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多様性って、今生きてる人達のことだ。

前提。
僕は性同一性障害である。

この前スーパーに行ったら、190cmはあるだろう日本人がいた。
羨ましい。20cm程分けて欲しい。

いるだけでメチャクチャ目立つ。
商品選ぶのに背を丸めていても目立つ。

ぼーっとその人を見ていたら、小さなオバサンが僕の前を通った。
あ、いや、都市伝説のそれではない。140cm台という意味での小さい。
やつれた顔で重そうなカゴを下げている。

そのタイミングで、ふっと周囲を見渡す。
美男も美女も良いスタイルの人もいない。
顔面偏差値が残念な子供がピンク色のフリフリな服を着て可愛い子ぶっている。ぶりっ子の概念はアプデされないらしく、痛々しいポーズをやたらと取っている。

それで、急に体感した。
性別も、外見も、境遇も。
皆納得してその役割を演じている訳ではない。
そう産まれた。そう作られた。
だから妥協して、仕方なく"それ"で生きている。
だって体はゲームのアバターみたいにキャラクリできないから。
云千万円かけて整形しても納得できず、お金を積み続けるのが良い例だ。

多分人は大体自分が嫌いだ。
外見も能力も現状も、きっと不平不満だらけだ。
けれども多くの人は『仕方がない』と受け入れて生きている。
もう自分は80になるというのに、息子は50にもなって引きこもりのまま。心配だけど仕方がない。
定年退職後体に鞭打って娘と孫の分の生活費を稼がなければいけない。仕方がない。
不倫関係がいつまでもうまく続く訳がないけど、仕方がない。
あの人はきっと奥さんと別れる気は無いけど、仕方がない。
同期が1週間有給使って海外旅行だって。俺は7連勤だけど、出世できなかったから仕方がない。
50万円のゲーミングPCを基盤にフルトラッキングしてんだって。アイツは実家が太いから、比べても仕方がない。
高校の時有名だったヤンキーいたじゃん?そうそう、田中田中。先週工場ん中で首くくったらしいぜ。すげー借金抱えてたらしいし、仕方ないよな。

現実は物語みたいに魅力的でもないし、輝いてもいない。
死臭の中で次の死体になるまで『仕方がない』と動くこと。
それが生きるということだと思った。
各々が「仕方がない」と全てに妥協し受け入れて、時々抗ってラッキーな奴は上に登ってアンラッキーな奴は下に落ちて。それだって次は上がった奴が落ちて、落ちた奴が何となく戻ってくる。

俺は産まれた時から体と心の性別が違ってた。
それで色んな嫌な目にあった。
周囲からは女として扱われ、カムったからってそれは何も変わらない。
「どんなに自分は男だって主張してても、男から見たらお前は女だよ。見た目も中身も」
当然だ。女として扱われている以上、男がどう扱われているかなんて外側しか分からない。どこまで努力したって"男の真似事"でしかない。
外側から見える男を真似ても、男からしたら全然男じゃない。
だからって女と馴染めずに女の世界も知らないから、女と打ち解けることもない。
性同一性障害というのは名前の通りで、心身の性別が一致しないことにより社会生活が困難な人間ってことだ。
完全な男でもない。完全な女でもない。どっちにも混ざれない。理解者なんていない。そういう人なんだと気を遣ってもらったり、今の多様性ブームの世間体上ひいき目に見てもらったりする程度だ。

けれど本来の多様性っていうのは、身長が高すぎて日常に支障をきたしている人も、逆に低すぎて困っている人も、ブスもブサイクもメンヘラも借金とかいう自己責任論で死んだ人も、そういうの全部ひっくるめての言葉なんじゃないかと思った。
昔日本が飢饉で行った口減らしも生き残る為の多様性だし、生娘を神様の贄にするのだって多様性だ。文化も風習も感情も思考も、その全てが多様性で当然だ。
今蔓延っている集団強盗殺人も、金が欲しくて、その理由が生きる為とか女を買う為とか色々あって、それでやってんだろう。正しく多様性だ。
一方古くからある怨恨から来る殺人だって多様性だ。
「ソイツを殺して何になる!殺された彼女は復讐なんか望んでいない!」
「ソイツを殺したら、お前も同じ最低な人間になるんだぞ!」
古いドラマの古典的な泣き落としも、未だに通用するかもしれない。
その言葉でナイフを落とす奴、逆に決意を固めて殺す奴、何を思ったか自殺する奴。それだって多様性だ。

諦めと選択。
それその物が多様性なのだから、俺だってその中の1人であると同時に病人であり障害者でありワガママな人間だ。
成人式で結婚も出産もしないと宣言した生産性ゼロの社会に貢献していない人間であり、同時に多くの遺伝性の持病を抱えて自分自身が働けていない以上未来の障害者を産まないという優生保護法やその思想を継いだ人間である。
そして『だからこそ自分という人間は殺されても仕方がない人間である』と割り切っていると同時に福祉的な支援を受けて延命してもいる。

多様性というのは障害者を受け入れることでもLGBTQ+を受け入れることでもそれらについて勉強したり考えたりすることでもない。
混沌や矛盾や個々人が体現しているそれこそが多様性であり、人はただ人でしかない。
もしも多様性を考える必要性があるというのなら
「自分はどう生きてどう死ぬか。その為の道筋と計画、及び計画が破綻した場合の複数の別プラン」
くらいではないかと、ただのスーパーでしみじみと体感した。

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