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【後編】音楽に"意味"は必ずある。三ケ田圭三が見つめる、いわき・東北の「変わり目」

*前編は<こちら

ライブハウスは結構、意味があるなと、初めてわかった瞬間

——じゃあ、ソニックに入られてから、割と5〜6年ぐらいで震災が来ちゃってっていう感じですよね。

 そうそう、そうです。

——その時は、ここ(ソニック)には?

 震災の時、ちょうど仙台ら辺にいて。
 娘がお腹の中にいて、うちの嫁はいわきの人なんだけど、どちらかっていうとうちの秋田の実家とすごい仲良くなった人で(笑)。息子が2歳、お腹の中に娘がいる状況で、いわきにいるとちょっと大変だからって秋田に引っ込んでたんです。俺だけソニックに残ってて。何ヶ月ぐらいいたのかな、ちょっとつわりも落ち着いてきたから、いわきにとりあえず戻ってくると。迎えに行ったのがちょうど2011年3月11日。うちの親に運んできてもらって、嫁と息子を。仙台で合流して、車に乗せて。
 仙台から海沿いを通っていわきに帰るか、もしくはお金かけて郡山経由でいわきに帰るかって選択肢になって。割とうちはお金使わない派なんで、海沿いの下道で……が大体だったんだけど、その時だけうちの奥さんが「ちょっとまだ気持ち悪いから上で行こう」って言って、助かったの。そのとき海の方走ってたら、間違いなく時間的には飲まれてたらへんにいたはず。結構そこは、(お腹の中の)娘に助けられた説があって(笑)。

——すごい話ですね。

 ちょうど……国見でしたっけか。福島市の行く、仙台と福島市の間ぐらい。あそこら辺の高速走ってる時に揺れて。で、左側見たら、福島市らへんかどうかわかんないけど煙上がってたりとか。そのままずっと道路進んでったら、高速道路が崩壊してるわけですよ。道が一個なくなってたりとか。脇をスーって通れたりとかで、奇跡的にその日のうちにいわきまで帰れたっていう。めちゃめちゃ時間かかって。で、ラジオつけたらもう津波のカウントダウン始まってて。冗談でしょ、って感じだったのが、実際戻ってみたら本当だったみたいな。

——ほんとじゃあ勘一髪というか。いわきに戻って、じゃあここにも顔出してっていう感じで?

 うん。ソニック行って。でもその時はもうライフラインがなかったし、とにかく嫁のつわりとかもきてるんで、水確保したり、食品確保したりとかが、ちょっと大変だったかな。

——そういうの大変でしたよね、あの時期は。

 で、どうなるかわかんないってときに原発爆発して。うちの奥さんはお腹の中に子供いたんで、ものすごくもう、気が狂うぐらい心配になっちゃって。子供がおかしいことになっちゃうんじゃないかっていうことで、まあ電話とかも通じないんだけど、とりあえず……何日後だろう、福島空港に走ってみたんですよ。ガソリンも片道分ぐらいしかなかったんだけど、とりあえず空港行ってみようって言って、行ったら飛行機出てて、羽田に飛べて。羽田からまた秋田に飛べた。一泊だけしたかな、羽田で。飛行機も乗れるかどうかもわかんないけど、とりあえずもう恐ろしくて、そういうふうに避難したってことがありましたね。

——じゃあ、一番緊迫してた時期っていうのは、回避じゃないですけど、向こうで過ごせて。

 うん。でも3月のうちに俺は帰ってきてんだよな。4月の、9日がソニック再オープンだったから、1ヶ月以内にまた始めてんだけど。

——早いですね!

