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【前編】分解と追究の先にあるもの——「奏者」を呼び寄せる、金戸俊悟のサウンドワーク

3月2日に行われた、sayutaさんのレコ発ワンマンライブ。
正直な話、その余韻もだいぶ引きずりながらの編集作業だった。
ご夫婦で活動されているsayutaさんと金戸俊悟さん、お二人とものライフヒストリーを聴き終えた状態であのライブを楽しめたのは、インタビュアーの役得この上なかったなと思っている。

とにかく「音楽」ひと筋に、まっすぐ駆け抜けてきた俊悟さん。
ただ、そのまっすぐな道の中にも、さまざまなステージ経験やジャンルの学び、キャリア形成、出会いなど、その実たくさんのカーブを経て今日に辿り着いていることを、つぶさに語ってくださった。

幸運にもリリースのタイミングが重なった 『Melody Line -BLUE-』の、副読本的と言えるほど上手に取材が行えたかはわからないが、一緒に楽しんでもらえるものとなっていたら幸いに思う。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材・撮影協力:ふくしまFM

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」3月14日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
ラジオとのコラボについての詳細はこちら

「この子に渡したらすぐ壊れる」

——(ご出身の)小松って、石川県の中でいうとどのあたりに?

 南の方……加賀地方なんで、下の方というか。

——故郷の原風景じゃないですけど、住んでた町の印象とか覚えてることってありますか?

 引っ越しを1回だけしてて。小学校2年に上がるときかな。それで引っ越しして今の家になったんだけど。なんだろう、田んぼが多い。で、子供もいっぱいいたなあ。結構小学校が大きくて、3クラスあって30人ずつだから(1学年)90人で。下の代はもうちょっと多かったと思う。

——めっちゃ市街地ではないけど、寂しい街でもない。

 うん。そんなめっちゃ田舎って感じではない。郡山より田舎かな? でもなんか、郡山と小松の感じがすごく似てて。こっちは(国道)4号線の周りにお店がいっぱいあるけど、向こうは8号線っていうのがあって、小松から金沢に行くのがその8号線で、その8号線沿いにたくさんお店があって。それもなんか郡山から4号線使って福島行くのとすごい似てて。しかも距離も……まあこっちの方がちょっと遠いかな、郡山〜福島は1時間では行けないから。でも、その距離感もちょっと似てて。小松から金沢が大体1時間ぐらい。

——なんか面白い偶然ですね。

 うん。唯一違うといえば、海が遠い、こっちはすごく。

——うんうんうん。結構じゃあ、カジュアルに海にも行ける?

 うん。中学の時とかは、午前海釣り、午後山川釣りみたいな(笑)してたな。移動距離どんだけあんねん、みたいな感じだけど(笑)。

——(笑)できちゃうんですもんね、いいなあ。釣り好きだったんですか?

 でもそんなに深くはやってなかったな。小学校~中学校ぐらい。バス釣りが流行って。でも割と行ってたな、一人でも。雑誌があって、バス釣りの。プロのバス釣りの人がアドバイスしてるんやけど、「釣り場には毎日行け」みたいなことが書いてあった。「そうすればちょっとした変化に気づけるから」「10分でもいいから糸を垂らすのが大事だ」みたいなこと書いてあって。それを真に受けて(笑)「じゃあそうしよう」って言って、片道30分くらいチャリ漕いで、釣り場に行って、本当に10分だけ釣り糸垂らして帰ってくるみたいな(笑)。

——素直に(笑)。

 うん(笑)素直に。まあ、だから上手くなったかって言ったら全然上手くはなんなかったけど。

——「毎日1曲弾け」っていうのとは訳が違いますしね。

 うん。労力に見合ってないよな(笑)。

——幼少期とか、ちっちゃい時に好きだったことってありますか?

 ラジオの中でも話してたけど、機械の仕組みとか知るのが好きで、よくおもちゃとか分解してた。すぐ壊しちゃう。今でもそういう子おるやん? 「この子に渡したらすぐ壊れる」みたいな、そういう感じの子供だったから、好奇心が旺盛だったんだと思う、多分。

——パソコンもちょうど過渡期というか。

 うん、すごい流行った。一家に1台パソコンって、今じゃ当たり前やけど、その当時パソコンが家に来るっつったらね、「わ~」って、「インターネットできる」って。好奇心は強かったな。

——それが機械とか音楽、ギターとかに向いていったんだと思いますけど、その他に何か食いついたものってありました?

