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「守るべき人のために戦う」練習をする

公文で働き始めて2日目が終わったが、教室の空気が明るくないことが気になっている
スタッフも生徒もほぼ挨拶をしない

採点が忙しすぎるのと、休み時間がないのでスタッフ間の交流がない
また、教室を静かに保つため、生徒への挨拶も推奨していないようだ

塾長も英語ネイティブでなく、指示出し以外はあまり話しかけられない
仕方ないんだけど、明るい気持ちにはならない

うーむ
誰が悪いわけでもないが、どうにかならないものか




「人に影響を与えることを恐れずに生きる」というのが最近の目標だ

人に影響を与えるのが怖いのは、影響を与えれば与えるほど、他人に攻撃されるリスクが増すからだ
攻撃に対処するには、信頼できる人を持ち、攻撃者の言葉を切って捨てられるようになる必要がある

また、他人を巻き込んで生きていく場合、主観的な正しさだけでなく、客観的な正しさも必要になってくる
自分は、「すべての人の幸福追求権を保証する」というのがこの正しさの根幹に来ると考えている

客観的な正しさを一旦定めたところで、次はそれを実践する方法を考えたい
言い換えれば、このルールを侵害してくる攻撃者との戦い方を考えたい

攻撃者と戦う人といえば警察だが、彼らは法を破る人を取り押さえ、暴力や銃火器を用いることが許されている
結局、ルールが破られるのを防ぐには、攻撃者と戦うしかないのだ



自分は人と戦うのが苦手だ
ゲームやスポーツでも苦手で、協力する方がよっぽど好きだ

ただ「すべての人の幸福追求権を保証する」というルールを維持するために、侵害者と戦う準備をしておく必要はある
それを侵害されるのは自分かもしれないからだ

戦うのが苦手な理由を考え、「ドーパミン基準で考えているからではないか」と思った
ドーパミン(目標達成によって分泌される快楽物質)的に見れば、戦いは「勝つか負けるか」のゼロサムゲームで、全体には得がない

では、かわりにオキシトシン(人との繋がりや貢献を感じることで分泌される快楽物質)ベースで考えるとどうか
つまり、「守るべき人のために戦う」ということだ

こうなると、守られる人がいる分、戦うことには全体にも得がある
これなら戦いをそれほど躊躇しなくていいかもしれない

この「守るべき人のために戦う」という感覚を試すため、1対1の対戦ゲーム(みんはや)をやってみた
すると、以前より戦いが嫌でなくなった

「自分のために戦う」と考えるより、「守るべき人のために戦う」と考える方が性に合うようだ
また、こちらの戦いでは不思議と緊張しなくなった




いつか幸福追求権を侵害されるのは、自分かもしれないし他人かもしれない
その時のために「守るべき人のために戦う」練習をしばらくやってみようと思う



じゃまたね
読んでくれてありがとう



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