 そうそう。とりあえずソニックの中はお酒が全部倒れちゃって、フロアがぐちゃぐちゃだったんで、水道が出ないから洗えなかったっていうのもあったんだけど、水道がとりあえず出ましたってなって、みんなで掃除できるってなって、俺帰ってきたのかな。家族はそのまま秋田で、半年ぐらい居ずっぱりだったはずだから。

 店はある程度できる状況だけど「不謹慎なんじゃないか?」みたいなムードがあって。「本当にライブやっていいのか?」。でも家賃とかもあるし、どうしようっていった時に、アリオス(いわき芸術文化交流館)が避難所だったんだけど、うつみようこさんっていう人が、ちょうど3月9日うちでライブだったの、震災の前々日。そういうのもあって炊き出しに来てくれてて。それ手伝いに行ったら、避難してる人らがみんな「歌ってくれ」みたいになって、うつみさんも実はギター持ってきてて、そこでバーって歌ってんのを見て、みんな楽しそうだったというか、すごい意味を感じたんで。
 ちょうどスタッフみんな観に行ってたはずで、ソニックも「やっぱり街のためになんかやろう」ってことで、4月9日から再オープンさせたんですよ。最初はドリンク代のみ、ギャラもないけど、それでも出てくれる人いたらやってくださいって募集を出して。「ドリンク代だけでももらわせてくれ」と、「家賃稼ぎたいから」って、始めたら一瞬で全日程埋まったのよ。いろんな、新しい、まだ来てなかった人も入ってきたり、逆にずっと来てた人が来なくなったこともあるけど。今までずっと来てくれた人も助けに来てくれたり。
 コロナまでのソニックっていうのは結構、そこら辺で来た人らに支えられてる面が強い。

——すごい、ギャラもチケット代もなくて……回ったんですか?

 うん、なんか回りました。回ったっていうか結局、演者もみんな持ち出しっていうか。とにかく一杯だけ飲んでもらう。
 毎日すごく人来てね。やっぱ誰かに会いに来るっていうか、結構ライブハウスで「わ〜久しぶり!」って再会したりとか、そういうのもすごくあったし。ライブハウスは結構、意味があるなと、初めてわかった瞬間。人が集まれるっていうのはすごい意味があるなと思った瞬間でしたね。

——再会とか憩いの場に実際なってるのを、目の当たりにできたってことですね。

 うん。「音楽やるっていうのが果たして意味があるのか、人にとって」みたいな命題も、あの時期はあったんだけど、やっぱそこは助けられたっていう気持ちがあるから、それはもう自信を持って「意味があるぞ」と言えるハコかなと思って。

——それめっちゃ素敵です。うつみようこさんも、そこで歌を聴かせてくれてっていうのがすごく。

 そういうことがあったんですよ。『満月の夕』歌ってた。阪神淡路大震災でできた有名な震災ソングなんだけど。うつみさんもソウル・フラワー・ユニオンのメンバーだったから。

——そこで集まった人たちのおかげで、そこからもソニックが続く原動力になって。

 なった。徐々に地元バンドもやり始めて、いろんなことが起こっていって。何ヶ月前にとかじゃなくて、急に立ち寄ってライブになるとか、すごく人来てくれたんだよね。意外と家賃ぐらいはなんとかなったみたいな。

——すごいです。

地元バンドと一緒に形にする、って力をつけるのにやっぱ10年じゃ足らなかった

——それと、そこから「東北ライブハウス大作戦」とかっていうふうな流れになっていくと思うんですけど、その辺の流れとかもお聞きできたらなと思ってました。

 そうですね。BRAHMANが入ってきて。なにしろうちのPAの新妻が、「大作戦」やってる西片(明人)さんの弟子だったもんで。東京でLOFT時代、西片さんに育てられたりしてたから、すごく自然に入ってきたっていう。
 結局、被災地の入り口だから、いわきって。茨城とかも食らってるんだけど、やっぱり東北の入り口だったりするんで、そこに入ってきて、そこから上に登るみたいな流れがあった。すぐは登れなかったけどね、原発だから。で、そういうのは身近にあって。
 細美(武士)さんはよく毎月歌いに来てて、弾き語りで。細美さんはただ自分で「歌わしてくれ」って、いきなり。初対面というか、何も知らなかったけど、電話を本人がくれて、「やらせてください」っていうのがあって。