 野球をやってて、野球少年だった。石川県小松市っていうと、やっぱ松井秀樹。ちょうど幼少期は松井が巨人からニューヨークヤンキースに行くぐらいの時だったのかな……いつやったか忘れたけど。でもそういう感じだったから、野球は結構身近にあったな。

——それは小4でギター始めてからも。

 中学まで一応続けてて。でも小学校3年生で少年野球に入って、小学校5年の時かな、スキーやってて、めちゃめちゃな怪我をして。その怪我のきっかけも覚えてて。スキーって、滑ってたらストックって普通こう、後ろに掻くように使うやん。これをこう、逆に刺したらどうなるんやろっていう(笑)好奇心。

——(笑)あ~それも。

 に勝てず、逆に刺したら、まあもちろんそのストックを軸にしてぐるぐる回って。で、左足を靱帯損傷して、1ヶ月半ぐらい松葉杖ついてて。そっからもう癖になっちゃって、捻挫が。怪我を恐れながらやる野球は……面白くないよね(笑)ってなって、もう野球よりもギターだった。

——うんうん……あ、モノとしての?

 そう。だから、どうやったら上手くなるのかなっていう、その仕組みが知りたいというか、今振り返るとね。だから、攻略するようなイメージ、ギターを。みんながゲームとかを上手くなりたい、このボス倒したい、みたいなのと同じ感じで「この曲弾けるようになりたい」「それにはどうしたらいいんだろう」みたいなことをよく考える子供だった。

最初の師匠はお父さん

——そもそものギターとの出会いっていうのは?

 お父さんがベースとギター弾けて。彼自身は自分のことはベーシストだって言ってるんやけど(笑)でも普通に、郵便局員で、昔バンドやってたみたいな。でもギターが本当身近にあって。だからギターを弾き始めたっていうのも、家にクラシックギターがあったから。あるのはもうずっと知ってて、それで、なんでやったかな……「なんでギター始めたんやったっけ」って(取材前に)すごい考えてて。で、まあ暇やったからっていうのは一つ、他にやることもないし。ゲームも家にあんまなかったし、冬場めちゃめちゃ雪降るから野球もそんなできない、暇やったからっていうのはあるけど、一個思い出したのがあって。

 少年野球の、6年生が引退する「6年生を送る会」みたいなやつがあって、それが俺が小学校4年生の時にあって。小学校5年生の、一個上の先輩で、バイオリンを弾ける人がいて、その「送る会」でバイオリンを披露した。「かっこええ」と思って。で、「送る会」終わって家帰ってきて、お母さんに「バイオリン買って!」って(笑)「え!?」みたいな。
 急で、さすがにちょっとバイオリンは難しいと。「とりあえずギターは家にあるから、ギター弾いてみたら?」「で、それで面白かったらバイオリンちょっと考えてもいいんじゃない?」っていうエピソードがあって。それでまあ、「じゃあ分かった、ギター弾いてみよう」みたいな。お父さん教えられるし。
 そういうきっかけでギターを手に取り……だから最初の師匠はお父さんだった。クラシックギターで、ビートルズの『デイ・トリッパー』を弾く。「♪〜」って、あのリフをひたすら。親指のここに水膨れができるまで弾いてたな。

——きっかけ自体は、妥協じゃないですけど……。

 まあ、そうだね。ある種妥協。でもある程度弾けるようになって、お母さんやったかお父さんやったかに「どうする? バイオリンにする?」って聞かれて、「いや、そのままギターでいい」。で、アコースティックギターを買ってもらったかな。小学校5年生ぐらいかな、22,000円、Takamineのちょっとちっちゃいギター。

——お手頃な。

 そう。でも、嬉しかったな。初めての自分のギター。今でも家にちゃんとある。

——弾き始めて……ずっとこう、自分の部屋の中だけで弾く人もいれば、賞レースとかに挑む人もいると思うんですけど、どっち派でしたか?

 小学校のうちは、他に一緒にできる人もいないし、あと他人にあんま言わない方がいいのかなと思って、なぜか。でも親がすごく言ってたのは「脳ある鷹は爪を隠す」じゃないけど……だから「あんま自慢をするようなもんじゃない」っていう感じが、自分の中で多分あって。だから友達にも「俺、実はギター弾けるんや」みたいなことも言ってなかった気がする。

 中学入ってもその感じはあったんやけど、よくしてもらってた楽器屋さんがあって、そこで「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」ってわかる? それに「出てみないか」って、中学2年生の時かな。それが初めてのライブ。ジェフ・ベックの「哀しみの恋人達」っていう名曲があるんだけど、それをギターとピアノで。

 ピアノを弾いたのが妹。同い年の双子の妹がいて。だから妹に、半ば無理やり(弾かせて)……ピアノ習ってたから。おばがピアノの先生で、そこで習ってて。「コードだけでいいから弾いてくれ」っつって弾いてもらって出て。そしたらその一番最初の大会で、なんかグランプリ取っちゃって(笑)。

