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何もない世界で叫ぶ

インターネットは、カップラーメンのようだと思う。

インターネットでは、流れる動画も、Twitterの文字列も、何もかもが一瞬で、フォローして相互になって仲良くなるのも一瞬。別れるのも一瞬で、あのツイートにいいねしたとかあの件で怒ったとか、政治や宗教的なものとかいろんな理由でオサラバする。実際に会ってみて、いい人だと思ってたのに裏切られたり、仲良くしてるつもりが悪口を言われたり。所詮インターネットのくせにそんな人とのやりとりが怖くて、でも愛おしくて、何度もぶつかる。時に人との距離感を取り違え、意味悪がられたり、気味悪く思ったり。

カップラーメンも、食べたいと思う時にはすぐに完成する。お湯を入れて数分で完成、数十分で食べ終えて、すぐに屑籠にポイ。そんな少し寂しいものだけど、カップラーメン自体はとても安いし、手軽で、素敵で、美味しそうに見える。でも、健康にはあまり良くないというものを見るとなんとなく気味悪くなって、自分の体に残った何かを思うともう二度と食べたくないと思う。でも、夜になるとまた愛おしくなって、なんとなく身体が欲しがって、またカップラーメンを作るためにお湯を沸かす。バカらしいのに、だ。

だからか、カップラーメンを食べた後はあまりに虚無感を感じる。私だけだろうか?その虚無感はニコニコ動画で生放送を聴いた後や、ネット上の友人と話した後、Twitterを閉じた後。本名とは異なる自分を演じた後の、なんとも言えない居心地の悪さと似ている。リアルの友人間でも感じる違和感ではあるが、ネット上の世界であればあるほど、その違和感はリアルを知られたくないが故により「演じる」という自覚が強まり、より強く心の中に芽生える。

だが、その一方でその虚無感と同居するように、インターネットという世界は己の承認欲求と多面性を許容してくれる世界である。ゆえに何者でもない人間が、リアルでは認められなかったその才能を、ネットの世界では成すことができる。リアルで叫んでみたら「ポエマー」「変人」となじられてきた言葉を、何もない電波の世界で叫んでみると、案外ネット上の人間の共感を呼びそれが「詩」となる。音をつければ「音楽」になり、絵として出せば「絵画」になる。ただの雑談が何もない世界では「憩いの場」となる。当然芸術という分野はインターネットの普及の遥か前から、各々のコミュニティの中で作られてきたものであるのだが、インターネットというのは不思議で、「何もない世界」であるのにも関わらず、「いろんなものを融合化させていける世界」であることもまた事実ではないかと思う。

では、インターネットはカップラーメンのようなものだとして、それになんの意味があるというのだろうか?
その答えは、私にはまだない。というより、持たないの方が正しいだろう。インターネットの世界は時に虚しく、悲しく、辛い。しかし無くなってしまう物だけではない。『何もない世界』だからこそなんでもなしえることが出来る。正確には、インターネットはカップラーメンのようにいつか消えてしまうものではあるが、いつか消えてしまうからこそ今を大事にすべきだ。そして同時にその見えない、答えのない意味を考え思考し続けていくことが大切であり、『何もない世界』で様々な自分を見せ、多面性を許容されることを望み、演じながら、リアルに活かせるところを活かしていきたいと思っている。そうして元の世界に戻り、リアルをしっかりと直視してこそ、インターネットの世界がカップラーメンで終わったとしてもその味を覚え、その味を懐かしむことができ、そのカップラーメンを己の血肉とすることそのものなのではないか、と私は考えている。

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さて、散歩をしながら考えていたことを言葉にしてみた。最後に、この記事を書くきっかけであり、私のインターネット考の礎を築いた曲と言っても過言ではない、私の大好きな浦島坂田船の曲、「Shoutër」の歌詞の引用を添えて筆を置くこととする。

何もない世界は消えて元に戻る
それぞれの暮らす現実が待つ遠くの場所へ
何もない世界で何を残せたんだろう
もう一度ここで遊びたい
Listen to my voice
Shoutër/浦島坂田船


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