 そこでやってるうちに、3月11日に、タテタカコさんがASYLUMって企画を、2012年からずっと続けてきた沖縄でやってるイベントなんだけど、それを「何か福島にしてあげたい」ってことで、持ってきてくれたわけなんですよね。それで細美さんも出て、TOSHI-LOWさんとかもいて、そこでみんなで3.11って日にいろいろイベントをやって、細美さんが「『大作戦』に協力したい」ってなって。じゃあ、ソニックで機材とかブッキングやって、「大作戦」をやろうっていうときに行きましょうよっていうのが、俺が最初に関わったアレだな。
 それで宮古、大船渡、石巻の他に気仙沼とか5か所ぐらいやったの。「大作戦」のライブハウスを作る予定のところを巡るライブだったんで、その建設予定地だったりとか、宮古は元々ある小さいライブバーとか、気仙沼とかだと公民館とか借りて、ライブをやったんですよ。うちで音響の機材持ち出して、1週間ぐらい。そこで、それぞれハコを立ち上げる人と顔見知りになって、やり取りして徐々にハコができていくみたいな感じだった。

——そのやっていく中で、関係者の人たちはもちろんですけど、それを観に来るお客さんとかの反応はどうでしたか?

 うーん。もちろん当時はみんな、すごく人もいっぱい来たけど、まず大体にしてミュージシャンがすごく有名な人だったから、追っかけの人たちとかも来られたりしてて。震災の意味合いでやってるんだけど、完全に有名人目当ての人とかもいるし、厄介なこともいっぱいあったなあ。
 あと、地元バンドはあんまりいなかったでしょう。

——そうですね。

 最近だとようやくね、石巻だとベスとか、地元バンドってあるけど、そういうのも(当時は)夢のまた夢みたいな状況だったから。結局その、集客ある人頼りなイベントも増えていって。集客力が足りない人は、行きたいけどなかなか行けない、迷惑かけちゃうみたいになっちゃう。そこは打破できないまま、ずっといってしまったなって感じ。

——ネームバリューがあるからこそ逆に、そういう弊害も避けられなかった?

 というかね、やっぱ地元がそういうバンドを受け入れて、その地元バンドと一緒に形にする、って力をつけるのにやっぱ10年じゃ足らなかったってことだと思う。っていうぐらい結局、すごく田舎だから……すごくちょっとこれ、書いていいか俺もわかんない(笑)ディスになっちゃうのは嫌なんだけど、やっぱりそこがすごく残念なところ。でも未だに進んでる、ちょっとずつ良くなってるような気もするし。
 だからやっぱりそういう、数字ある人頼みになっていくし、付き合いもそういう人に寄ってっちゃったところはあるよね。それがすごく残念。なんかもうちょっとこう、ひらけた感じになればよかったんだけどなあとは思って。
 いわきとかは逆に、地元のバンドがいたから、なおさら思ったかな。

——あ〜、「いるのに」っていう。

 うーん。「行きたい」って思ってくれてる人が、例えばそのバンドに集客力がなかったとしても、地元バンドがそのバンドのこと好きだったらライブになるでしょ。そういうことができないってこと。だから、とあるアーティストがいて、100人なら100人って見えないと、形にならない。っていうのってすごく……なんていうんだろうね、ブッキングというより貸しバコに近い動きになっていくっていうか。
 果敢にそういうの入れ込んだりもしたんだけど、やっぱりあんまり喜ばれない。赤になっちゃうし、みたいな話になっちゃって。これはやっぱり、中心の人らがそういう世界で生きてる人らだからってこともあるよね。

 でもこの間も、宮古のジュン・ランボルギーニって人が、ブッキングとかPAとかやってる人なんだけど、フランスのバンド……ノイズというか、envyみたいなのを弾くギタリストと、絵描きの童話作家がペイントして、それをスクリーンに映し出してって人(tAk & Demont)のツアーを、そういうの好きだからってやってくれて。
 宮古はやっぱり「本当に好きなやつをやっていきたい」って言ってた、「変えていきたい」って言ってたから。逆にいうと、ネームバリューある人が来てくれたけど、それがずーっと増えてくような流れには……相手もつらいから。やっぱり経費もかかるし、仙台とか盛岡に比べて人も入んないから、もちろん。