 それ小松でやってたんやけど、次は金沢でやると。で、その時出たところ(金沢の会場)が結構大きくて、そこで県内からバーって集まるみたいな。で、やっぱすごいバンドの質が高くて、みんな上手やなと思って。グランプリは取れなかったけど、審査員特別賞みたいなのをもらえて。
 でも、グランプリの人しか行けないのね、次の大会には。で、終わったと思ってたら後日電話かかってきて。その映像を見た上の人が「この子らは引き上げなきゃダメだ」って。で、特別にその上(次の大会)に上げてもらえて。名古屋の何だっけな、なんかもう普通にでかいホールで演奏して。そこではもう全然、何にも引っかからずにそのまま終わって。

 その後、少し経ってからまた連絡きて。『Go!Go! GUITAR』って知ってる? 雑誌。その編集してる人かな、からその楽器屋に連絡が来たみたいで。「取材させてくれ」って、東京からわざわざ小松まで来てくれて、取材してもらって、なーぜかよくわかんないけどその雑誌の表紙になって(笑)。

——表紙!(笑)

 そう(笑)だから双子が二人でこう映ってるわけよ。懐かしい。でもまあ、そこから別に何かがあったわけじゃないけど。でもそういうのがあったおかげで、割と名前を知ってくれてる人は多かったかな。

——最初のライブから、急な。

 急なね。急にバーって。完全に「あの人は今」状態やけど(笑)でも大きな体験だったな。なんかすごい感動してくれる人がこんなおるんやと思ったし。まあ、正直何が良くてそんな上げられたかとか、その当時は全く考えてもない。ただ楽しくて、CDの通り弾きたい、みたいな。そんな感じだったかな。

本当は高校も大学も進学したくなかった

——それを経てまた「もっと頑張ってみたいな」って思いました?

 そうね。で、それで知ってもらえて、「小松に面白い奴がいる」って……ギター教室があったのね。武内ギター教室っていうところがあって、そこの先生、武内(和浩)先生に見つけてもらって、そこに通うようになった。だから最初の師匠が親父で、その次が武内先生。そこでいろんな……ブルースだったり、ラテン系の音楽だったり、フュージョンだったり。「こんな面白いギターの弾き方あるんだ」って。毎週それが楽しみで通った。それも大きな変化かな。そこで、初めてじゃないけど……初めてだな、ほぼ。ビートルズとレッド・ツェッペリン以外の音楽、ジェフ・ベックとか、ロック、ブルース以外の音楽に触れた、のはそれが大きかったな。

——幅も一気に広がりますもんね。

 うん。で、やっぱり我流でやってたから、(本来は)全然違うんだっていうのも知ったし。

——それはもうじゃあ、上京するまでずっと続いた?

 そうだね。途中ちょっと受験があったりとかで、休んだりはちょっとしてたけど。でもその中学2年から高校卒業までは、ずっと顔は出してたな。

——ギターを弾く主なフィールドはやっぱりそこ? 学校とかには?

 中学の時は全くなかった、外で弾くっていうのは。で、その武内先生がいろんなとこに連れてってくれるわけよ。婦人会で演奏があるって言ったらそこに一緒についてって、1~2曲演奏して。そういうところでは演奏してたかな。行くとギャラをくれるのね、1000円、2000円、「今日のギャラです」って、武内先生は俺に直接。親はそれ知らないのよ(笑)俺言ってないから。だから親は月謝を払い、俺はその先生からギャラをもらうっていう……(笑)。

——わ、本邦初公開じゃないですか(笑)。

 そう(笑)親はお金払ってるのに俺はお金もらってるっていう。

——変なサイクル(笑)。

 そう(笑)。でも、そうやっていろんなとこ連れてってもらって。「ギターを弾くとお金もらえるんだ」っていうのをそこで知ったし。

 で、高校行ってからはバンドを組んで。まあでも文化祭とか、地元の楽器屋さんとか、小松市がやってるライブハウス、そういうところで出たりとか……特に大きな動きはなかったかな。

——進学も、音楽を軸にして考えて?

 進学はね、本当は高校も大学もしたくなかった。ギターが楽しすぎて、「中学まででいいやん」って。やりたいことがもう明確にあったから。「ギタリストになりたい」。でも親に説得されて……だから中学は結構、学校通うのはきつかったなあ。周りの子らでそんなことで悩んでる人なんておらんし。なんか学校来て、別に頑張って勉強するわけでもないのに……「何のために行かなあかんねん」とは思ってたけど。
 でも、「本気になってない自分に原因があるんだ」っていうのを、親に言われたのかな。「やればできるのにやらない」っていうのはすごい言われてた。まあ、親のうぬぼれかもしれんけど。

 それで、塾に通うことになり。その塾も最初は嫌々行ってて。ある日、塾の送り迎えの車の中で、お母さんに泣かれたことがあって。あまりに俺がうだつ上がらないから(笑)。地元の高校で一番頭のいいというか……金沢に行ったらもっとあるけど、小松から通える進学校が松高、小松高校を略して松高っていうんだけど、「どうしても行ってくれ」と。「え、そんな泣くほどか?」とは思ったけど(笑)でも、そこで親の本気を見たというか。「じゃあちょっと頑張って勉強してみよう」って。で、小松高校に入って。

