しい……

家族の前でも喜怒哀楽を隠すくらい、強固な心の扉を私が早々に閉じてしまったのも原因だともわかっている。ただ、どんな言葉が着火材になるかわからない相手に対しては口を噤むしかなかった。

それは自分の身を守るためでもあるけれど、どちらかというと自分のせいで場の雰囲気が悪くなることの方がずっと怖かった。(結局私が口を噤むことで空気が悪くなることもあり、それも私が望む形ではなく、そういう時に上手く和ませられない環境も私にとっては苦しかった……

口では無理でも文字にするなりして個人的に伝える方法があったのかもしれないという思い、相手にとってはそれすらもうざく感じるんじゃないかという思いが半々で実際にはできなかった。(友達とはそれで何度か乗り越えてきたけれど、対等の立場じゃない場合はそれも難しくて……)

だけど、“自分にとっての当たり前は意識したり、心がけたりすることで変えられても、自分以外の人の当たり前はその人自身にしか変えられないことを知る経験になったとも私は思っている。

と、そんな苦い話は次の巻で流そう!

~トイレの巻~


 これも職種によって当たり前の感覚がかなり違ってくるのではないかな? と思う。

 私は職員同士で協力して人様を預かる仕事をずっとしてきたため、昼休み以外の時間は基本的にトイレに行きたくなったら

「トイレに行ってきます🙋」

と、周りに伝えてから行くのが当たり前だった。(その間に何かトラブルがあってはいけないため。)


でも事務の実習や職業訓練学校に行った際に

「生理現象なので、周りに告げずにいつでも行っていいですよ~」

と言われ(本当に? 誰にも言わずにいつでも行っていいの?)と軽く衝撃⚡️を受けた。

そういう職場もあるとわかっていても実際に「いつでも行っていい」といくら言われてもやっぱり休憩時間まで我慢してしまう。(染み付いた当たり前の恐ろしさたるや……)

 自由に行けることが一般的になってほしいけど、自分のことは二の次、生理現象も我慢するのが日常茶飯事な仕事は結構多いのも事実。(私の場合、水分補給はわりと自由だったので割愛するけども。)

“いつでも・黙って・行っていい”と、頭ではわかっていても「本当にいいの?」といった感覚は未だに抜けない

これは仕事に限らず、子育てや介護をしていてもあるあるなのではなかろうか……(油断も隙もない環境にいる方もたくさんいらっしゃるよね😢)


 私自身がそういう環境で勤めてきたため、お世話になっているヘルパーさんにも

「私も行きたいんで~」

と、こちらから声をかけるようにしている。


 この世はみんなのちょっとした我慢で成り立っているとも聞くけれど、せめて生理現象くらいは我慢しなくても当たり前の世の中になってほしい……

じゃないと、既に溢れ返っているハラスメントの増殖が恐ろしいことになるよ……(最近は『ハラスメントハラスメント』というものもあるそうで……もう訳ワカメ🌿過ぎる!


【理解されにくい感覚の当たり前】


 ここまでは比較的イメージしやすい当たり前を取り上げてきたけれど、その中でも特に理解されにくいだろうなと感じるのは感覚にまつわる当たり前だと個人的に思っている。

~色の見え方の巻~


 例えば、私の父は還暦を過ぎてから軽度の色弱であることをカミングアウトしたのだけれど、家族からしたら

「え? 今さら?」

と、正直思ってしまった。でも、本人も周りの人と見え方が違うことに半世紀以上、確信が持てなかったようで……それでも見えにくい色がありながらも違う色でカバーしながら(思い返せば黒じゃなく青いペンを愛用していた。)還暦からそれ以降も仕事を勤め上げたのは、純粋にすごいなと思っている。


~音の聞こえ方の巻~


 友達やこれまでに出会った人の中に、音嫌悪症(ミソフォニアまだサイトが作成途中のようです)といって、誰かの咳払いや鼻を啜る音だけでも、とてつもなく苦痛を感じ、ノイズキャンセリングイヤホンを使用したり、様々な耳栓を使い分けていたりする人もいる。

でも困り事があることを知らない人からすると、イヤホンやヘッドホンをしているだけで「人の話を聞いているのか!」と怒鳴ったり、たまたま居合わせた人から「子どものうちからヘッドホンをつけるなんて可哀想」陰口を叩かれたりした話も聞いたことがある。


 それとは少し異なるけれど、私自身も薬の副作用で日常の音(レンジのチン、お風呂の音楽、エレベーターのポン)が全て半音下がって聞こえた時には、かなり恐怖を感じた。

好きな曲さえ、ぐにゃぐにゃして聞こえて気持ち悪くて……薬を変更したばかりだったのですぐにネットで調べ副作用として聴覚障害をがあることが分かり、主治医に相談して薬を止めたらピタリと治まったけれど、もしあのまま半音下がった世界を生き続けることになっていたら……と思うと、ゾッとした。(こういった副作用の症例について呟いている方もお見かけしたことがある。)


~痛みの感じ方の巻~


 これもまた、人とは比べられないランキング最上位なのではなかろうか? 人によって痛みの感じ方、堪えられるレベルは異なるし、それによる日常生活の行動の制限も全く異なるため、私は良くも悪くも痛みのマウンティング(「そのくらい薬を飲んででも乗り切ってきたわよ」的なこと)は絶対言わないように心に決めている。


~症状の波や差があるの巻~


 私の病気の特性も複雑で、朝方は比較的歩けるけれど、夕方にかけてはベッドから起き上がることも難しく、四つ這い歩行になりがちだ。(だから私は自分の症状を伝える時“人類の進化の逆を辿る”とよく表している。また症状が起きやすいスポットもあるっぽい。)