——そればっかりやってるってわけにもいかないですもんね。

 いかない、そうそう。だし、やっぱり盛岡とか仙台のライブハウスは、すごく被災地に対して譲った10年だったと思う。協力もしたし、実際そっちに吸い取られちゃって「こっちも厳しいのに」っていうのはあった。仙台とか、特に煽りを感じたんだよな俺。元気がなくなったというか。
 最近仙台、鉄風東京とかの流れとか、フラサン(FLYING SON)の界隈で面白いのが見受けられるよね。あれはちょっと逆に、コロナらへんの、流れが変わった感じがすごいしてて。それまでの間の宮城のバンドとかも、石巻出身とかの方がなんか目立ってた気がする。ちょっと普通に戻ったんじゃないですか、流れが。やっぱ都会は都会で、田舎は田舎でって。

ゼロからやり直すぐらいの気持ちが必要かな

——でもそっからコロナ禍で、またちょっと若干スイッチしたというか、感じもありましたもんね。

 なんか今すごく変わり目だね、いろんなものが、変わり目だなって感じる。コロナ以降、多分そういう時期にあるんじゃないかな。ここからが気合の入れどころかなと思う。
 どうですか? zanpanやってて。いろいろ感じる? 変わり目っていうか。

——そうですね、でもzanpan的にはピーク(郡山PEAK ACTION)でずっと、コロナ禍っていわれてた時期も配信で。

 はいはいはいはい。

——コンスタントにやらせてはもらってたんで。

 うんうん。やっぱそれ続けたのがでかいよね、きっとね。

——まあでもそうですね。

 今こういうふうになって、見られ方としてはちょっと、続けたことによって違うよね。

——だから、あんまりめちゃめちゃ大きな変化ないかもな、って思ったんですけど、でもそれは続けたからとも言えるのかなっていう、ちょっと思いましたね。

 うんうん。いや、これから変わると思いますよ。いろいろちょっと、今もなんかね、そんな気がしてる。いくらでも攻めようあるでしょ。

——そうですねえ。

 今まで人気があって、力があったとこが落ちてさ、今までそんなに人気なかったけどいいなって思ってた人らが急に目立ち始めたりとか。変わり目だと思うよ、すごく。

——ちょっと壁が崩れたというか、シャッフルされた感じはちょっとありますね。

 うんうんうん。

——でもやっぱり震災の時の経験が、コロナ禍とか、今もそうかもですけど、活きてる部分ていうのはきっとありますよね。

 そうですね。多分、震災の時のそういう財産で10年間やってきて、それがまたコロナで一回リセットされて、その時培ったもので今後は行くっていう気もするし、ただ俺の場合は震災の時に繋がった人ら、世話になった人らに対して、返していきたいなっていうのも強いし。それはコロナもやっぱり一緒かな。そういう時期にやってくれた人と、やっていきたいなっていうのはあるかな。

——やっぱそれだけこことか、あるいは音楽が好きな人たちってことですもんね、続けてる人たちって。

 うん。気持ちで来てくれてる部分とか、スタッフとかもそうですね。「それでもやっぱりここでやりたい」とか「ここを盛り上げたい」っていうのは本当なんだなっていうのは、そういう時にすごくわかる。

——ソニックも変わり目っていう風にさっきおっしゃってたと思うんですけど、なんか具体的にこういう感じっていうのは、言葉でお聞きできそうなもんですか?

