水族館で生物の授業を受けた日のこと
スマスイこと須磨海浜水族園が6月、神戸須磨シーワールドとしてリニューアルオープンする。
シャチの水槽があるとか、イルカプールのあるホテルが併設されるとか、今から楽しみではあるが私たちのスマスイはもうどこにもないんだな……としんみりしたりもする。といってそんなに通ったわけではないのだが。
のだが、スマスイには忘れられない思い出がひとつある。あれは高校生のときのことだ。
私の高校では生物の授業は選択科目で、受講している生徒は学年全体で20人もいなかった。担当教員は二人いて、若い女性のS先生と中年男性のN先生。そのうちのN先生のほうが結構個性的な人で、生徒に授業をさせたり、文化祭に出し物を作ったり、まあいろいろやったのだが、その中でもとびぬけて突飛なできごとがあった。
高校三年の初夏だったと思う。N先生が生徒たちの前でにこやかにこう言ったのだ。
「次の土曜日、スマスイ集合で」
唐突だった。私たちは何がなんだかわからず「え?」と言った。次の? 土曜日? スマスイ集合?
なんで?
なぜ唐突にそんなレジャー施設へ観光など。しかも次の土曜日って。すべてが謎すぎて私たちは「え?」と言うこと以外できなかった。
「あ、これは授業ですので。制服着てきてくださいね。何時に来てくれてもいいけど14時までには来てください。14時からイルカショーなのでそれは見ること。イルカショーのあとに集合です」
相変わらず唐突ではあったけれど、ひとまずこれは観光ではなく授業なのだということはわかった。生物の授業で水族館に行く、というのは、まあ変わってはいるが破綻はしていない。そのころ私たちは系統樹と動物の分類の勉強をしていた。生物が生まれたのは海というし、カンブリア爆発と呼ばれる多様化が起きたのもまた海だ。だからまあ動物園ではなく水族館というチョイスなのも、まあ、わかるような気はした。
それはそれとして水族館は水族館だ、魚とイルカとペンギンしかいない。なぜスマスイで授業を……という疑問はぬぐい切れなかった。
「あ、イルカショーは絶対見てくださいね。絶対ですよ」
なんか念を押された。
そして迎えた土曜日。私は友人と駅で待ち合わせして、たしか13時ごろに水族館に入ったと思う。久しぶりに入ったスマスイは覚えていたよりも広くて、いろんな展示ゾーンがあった。そうしてぶらぶらと一時間くらい過ごしているうちにほかの同級生とも合流した。なんせ制服は目立つのだ。
14時、先生に言われた通りイルカショーを見た。なぜ生物の授業でイルカショーを見ねばならないのかはわからなかったけれど、N先生のことだからなにか理由があるのだろうと思った。
イルカショーを楽しんで(久しぶりに見たイルカショーはすごかった)、二人の先生と合流すると「おみやげとか見ます?」とショップに連れていかれた。クラス担任にペンギンのぬいぐるみを買って帰るかどうか迷っている私たちの隣で、若いS先生が年上のN先生を音が鳴るチンアナゴのぬいぐるみで強襲していたのを覚えている。
と、もしやこのまま観光しかしないのだろうか……と不安になっていたところで授業が始まった。
水族館のスタッフさんに案内された広場。そこには壁一面にイラスト付きの系統樹が描かれていた。
「今の研究ではこの系統樹は実は誤りもあると明らかになっているんですが」
そう前置きしてから、スタッフさんは系統樹について説明してくれた。すでに授業でやった範囲だから復習ではあったけれど、場所を変えて聞く説明は新鮮だった。
その後会議室のような場所に通され、いくつかのコンテナの前に立たされた。コンテナには水が張ってあって、中にヒトデやナマコ、タコといった動物が入っていたと思う。触っていいですよ、と言われてたじろいだ。触る勇気がなくて後ろのほうにいたら、N先生に「触んないの」と言われた。私は「触んないです」と答えた。無理強いはされなかった。
その後スタッフさんと別れ、先生たちに連れていかれたのは「無脊椎動物」のコーナーだった。
水族館の奥まった場所にそのコーナーはあって、私たちのほかに人はいなかった。水族館の中にありながら忘れられた場所のよう。それも無理からん話で、そのコーナーにいたのは名前通り無脊椎動物、つまり魚ではなかった。正確にどんな動物がいたかまではもう思い出せないが、はっきり言ってしまえば見たこともない、カワイイともキレイとも言いがたいような動物が大半を占めていた。
けれど私は一目でその水槽たちに目を奪われた。その動物たちは、まさしく私たちが生物の授業で勉強した系統樹の通りに並んでいたのだ。
海綿動物。刺胞動物。軟体動物。棘皮動物。原索動物。そういった分類ごとに水槽は分かれていて、それぞれに説明がついてあった。おそらく鑑賞目的で作られたコーナーではない。教育目的で作られたコーナーだった。
そうか。魚とイルカとペンギンだけじゃなかった。スマスイには無脊椎動物がこんなにたくさんいたんだ。
先生は水槽を指し示しながら、教室で勉強した内容をさらに詳細に教えてくれた。私たちは実物を見ながらその説明に耳を傾けた。水族館で、こんな時間が訪れるとは思ってもみなかった。仄暗い照明と見たこともない動物たちが私たちを異世界に連れてきたようだった。
そうして、私たちは飽きるまで知的好奇心を満たした。受験勉強に疲弊した心に、そのひとときは水のように染みわたっていった。
のだが。
すべての説明を終えて、N先生はにっこりと笑った。
「それではこれから口頭試験を始めます」
空気が凍った。もう十年近くたつのに、あの瞬間のことはよく覚えている。
口頭試験? どこで? ここで。つまり、水族館の水槽の前で。
は?
わけがわからず固まる私たちをよそに先生は続ける。
「一人三問、生物の分類に関する問題を出すので、全問正解できたら帰っていいです。一問でも間違えたらもう一度列に並びなおして何度でも挑戦してください。合格するまで帰れませんから」
合格するまで帰れませんからって言った?
要するに抜き打ちテストだ。抜き打ちテストで満点を出せと言っているのだ。満点を出すまで再テストをすると、そういう意味なのだ。
そんな鬼みたいなことある?
しかし私たちの嘆願がこの先生たちに通じた試しなどはなく、かくして地獄の口頭試験が始まった。ベンチに座り閻魔のように待ち構えるS先生、水槽の前で必死に教科書をめくる私たちをにたにたと眺めるN先生、死地に赴くような顔でS先生のもとへ旅立ってゆく仲間たち。
そしてその数十秒後にはうなだれた姿で列に並びなおす彼ら。
忘れようもない。私は水族館に行くたびにあの「全問正解するまで帰れま10(3だけど)」のことを思いだす。あとチンアナゴで先輩を強襲していたS先生のことも。きっとこれからも忘れることはないだろう。
ちなみになぜイルカショーを見なければならなかったのかはついぞ明かされることはなかった。永遠の謎である。