それでも、天気やホルモンバランスにも左右されやすく、朝からふるえが止まらなくて歩けない、痛みや脱力がひどくて歩けない日もあるし、月イチくらいでほとんど症状がない日もある。(それも、シンデレラ並みの律儀さでてっぺん越えたらふるえ出す……)

最近気づいたのだけど、走ることは出来るっぽい。でも体力を使い果たしたり、突発的な音にビクッとしたり、マッサージなどで人に身体を触られたりするだけ(家族でも無理)で骨抜かれたんかレベルで脱力が起きる。

 呼吸も吐く力は成人男性並みにあるのに、吸うのが苦手で深呼吸をすると、逆に息切れや脱力、けいれんが起きるため、その特性を知らない人に「はい、深呼吸して~」と言われても出来ない……

「息を吐ききったら自然と吸えるから!」といくら言われても、それが他の症状のトリガーになるという何とも悲しいトラップよ……(でも酸素飽和濃度は正常域だから鼻からそこそこ酸素は吸えているんだと思う。)

 湯船に浸かると黒目が強制退場して、下手したら数時間単位で目が開かなくなることもあるし(感覚トリックといって人それぞれにとある部位を触ることで治まることもあり、私の場合は右の後頭部辺りが多いかな?)、けいれん性発声障害で声を出したくても喉にギュッと力が入りすぎて喋れないこともある。これも意識すると喋れないだけで「うわぁ!」みたいな無意識な叫び声は出る不思議。

ちなみに私は声帯結節と言って喉を潰した経験もあるため、喋る時の喉の動きを映像で見たこともあるからこそ「今、力んでるから声出んわ……」というのが感覚でわかる。
(「電話で問い合わせたいことあるのに~」としばらく声が出ないのを最近もあったばかり……)

 そのわりに私は根が楽観的なのか、初期の時以外は端から見たら重い症状のように思われていても、過呼吸やパニック障害の方と同じように説明するのも申し訳なく感じてしまう。(それは「一緒くたにするな!」という反発心ではなく、むしろ死の恐怖を感じるほど苦しんでいる方も知っているからこそ、ヘラヘラしているような私と同じように捉えるのは失礼な気がして……)

また、同じ喋れない症状でも全緘黙ぜんかんもく(生活場面全般で喋れない)や、場面緘黙かんもく『選択制緘黙かんもくとも言い、特定の場面・状況・人によって喋れなくなる)ものもあれば、文字が読みにくい『ディスレクシア』(発達に遅れはないけれど、文字の読み書きに限定した困難を抱えている学習障害のひとつで外国語が読めなくて気づいた例も。)といったものもある。(挙げ出したらキリがないけれど実際に身近にいたり、経験を聞いたりしたことがあるものに絞っても、こんなに困り事を抱えている人がいるんだよ😭)

 こんな風に“出来るものや出来る状況もあるけれど、どうしても出来ないこと”や、“出来る時間や日もあれば出来ない時間や日もある”といった症状の不安定さや波、完全に固定しているわけでもないのもまた、周囲に理解されにくく配慮する側も難しいと感じるものだと思う。

私も、家族に「歩けてるやん」と軽く言われ「歩けなくなってる時は手を貸すどころか目も合わそうともせんやんか!」と泣きながら訴えたこともあるくらい……

でもその時に、当事者と家族でも受け入れ方が違うんだな当事者より身内だからこそ受け入れがたいこともあるんだな、と痛感し、それ以降は多少の配慮は求めても、全てを理解してもらうことはやめた

そこに「障害や病気を抱えているんだから、受け入れてもらって当たり前! 配慮してもらって当たり前!」という押し付けがましさや傲慢さが無意識のうちに芽生えていたことに自分自身気づいたから。(それが前回の記事には書ききれなかった答えでもある。)


【何が言いたいかというと……】


 端的に言ってしまえば、タイトルの通り

自分の当たり前が、ずっと当たり前でも、誰にとっても当たり前じゃないということ


ではあるのだけれど。

当たり前のように思うことの全てが悪いわけではなく(良い例としては、イクメンという言葉が廃れつつあること。それは“子育てに男女は関係ない”ことが当たり前になっているからこそのいい変化だと思う👍️)

知らぬ間に当たり前になってしまっていることが時代錯誤になっていることもあるから、アップデートは必要だよ! という個人的なメッセージかな🤔?

 とりあえず令和になってから、もう五年も経ってるんだから、いつまでも“昭和”を理由にするのはやめようぜ! と昭和を知らない私は思う。

それは「昭和の人」と一括りにして否定しているわけではなく、むしろ戦前・戦後を乗り越え、スマホもパソコンもない時代から仕事を始め、アナログからデジタルへと切り替えることが出来た人達なら、家事(人によっては育児・介護)もできるポテンシャルはあるはずだから、とりあえずやるだけやってみてよ! という大いなる期待があるからこその訴えでもある。

それでも男尊女卑はまだまだ根深いねえ……長くなるから割愛するけれど、良い本があるからオススメするよ~🙆

【『ミラーワールド』 椰月美智子】

 ぜひともこちらの本を読んで年齢性別関係なく、当たり前が異なる世界を体感してみてほしい


 でも、ここに書いたことが押し付けになるのは本望ではないので、あくまでも私の一意見として「わかる~」と思ったことだけ受け入れてくれたら、それだけでいいよ!


すぐ話が長くなる一休さんより

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