 それはまだわからないですね(笑)日に日に、目の前のを見てるだけなんで。だんだんなんか変わってってるなって思うというか。

——それが何なのかはまだもうちょっと先。

 まだわからない、うん。みんなすごい考えてんじゃないかなって思ってて、「どうしてこう?」って。やっぱり数字も落ちちゃったし、どう活動していけばいいんだろうとか。新しく出てきたバンド……まだみんながみんな知り合いになってないし。でもやっぱり、ゼロからやり直すぐらいの気持ちが必要かなって思いますね。なんか不思議な……今までのところを守りたいっていうのと、でも変えていかないとしょうがないっていう感じが混在してる気はする。

——なんかバランスとか難しいですけどね。

 そうだね。俺そういうのすごい考えるんですよ。

——どっちを増やしても……っていう。

 うんうんうん。でもやっぱり、コロナ禍では地元のバンドが各土地を支えたっていうことは間違いないから、それはすごい良かったかな。逆に震災の時の流れで、どっちかっていうとソニックも知名度ある人が来るハコっていう意味合いがすごく強くなりつつあったような気もするし。それがやっぱりコロナの時でも、地元の人らが支えてくれるとかっていう力も持ってたし。ありがたい話ですね。
 まあでもさっき言った通り、そうだね、バランスよくやりたいね(笑)。

——コロナ禍に限らずかもしれないですけど、福島とか郡山のライブハウス、「福島CALLING」とかもあったと思うんですけど、から受ける刺激とか影響みたいなものも。

 もちろんもちろん。元々ソニックに俺が勤め始めたらへんって、どっちかっていうと「浜通りでいいバンド出ると中通りに取られちゃう」みたいな気持ちが大きくて、個人的に。いわきですごく人気出てくると、やっぱ中通りの方が人が入るから、集客状況も良かったりして、いい対バンもあるから、なんかそっちのハコに取られちゃったな、みたいな。
 結構だから、こだわっていわきのバンドばっか誘う、みたいなのもあったかもしれないです。だから割と「陸の孤島」的なふうに見られてたんじゃないかなと思う、あの当時って。ただ、ゆえにちょっとマニアックなものが結構育ったかもしれない。コアな感じのっていうか(笑)。

 バンドがちょっと減ったってのも重要だね。数が減って、やっぱり福島とか郡山とか会津とかのバンドも「来てもらいたいな」ってなったのがある。「福島CALLING(福島・郡山・いわきのサーキットイベント)」とかすごくわかりやすくて、若手からそういうふうにみんな顔合わせていくみたいな、あれは意図的にずっとやって……またやんなきゃ。

——そうですよね(笑)。

 zanpanもそうだよね、最初の表記違う頃(THE☆N☆PAN)とか出てたでしょ。

——そうですね。いろいろ勉強させてもらいました。

 そうですか。ありがとうございます(笑)。

後続を育てたい、で、自分も残ってたい

——そしたらぼちぼちじゃあ、まとめに入っていきたいと思うんですけど……その時その時で多分あったとは思うんですけど、その色々を経た上で今、現時点での解釈として、大事にしていることっていうのをお聞きしたいです。

 やっぱ「内容」と「繋がり」なのかな。ソニックができる前からある流れとかもあって、古い考えかもしれないけどそういう、「筋」みたいな、ストーリーがあると思うんですよね、全部一本一本。そのバンドがなんで来てるかとか、そういうのはすごく大事にしたいなあと思う。
「このバンド、良い」みたいなのも、できればそのハコだけのジャッジとか、世間の数字っていうよりかは、いわきならではの、という感じ。「いわきでしか無いよね」っていうブッキングをするとか、どっちかっていうと「局地的にいわきだけそういうの盛り上がってるな」みたいなの作れたらすごくいいなあと思う。
 割とそうだなあ、福島とか全国盛り上げようっていうのと、ちょっと違うかもしれないですね。地元が主役って感じ。

——うんうん。なんかいわきは結構、独特のカルチャーみたいなのは個人的にも感じます。

 うんうん、そうだね。
 で、やっぱりそういう、いわきに深入りしてくれる人を大事にしたいし(笑)っていうぐらいやっぱ交通の便もよくないし。放っといてもツアーの通り道、っていう場所じゃないんで。
 そうだなあ、そういう「ならでは」だね。やっぱ特殊になっちゃうのかもしれないけど……特殊なことをやろうっていうことでもないんだけど、やっぱここで生活してやってる人らを中心で考えたいのはあるかもしれないね。ゲストバンドにしろ。

