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【前編】叶えた夢と、今ある願い。アーティストたちの帰りを待つ「渡邊文昭という人」の話

郡山駅前、なかまち夢通りを一本奥に入ると、イベントフライヤーが所狭しと並ぶ象徴的な壁面がある。"ジョンさん"の愛称で知られる、LIVE STAGE PEAK ACTIONのオーナー渡邊文昭さんの、イベントやアーティストへの愛情が感じられる光景である。
かつて「郡山のライブハウスカルチャー」について卒業論文を書いた聞き手・永井としては、5年ぶり2度目のジョンさんへのインタビューとなった。「あの頃よりも明確なお答えができるような気がします」と快諾してくださったジョンさんは、この日も笑顔で帽子を取り、ご挨拶してくださった。

取材・編集・写真:永井慎之介

PEAK ACTION再オープン10周年を迎えて

——(談笑を経て)じゃあ、じわじわ聞いていきたいんですけど。

 じわじわ(笑)よろしくお願いいたします〜。何なりと。

——それで一応タイミング的には、ちょうどピークがこの間10周年を迎えられたので、ひとまずそこらへんからちょっと(お聞きしたいです)。移転してから、10周年。

 そう、移転してから10周年。

——おめでとうございます…!

 いやあ〜ありがとうございます(笑)。9月11日は(周年イベントで)お世話になりました。

——こちらこそでした。率直に、10年……迎えてみて、いかがですか。

 まだまだこれからだなと思いました(笑)意外と……できることいっぱいあるなと思って。まあその、濃かった10年でしたけど、まだまだできることあるなと思って。迎えました。

——あっという間でした…?

 あっという間でした〜。今思えば。

——色々あったと思いますが、例えば……

 ああもう、そのいろんなライブ、良いライブ、楽しいライブ、辛いライブ…(笑)とかなんか、水漏れもしたりとか、台風あったなあとか。なんか思い起こされるものがすごい濃縮な10年で、と思って。

——お店の代表というか、店長というか……「店長」でいいんでしょうか?

 まあ、「代表」?「オーナー」?

——として、10年間で気持ちの変化とかは?

 気持ちはもう完全に変化しました、いろんなものが。多分年も10年重ねてるっていうのもあるんだろうけど、40歳手前っていうのもちょっとあって、やっぱり落ち着きましたね(笑)単純に。
 前はちょっとしたことでもイラッとしたりとかカッとなったりするのは、20代の頃はやっぱりあって。そういうのはあんまり無くなったというか、「ああ、君はそういう考えなんだね」とか、いう風に思えるようになったというか。

——ええ……。なんか全然そういうイメージがないですけど。

 あははは(笑)最近はそうかもしれないですね。20代の頃は結構カッカカッカしてた気がする、やっぱり若さだったのかな。どうなんでしょうねえ。

——(心境の変化は)それはお店をやっていく中で?

 やっていく中で。どうしても自分の中で譲れないものが色々あったりして、相手……本当は相手の立場になればそれは譲るべきなのにそうならなかったとか、「いや俺は絶対こう思う」とかって(笑)ことは言ってたりしたことがありましたね。
 今はちゃんと、その方優先っていうか。「ご出演者ありき」っていう考えに、どんどんシフトされてってる気がします。

——10年間でいろんな人と触れ合ったりしていった中で。

 うん。顔を合わせていって、ご縁をいただいていく中でですかね。ただどうしてもその中でも譲れないものはもちろんあって、そこはもう、ちゃんと言うけどって感じですかね。

——(「譲れないもの」の中で)例えばひとつ、みたいなのってお聞きできたりしますか?

 それこそもう、レコーディングとかミックスとか、あともちろんPAやってる時とかも。その当時は……まあ「自分は絶対これがいいと思う」みたいな、視線がちょっとあの、窮屈だったのかなあ。「ここの音は絶対こうの方が俺はいいと思う」とかいうのを主張してみたり(笑)。でも今はもうそうではなくて、やっぱその、ご出演者さんの、求めるものをもっと考えられるようになったというか。
 当時はもうちょっと自分本位だった感じですかね。まあシンプルにその、あれだったんでしょうね。自己中だったんでしょうね(笑)全然。

——ええ〜。それこそレコーディングだったらうちらも。

 ね〜。お世話になりました。あの音源(『若者のいちぶ』)いいっすね〜、ずっと聴いて、流れてる(笑)。

——お世話になりました……!あとそれこそ5年前ぐらいにも『OPEN』も録ってもらって。

『OPEN』も!ありがとうございました。

——その2枚の間でも変化ってあったんですか?

