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『守護神 山科アオイ』24. 余波

 アオイと慧子は「〈顧みられない熱帯病〉と闘う会」の事務所近くの公園で幸田と待ち合わせる。幸田が「リネンサービス・アオキ」の商用バンでやってきて、二人をバンに招き入れた。幸田は、人通りの少ない細い路地に入って、バンを停める。
 慧子がリゾートホテルの裏で幸田と別れてからの展開を話し、幸田は、「ほぉ」、「えぇ?」、「マジすか」、「ひょえ~!」、「おおぉ」など、ひんぱんに感嘆詞を交えながら聞くが、「なぜもっと早く連絡してくれなかった」とは、言わない。幸田は慧子のやり方を知っているし、そのメリットを理解している。
 報告を聞き終えた幸田は、
「アオイは、よく頑張った。博士が周りの目を引きつけて救急車を呼んだ判断も的確だった」
と言った。

「さはさりながら、『世話役会』には、和倉をさらわれたと報告しなければならない。博士、いいね」
幸田が念を押すように言う。
「事実を隠すわけにはいかない」
「あたしらが『世話役会』からバツつけられて、この仕事は終わりか?」
アオイが悔しそうに言うが、幸田は答えない。

「幸田さんが『世話役会』に連絡している間、私が運転する」
慧子が言うと、幸田が
「いや、連絡は、非常時待避所からする。ずっとクルマにこもっていて、疲れた」
と答える。
 幸田の言葉にアオイが車内を見回すと、無造作に畳まれた寝袋がベンチシートの隅に置かれ、スポーツドリンクのペットボトルやコーヒー缶が床に散らかっている。特大の「燃やせるごみ」袋に入っているのは、使用済みの携帯トイレだろう。これは、避難所で手足を伸ばしたくなるはずだ。
「避難所に行こう。あたしも、疲れた。ジンジャー・エールが飲みたい。幸田、待避所にジンジャー・エールを置いてあるだろうな?」
「もちろんだ。博士の好きなダイエットペプシもある」
「では、ひと休みしましょう」
慧子が言い、幸田が運転席に移動した。

 コータローが担ぎ込まれた病院では、世津奈が膝の上で拳を握りしめ、救急外来の廊下のベンチに座っていた。緊急処置室から手術着姿の医師が出てくる。ベンチから立ち上がる世津奈に、医師がマスクを外して言う。
「生命の危機は脱しました」
世津奈がほっとため息をつき、医師が続ける。
「脊髄に注射痕があります。血液から筋弛緩剤の成分が検出されました」
「脊髄? 身体にマヒがのこったりしませんか?」
「今のところは、わかりません」

「筋弛緩剤の濃度は?」
「詳しい分析はこれからですが、致死量に近かったようです。救急措置が適切だったから、辛うじて命を取り留めました。救急措置は、あなたがなさったそうですね?」
「たまたま現場に居合わせた救急救命士の方が手伝ってくださいました」「そうですか」
医師が言葉を切って、少し言いよどむ。
「事件性があるので、警察に連絡させていただきます。よろしいですね」
「はい」と世津奈は答える。

「警察か……」
世津奈は口の中でつぶやく。スマホを取り出し、メールに「P×2」と書き込み、「京橋テクノサービス」の社長と人事部長に宛て送信する。世津奈とコータローが警察と関わることになったという連絡だ。
 警察と「京橋テクノサービス」は、長年敵対関係にある。警察は、機密漏洩摘発と産業スパイ狩りに特化した「京橋テクノサービス」のような民間調査会社が、警察が産業スパイ捜査の主導権を握る上で邪魔になっていると考え、調査会社を敵視し、潰そうとしている。この背景には、機密漏洩と産業スパイ――法律上は「営業秘密侵害事犯」というのだが――の刑法上の扱いの変化がある。

 かつて、「営業秘密侵害事犯」は被害にあった企業が警察に告発して初めて警察が捜査する親告罪だった。警察が捜査し立件すると裁判になる。裁判では被害企業名と盗まれた情報が公になるが、それは企業にとって不都合なことだ。
 そこで、企業は、警察の代わりに民間調査会社に依頼して「営業秘密侵害事犯」を水面下で処理していた。逮捕権のない民間調査会社でも、産業スパイの活動を妨害することは十分にできる。

 しかし、行政サイドでは、経済産業省を中心に日本企業の知的財産のガードが甘いという問題意識が高まっていった。これを受けて、2015年に機密漏洩と産業スパイを取り締まる「不正競争防止法」が改正され、「営業秘密侵害事犯」が非親告罪に変わった。企業からの告発がなくても、警察が独自に捜査を始められるようになったのだ。裁判の過程で企業秘密が公にならないよう裁判の進め方も改められ、「改正・不正競争防止法」は2016年1月に施行された。
 
 だが、法が改正されても、企業は依然として「営業秘密侵害事犯」を警察沙汰にしたがらなかった。警察の介入を許すことは自社の信用と体面に関わるという意識が企業には根強かった。
 一方、警察も、企業内に協力者や情報提供者を抱えているわけではないから、独自に捜査を始めるといっても、手がかりがない。
 
 このような事情で、法改正以降も「京橋テクノサービス」のような民間調査会社が「営業秘密侵害事犯」被害企業の「駆け込み寺」として機能し続けた。
 警察は、機密漏洩摘発と産業スパイ狩りに特化した民間調査会社を除外しなければ、自分たちが「営業秘密侵害事犯」捜査の主導権を握れないことに気づいた。そして、民間の産業スパイハンターを潰せるありとあらゆるチャンスをうかがうようになったのだ。
 世津奈とコータローは被害者であるとはいえ、警察と関わりになることは大きなリスクだった。

〈「25. 因縁の再会」につづく〉