 この間やった、いわきゲリゲ祭りっていうのを実行委員長でやってるんだけど、それも数字というよりかは、地元の実行委員とかやってる人たちと付き合いが深くて、普段ソニックに来て繋がりある人だったりとか、その人らの普段のイベント、その人らが来た時のイベントをちょっとでも伸ばしたいって気持ちで大きいイベント組む、みたいな感じかなあ。

——それとちょっと重複してしまうかもしれないんですけど、さらにその先っていう部分で、やりたいこととか、今まだちょっとやれてなくてっていうところがあれば。

 やっぱり次の世代を育てたいですかね。いつまでも店長でいる気はなくて。やっぱり自分でここで出来たこととか繋がりとかでどんどん出ていって、自分が今いるポジションを次の世代に渡して。
 どっちかっていうとソニックって、自分の代で終わりとか、俺ありきのソニックにしたくないっていうのがあって。どんどん若い人が替わっていって、常に新鮮な場所で居続けさせたい。できれば自分が死んでもある場所というか。それはちょっとこれからでしょうね。
 俺が一番最長の店長だから。俺一応4代目なんだけど、今のソニックに移る前のちっちゃいところで、エミールとかやってた遠山一夫さんが初代店長で、2代目でPAの新妻辰倫が1ヶ月間だけなったはずなの。で、ハコ台とかノルマ取れなくて、お人好しすぎて降ろされて(笑)。その次に星さんになって、星さんがこっちに移って、それも多分3〜4年くらいなんじゃないかな、その後ずっと俺なんで……。
 だからそういう視点で考えると、俺が入る前まではそういうふうになってたんですね、ちゃんと移り変わって(笑)居すぎ(笑)。

——(笑)いやいやいや。

(笑)ただ、新しい世代ともちゃんとこう、断絶しないようにしたいというか。どんどん若い人らが出てくるんだけど、自分が若い頃にそういう地元のバンド、同い年の人らとガンガン盛り上げたのとちょっと感覚が違う。もう聴いてるもんもやっぱ違うし、繋がりも違うから。
 後続を育てたい、で、自分も残ってたい、みたいなところをやっていきたいですね。いつになるかとかは分かんないけど。

——まあ、長いスパンで。

 はい(笑)。

——分かりました。あと何か、聞きそびれてること、話せてないみたいなの……たくさんあるとは思うんですけど(笑)。

 まあでもそんな……あとは自分の活動続けたいですかね。いちバンドマンでいたいって感じ。制作とか、ライブハウスのみのそのエキスパートじゃなくて、単純に「いわきで音楽やりたい人」の一人のままでいたいかな。
 できれば若い子もそういうふうになってもらえたらいいと思ってて。同じ視点でやれたらいいよね、やっぱり。バンドマン同士で店の人と話せるのが面白いんじゃないかな。今のところ偶然そうなってきてるから。

——そうですね。であればこそ分かる部分とか、我々からすると逆に話しやすい部分とか。

 そうそう。ダメなところもあるんだろうけど、なんかできれば。うちはもうオーナーもバンドマンだしね、それがちょっとソニックらしいのかなとは思ってたりはします。

——なるほど。では、そんな感じで、以上になります! ありがとうございます。

 ありがとうございます、お忙しいところ。

——とんでもないです、こちらこそ感謝です。


三ケ田圭三(みかた・けいぞう)
1977年5月24日生まれ。大阪府出身。
秋田・岩手で学生時代を、大学時代以降はいわきを拠点として過ごす。
club SONIC iwaki店長としてさまざまなアーティストを迎える傍ら、自身もまたミュージシャン・三ケ田ケイゾウとして、あぶらすまし、三ケ田とくにお、常磐シーサイダース等で舞台に立ち続けている。
X(@akitasodachi

<取材・撮影協力>
club SONIC iwaki
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