 あった〜。あった。でもあの頃にはもう割とある程度そっちの考えにどんどん。やっぱね、ご出演者さんありきだなと、思うことがすごく多くてですね。

「意思を持って始めた日」が起点

——地味に気になったのが、"移転して10周年"だったじゃないですか。一番最初の通算からの周年って今は数えない感じなんですか?

 今は数えてなくって、本当は数えなきゃいけないんだろうけど。

 実はあの、自分は2代目オーナーで。前、えっと、2000年ごろに多分PEAK ACTIONはできてるはずで、多分20年くらいなんですよ、きっと。なんだけどその最初、前のオーナーさん……前「entayaエンタヤ」っていう名前でやってて、PEAK ACTIONの前が。旧PEAK ACTION。そのentayaからPEAK ACTIONに変わったのが多分2000年であろう、みたいな感じなんだけど。ちょっとその、前のオーナーさんとの話でもちょっと曖昧で(笑)。
 でも自分は2005年にPEAK ACTION入らせてもらって、そっからの人なので、その頃にはもう多分PEAK ACTIONになって2〜3年目くらいだった……から結果2000年くらいには始まってた「はず」みたいな(笑)。

——ああじゃあ明確にココっていうのは、ぼやっと。

 のは、ぼやっとなんですよね(笑)。自分がオーナーになってからは、まあもちろん分かるんですけど。2010年の7月にオーナーになって、そっから……まあやっぱその、前の震災(東日本大震災)がやっぱりでかくてですね。その時にあの、一回なくなってるし、自分は2代目なので、お店の前のオーナーさんに「店の名前を使っていいですか」「新しく建てようと思うんですけど使っていいですか」っていうのがあって、まあリスタートというか。そういう形で再オープン10周年っていう形にしてるんですよね。

——なるほど。確かにそれだったらこっち(新店舗)来てからの方が、まあしっくりというか。

 しっくり。そうっすね。自分からちゃんと「始める」っていう意思を持って再開したっていうことで。PEAK ACTIONの歴史としてはそうなんですけどね。

——その話も、覚えてて。ちょうど2016年なんですよね、その卒論のインタビューしに来させてもらったのが。

 ああ……そうだったんだ。その時も同じような話でしたかね。

——entayaのところから聞かせてもらって。結構その、「ジョンさんの主観でいいので、郡山の音楽ってどんな感じですか」っていうことは聞きましたね。

 わ〜。す〜ごい。ありがとうございました。あれからじゃあ5年経ってもなお、ながいせんせは今こうやってインタビューやっててすごいっすね。

——(笑)。変な感じですね。

 いやあすご〜い。求めるものだったんですね、ながいせんせの。

——だったんですかねえ。
 調べたら、卒論の時のデータが残ってて。どんな話聞いたかみたいなのが、メモとかが残ってて。完成稿だけ取っといてあと消したかなって思ってたんですけど。

 ええ〜!!す〜ごい!多分ちゃんと答えられなかったんじゃないかなあと思って、あの時。今より明確なものがなかった気がする。

——そう…なんですか?でも、卒論にはとても活きたと記憶しています。

 よかったです……それはよかった。

——これをなぞるというか、同じようなことを聞いてしまうところもあるかもしれないんですけど。改めて。

 全然。是非。状況もだいぶ違うしね。変わったもん。

"真ん中の層のちょっと下お調子者タイプ"

——これ(卒論インタビュー時のメモ)を見ると、「小学校の時からピアノを始める」という。

 あ(笑)そこまで書いてあるんだ、すごい。

——「すごく嫌だったけど」って書いてあります(笑)。元々じゃあそんなに音楽に、小さい時からすごく親しんでたっていうわけでは。

 うん(笑)。本当にピアノだけ、言われて始めて、みたいな。ただ本当それが良くて、あとあと、家にピアノがあったってのが本当よかったなと思っていて。
 あの、中学終わりぐらいからちょっと興味出てきて、でもその時ちょっとギターかピアノかみたいな、でも音楽ちょっと演奏してみようかなみたいになったのが、チャゲアスきっかけで。

——あ〜。そうですね。「『COUNT DOWN TV』でチャゲアスを見たのがきっかけで」って(笑)

 あはは(笑)94年?93〜4年くらい。

——94年に僕らは産声を……

 ……うえーっ!(笑)すごい!!えっじゃあながいせんせ、12個違いってこと?あっそうだ戌年だせんせ。すごい、一回り。その頃私はピアノを弾き始めた頃でしたね。チャゲアスを。

——ちなみに幼少期の頃ってどんなお子さんだったんですか?

