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ヤミ恋愛閑談【創作】

店の扉を開けた先に、長身男の影が見えた。
手で支えている扉からチャリンチャリンと鳴り続ける店のベルに全神経を注いでいると、店の奥を椅子に深々と座り込んでいる男は、私を一瞥するような仕草を見せた。
「女か、意外だな。」
「……不満ですか?」
「イヤ、そんなことはないさ。」
男は私を手招くと、そのままじっと私の肉体を『観測』し始めた。背が低く貧相な体、ボサボサの髪の毛、泣き腫らした顔。しかし着込んだ服は綺麗に洗濯されており、清潔感を放っている。それがかえって初心さを覚えたのか、男は私の影越しに眼鏡をすっとずらした。

「話は聞いている。話だけ聞けば、男かと思ったが……違うのだね。令和とかなんとかいう時代は、随分積極的な女も増えたものだ。いい傾向だねえ。」
ははっと笑って見せた男はもう一口、ついっと口へ酒を運んだ。くらりとウイスキイが鈍い光を帯びてテーブルに溶けていく。
「き、恐縮です……。」
「ただ君の場合は積極的とはまた異なる女だね。……そうだな、言葉にするとするなら、相反する女だ。他人の目を気にするのに、自分の意思は固い。人類というものを慈しむ割には、いっとう人間を嫌っている。」
「ええ、おっしゃる通りです。……あ、ジントニック一つ。」
「そして、僕が思うに君の好いている男もまた、そういう類の男だ。」
「さすが、御名答ですね、『安吾さん』。」
「何、僕が何年前から生きていると思っているんだい、全く。そしてこのバーには君みたいな人間がズラズラと『アンゴ先生、アンゴ先生……。』と持ち上げてやってくる。困ったもんだネ。」
「その割に楽しそうですね。てっきり先生は突っぱねるかと思いましたよ。」
「なあに、暇潰しにはこれぐらいでいいんだ。こっちは忙しい時には忙しく、暇なときにはウンと暇だからね。」

そう、ここはドアを開けば黄泉の世界の住人と酒を酌み交わせる、たった一つのバー。ここで私は戦後の小説家・坂口安吾に全身で愛した男の話をしにやってきた。
「私が思うに、彼は私の『鏡』なんですよ。似ている点が多く、けれどどちらかが虚像。ゆえに異なる点もまた存在する、えてして人間はそんな存在なのかも知れませんが……。」
そう言って、私は事の次第を語り始めた。恋に落ちた瞬間、彼の好きな音楽にハマって行く己、そして彼へ告げた愛の告白、その他諸々……。

ショットとウヰスキーが薄金色の様相をなす。透明が闇に光を落とし、するりと抜けていく。いつのまにか手元の酒は、嫌がるほどに透明だ。コポコポと注がれた金は澄み切った銀にそうだねえとこぼす。
「君は、随分と難儀な女だ。けれど、そこはきっとその男も同じなのだろう。それにしても、君が『鏡』と表現するほどの男、一体どんな男なのか興味があるな。それに君も僕の拙作を告白に持ち出すとは、随分と拗らせているネ。」
「……あの、ちょっと……!!恥ずかしいから言葉にするのやめてもらって良いですか!?」
そんな軽いやり合いをしていると、チリンチリンとドアのベルが鳴った。

連れてきた風が室内になだれこむ。
刹那、靄が私の全身を覆った。




「お客様、そろそろ閉店時間ですよ。」
「え、あの、さっきの人は……。」
「何をおっしゃいますか、酔ってらっしゃいますね。お一人で飲んでらしたでしょう。」

腑に落ちないまま、お会計を済ませる。


いつのまにか、全てが透明に掻き消えていた。
けれど、確かに隣には彼のショットと、ウヰスキーの匂いが揺蕩っている。

彼が遺した、一つの言葉と共に。

きっと、僕がここで君の恋路を色々指南したところで、君は満足しないだろう。いいかい。だから、君にはこれだけを伝えておく。君、遊ぶがいい。肉欲を愛せ。目を逸らすな。そして、もう一つ。君の肉体を食い破るほどの恋情、愛情、それが君のその男への『好き』の本質だよ。難しいことは考えなくてもいい。

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