——おおー。

 そしたらみんな……そこの学校って、割と(みんな)頑張って入ってくるのね、勉強しないと入れないから。そしたら、面白い奴がいっぱいいて。やっぱちょっと中学とは空気が違う感じがして。
 バンドもその高校の中で組んだから、そうやってバンド組んでるのを面白がってくれる仲間もいたし、先生も面白がってくれてたし。

楽しかったな、自分たちで考えて動くっていうのが

 文化祭でライブ出てたって言ったけど、そもそも本当はそういう場がない学校なの。「文化祭でバンド演奏」みたいなものはなかったのね。でも先輩が無理やり作ったの、「一芸発表」みたいな場を無理やりライブにして(笑)で、それを自分らの代になった時に、「じゃあ俺らもやろう」っつって。
 なんのノウハウもないけど……とりあえずスタッフ、音響さんとか頼まないとダメだって言って、小松市が業務委託してやってるThe MAT'Sっていうところがあって、そこのライブハウスの人に直接、学校終わったら行って。「こういうことやりたいんだけど、いくらかかる?」「本当はこれぐらいかかるけど……いいよ! いくら出せる?」みたいな。「あー、全然出せない……」。

——出せないんかい!(笑)

(笑)。でも、5〜7万でやってくれたな、確かね。出演者でカンパするっていうのと、学校の中で……これ絶対ダメだと思うけど、学校の中で募金を募ってたの(笑)。

——あははは!

 募金箱を持って、各教室を回る。めちゃめちゃ集まって(笑)。ただそれが問題になり、先生に呼び出し食らって。「どんだけ必要なんや」。怒られたけど、先生もカンパしてくれて。
 でもその当日、(MAT'Sから)文化祭に機材車で来てくれたの。トラックで。だからね、多分あれ50万ぐらいかかる予算でやってくれてて(笑)。もう全部ちゃんと、モニタースピーカーもあるし、客席用のスピーカーももちろんあるし。ドラムは学校のやったかな。あとギターアンプ、ベースアンプとかも全部準備してくれて。もちろん卓も。あれはすごかったな。

——「学生パワー」みたいなのもあるかもしれないですけど、でも「動けば叶う」っていう体験にはなりましたよね。

 何も知らないからできたことかもしれない。でも、なんか「動けば動いてくれるんだ」っていうのは確かにあったかもね。

——観に来てた人の反応とかもよかったですか? 盛り上がってました?

 盛り上がったね。体育館でやったけど、結構みんな観に来てくれて。
 文化祭はもう、そこに集中してたかな。普通クラスの出し物とかあるやん。ああいうの全く関わってなかったな(笑)。

——(笑)「そっちでやっといて」みたいな。

 うん。当時の5万とか7万っていったら、でかい金やからね。今でも大金ではあるけど。でも楽しかったな、自分たちで考えて動くっていうのが。

 高校もちょっと特殊で。体育祭が文化祭の次の日にあるんやけど、その体育祭で各団、4つ団があって、その各団に予算が振られる。その予算が10万円だから、10万円渡して。ダンスとかいろいろあるんやけどそういう衣装とか、看板作ったりとか、そういうのを全部自分たちで10万円の中でやりなさいって言って、10万円ポンって渡されるのよ。その幹部をやってて。そこでもやっぱ、自分たちで考えて動かないと何も仕上がらないから。
 あと、そこでダンスの曲を繋げたりだとか、既存の曲を繋げたりだとか、あと足りない部分は自分で曲作ったりしてた。

——そんなところでも。

 うん、役立って。その辺から結構「何か作りたい」みたいなものはあったのかもね。

——学校もすごいですね。お金の使い方を学ばせたかったかどうかわかんないですけど、いいやり方ですよね。

 多分その責任みたいなものは……責任感みたいなものが芽生えるんだろうなと。
 あとその、自主性がやっぱすごい強い。卒業する時はちゃんと卒業ライブもやったな。その文化祭もやってくれたところ、MAT'Sで借りて、その時もパンパンに入ってたんだよ。友達もみんな来て、みたいな。

——募金が集まるぐらいですもんね……(笑)。

 うん(笑)。CDもその時ちゃんとアルバムで作ってた。10曲入りとかで作ったのかな。大学受験がもちろんあるから、受験終わった1ヶ月ぐらいでバーって、一緒にバンドやってた友達と泊まりがけで。俺ん家に泊まってたかな? やってたな。

——楽しそう。

 うん。最後の思い出作り。

<次回>
キャリアの始まりと多くの気づき、ターニングポイントについて。
*後編は3月22日公開予定

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