 うんと〜、割と、そんなにこう目立つタイプでもなく、かといってあの、静かすぎるタイプでもなく(笑)そんなに目立つタイプじゃない子だったと思う。いじめられた時期もあったし。でも小学生ってなんかいじめるよね。いじめられるターンが回ってきたっていう。
 でもちょっとお調子者だったような気はする。目立たないけど、クラスで一番目立つタイプじゃない、真ん中の層のちょっと下お調子者タイプ(笑)。

——何となくわかりました(笑)。

 割とそんな、一人っ子だったからなのか、そんなにみんなでワイワイしたいっていうよりは、自分の時間も欲しいみたいな、感じのタイプでした。別に勉強はできたわけでもなく。

——小さい頃はこれになりたかったような気がするっていうのってありました?

 あの、あんまり覚えてないんだけど、幼稚園か小学校くらいの将来の夢みたいなのに「バスの運転手」って書いてたことがあって。多分しかもそれもそんなになりたかったものじゃなかったような気がして(笑)。

——とりあえず書いといたみたいな。

 そんな感じだったような気がする。小学校の時は。……あっ、でも小学校一年生の時は七夕の時に、光GENJIっていう昔アイドルユニットがいて、憧れてローラースケートが欲しいっていうのは書いた(笑)。

——クリスマス的な(笑)。
 えっ、(お生まれは)小原田こはらだ……?

 あ、小原田、よくそこまで。生まれも育ちも小原田。ずっと小原田っ子ですね。

音楽が叶えてくれた旧友との再会

——小原田といえば、西田敏行さん(ご出身)。

 西田敏行さん〜。大先輩ですなあ。うちの叔父がなんか知り合いだった……遊んでたとか。そんな話は聞いたけど。

——ええ〜っ。

 あとKONCOSっていうユニットの、元riddim saunterっていうメジャーバンドがあって、そこから解散してKONCOSっていうバンドになった……

——ふっしーがイベントでお呼びしてた……?

 あ、そうそうそう!古川太一くんっていう、は一緒に集団登校とかで通ってて(笑)。彼とは一個違いで、そのあと北海道に行くことになっちゃったんですけど。

——じゃあ音楽で再会したみたいな。

 そう、本当に音楽で再会した。riddim saunterっていうバンドのドラムが小原田出身らしいよって、古川太一っていうらしいよって、ん?古川太一?みたいな。で、すごい当時やってて、解散して、そのKONCOSってユニットで(再スタートして)。
 ONE STEP BUSのドラムのサウラくんも小原田で、彼とは同級生で。「一緒にKONCOS連れてくるから」って、ここで再会して「あれフミくんだよね?」「えっ太一くんだよねやっぱり!」みたいなのが再会です。
「フミくん集団登校一緒だったよね」みたいな(笑)。「何回か一緒に遊んでたよね」「隣の家のスズキ〇〇とかサトウ△△とか一緒に遊んでたよね」みたいになって、そっからよく来てくれるようになって。音楽で再会できました。

——すごい。そんなことあるんですね。

 ね。びっくりした〜驚いた〜。

——「中学の時はサッカーに打ち込んでた」っていう。

 あっ。それも残ってますか(笑)。サッカー打ち込んでました。サッカー少年。将来の夢はその時はもうJリーガー。

——結構いろんな夢を見て育ってきた……?(笑)

 いや、小学校の時は完全に夢なかったです(笑)なんとなく書いたくらいだったんで。中学は本当明確にサッカーの選手になりたいと思ってて。サッカー少年でした。

——中高時代、思い出などありますか。

 中学はそのサッカー部で、今No Mas ControlってバンドのKakuさん、杜撰オールスターズでも一緒にやってるんですけど。Kakuさんと一緒にサッカーやってて。部活後……放課後、部活も終わったあと二人でシュート練習とかしたりとか、そういうのばっかり、サッカーばっかりだった。覚えてるのは。

——なんか……いろんな種が転がってたんですね。

 転がってた〜。驚くほど転がってた。伏線回収じゃないけど(笑)。

——身近にいろんな人がいたんですね。

 いた〜。んでそのKakuさんが……後で知ったんだけど、その時好きだった女の子とKakuさん当時付き合ってたみたいで。なんもなかったらしいけど。俺が密かに好きだった人と付き合ってたっていう(笑)ことはありましたね。

 でもその中3くらいで、中体連?夏の試合があるじゃないすか。今もあるのかな?それが終わったあたりにもうサッカーやんなくて受験のシーズンになって、なんかちょっと腑抜けて、チャゲアスの方にハマっていって。そっから音楽にハマりはじめっていうのが、もしかしたら一番でかかったのかも。今思えば。

——「高校からはピアノとギターを弾いてました」。

 弾いてました〜。ピアノとギターやってました。チャゲアスが大好きだったんだけど、チャゲアスだとちょっと難しすぎてバンドはできないって思って。やっぱりバンドやってみたくて、ブルーハーツなら簡単だって言って、割と最初は入門しやすいって言って、クラスメイトとバンド組んでって感じでした。

——そのバンドで、FREEWAY JAMで。

 そう〜。
(編注:郡山FREEWAY JAM。以前郡山市にあった、市内最初のライブハウス。)

青春の思い出たち

——うちらはちゃんと建物も見たことがないくらいで。記憶がないので。どんな場所だったんですか?

 そうかあ……ちなみに旧JAMっていうか、文化センターの裏にあった頃は…?も行ってないか。2012年に建て壊されちゃったはずだから。そうだよねあんまり、ないかもね。そしたら。今もしあったとしたら多分四十何年くらい、43〜4年くらい続いたことになるのかな。当時35周年くらいだったはずだから。

——じゃあ70年代くらいからずっと。

 そう、あった。最初は虎丸のファミリーマートが今ある、大友パンの近くにあって。細長〜い、古〜いビルで。ウチの半分、ちょうど半分くらい。幅半分みたいな。ステージはでも……ステージはでもウチくらいなのかな。でも本当ウチを半分にしたくらいの狭い、30人入ったらパンパンなところで。そこに何十人も詰めかけて(笑)ライブしてた感じ。
 結構ね、2階にあって、本当古いビルで、なんていうんだろうなあ、昭和の……昭和のスナックみたいなところ?にバンドセットがあってっていう、PAほとんどなしで。マイクだけ、声だけみたいな感じ。それでよく高校の時はもう、すし詰めになりながら(笑)やってましたねえ。

 でも色んな人来てたみたいで、ORIGINAL LOVEの田島貴男さんとか、も郡山出身でやられてたりとか、なんか結構名だたる人が来てて。郡山で最初にライブハウスをオープンされたのはもう、FREEWAY JAMさん。
 そのママさん、確か市長から表彰されてるんだよね。ずーっと昔に。新聞載ったって。「音楽で貢献したので表彰します」みたいな感じなのかな。

——それこそその、ワンステップフェスティバルの話をお聞きする流れで、FREEWAY JAMのお話も聞かせてもらったんですよね。

 ああ〜。俺はリアルタイムでは見られてないから、残念ながら。すごかったみたいだよね、当時。
(編注:ワンステップフェスティバル……1974年夏に郡山市・開成山陸上競技場で行われた、日本のロックフェスの先駆けとなったイベント。アクトにオノ・ヨーコや沢田研二など。)

——みたいですね。

 一大事だったみたいで。懐かしい〜、それも5年前にインタビューしてたんだ(笑)。すごいなあ、歴史ですね。5年でこんなに変わるかって感じですね。

——JAMのお店の方達って今もお元気なんですかね。

 去年かな、コロナになってすぐ電話いただいて、その時は元気だった。その後はして……一回だけかな、電話したの。でももうだいぶお歳になられてるはずで。70は越えてらっしゃるのかな。元気でいてほしいなあとは思いつつ。

——そんなJAMでコピバンをやる中で、その、プレイヤーとしての気持ちの芽生えみたいなのがあった?

 うん。ありましたね。楽しかったすごく(笑)。

——この時は何を……?

 あ、ギター。で、時々例えば、えっと、『TRAIN -TRAIN』って曲があって、ブルーハーツの。それ最初にピアノが出てきて、その時にはピアノちょっと弾いたりとか。安い……安いキーボード持ってって(笑)。両方やってたりした。

——わあ、それ楽しいですね。

 でもてんやわんやんなるけど(笑)。両方やってた。

——ライブの思い出とか、ありますか?

 やっぱぎゅうぎゅうでやってたのがFREEWAY JAMではすごい覚えてるかな。みんな汗だくになってやってたなあ、毎週通ってて俺も。知らない大人の人らのライブとか見に行ったりとかして、だからJAMの思い出がすごいでかいっす。汗だくになってぎゅうぎゅうになって。近くの唐揚げ屋食べに行ったりとか(笑)。

——その後に、ESP(ミュージックスクール)に入るっていうふうな。これは、その時のライブの経験とかから、行きたい気持ちが?

 行ってみたいって思って、すごく。あでも、その前に実は高校……これは話してないかもしれないけど高校卒業する前にあの、母親が亡くなって。それも結構でかくて、その後一年コンビニでバイトして、一年遅れて行ってるの、ストレートっていうよりは。その1年間で色々こう、考えて、ああこのまま、ここにいるのもいいけど、ちょっと外出てみようって思った記憶は少しある。

——そういうきっかけが……。

 ありました。

——(ESPでは)「キーボードアーティスト科」と。これは、技術者とか裏方っていうよりは、プレイヤーとしての。

 プレイヤー。んでもうギタリストはいっぱいいるから、キーボードの方行ってみようって、行ってみたいなって思って。しかもその、打ち込みとかも興味あったりして。それで、キーボード科を専攻した感じでした。

——どんなことを学んでいったんでしょうか。

 それこそもう理論と、もちろんプレイと、そのみんなのアンサンブル、アレンジ、まあその編曲だったりとかっていうのが多かったかも。理論的なものとかは、ポップス理論とか、結構未だに勉強になったなって。

——今のお仕事にも通ずる。

 通ずる、ものがだいぶそこにできててですね。本当行ってよかったなって思う。まあ、別にあの、キーボーディストとして芽が出たのは一切ないですけど(笑)。何も今、キーボードのことはこの通りほとんどなくて。
 でもそこで何かPA的なものとか、レコーディングの経験させてもらって、ライブももちろんだし、レコーディングエンジニアさんとかと一緒にやらせてもらったりしてたのが結構でかくて。それがあとあとちょっと興味に繋がっていってみたいな感じでした。

——結構そこでじゃあ、今お仕事でしてる部分っていうのも培われて?

 培われた。そこでもやっぱ種が蒔かれてたみたいで、「あの時こういうことやったなあ」とか思い出してみたりとか。「あれ面白かったなあ」とかっていうのは結構あったかも、そこで。

——先生とか同級生とのことも覚えていますか?

 も〜。大好き。みんなもう、キーボードコースは本当に少なくて、生徒が。1、2年合わせて20人行かないくらい?20人行ってたのかな?っていうくらい少なくて。最初はあの、女子が5人ぐらいいたんだけど、夏休み明けたらみんな辞めてて(笑)。完全に男子校みたいになっちゃって。それが本当に楽しくて、みんなでこう、わいわい、ああでもないこうでもない、遊び行ったり、飲み行ったり(笑)。
 先生も、もう「休むならみんなで休めや!」みたいな感じで、「来るならみんなでちゃんと来いや」みたいな。青春でした、まさに。

——ギター専攻の方は人数がいっぱいで。

 人数めちゃくちゃいた(笑)比じゃないほどいた。ESPはギターメーカーあるし。もうこれは人多すぎて……。

——キーボードは人が少ない分こう、ぎゅっとして。

 ぎゅっと!本当ぎゅっと。未だに時々連絡とったりしてるし。嬉しいっす。
 先生にもコロナ禍になる前に、結婚したくらいかな?うちの奥さんと一緒に、ちょっとESP寄ってみようって行ったら先生いて。「うわジョン!ジョンやないか!」(笑)。「ほんま久々やな」って再会したりとか。「金髪だったよな当時」みたいな。「いま坊主やないか」(笑)。

——坊主のジョンさんしかうちらは知らない…!

 でしょうねえ〜。当時は金髪で。ちょうどながいせんせくらいの長さでした。もっと長かったかなあ。金髪だったり、黒かったり、黒か金かどっちかだった。

——なんで丸めようと?

 あ、これもあの、俺元々肌弱くて、昔からアトピーだったんすけど。当時も結構、髪あった時、おでことか顔すごいひどくて。それです。髪の毛が肌の、顔の皮膚に触るとただれるからっていう理由でした(笑)。それで一気に坊主にしたら、ああ割とさっぱりして、被害がないと思って。快適だったんです。そっからずっと坊主になっちゃいました。

仕事に関しては「夢叶ってる」

——「音楽関係の仕事をしよう」と思ってたんですか?

 まあできればしたかった。当時からやっぱりしたくて、でもなかなかそういうご縁に恵まれなくて。で、自分でもっと探すべきだったんだろうなと思うんだけど、それでコンビニのバイトをしながら、演奏で東京行ったりだとか……。

——あ、それは卒業した後……?

 あ、後です後です。サポートとか、バックトラック、打ち込み作ったりとか、サポートでキーボード弾かせてもらったりとかで東京行ったり来たりしたり。
 まあもちろん地元の、JAMさんとかでもイベントやらせてもらったり、イベントっていうよりはブッキングかな。ブッキングライブみたいな、出させてもらったりとか。

——お仕事のご縁みたいなのもあったんですね。

 まあ、それが結果ここに繋がったというか。

——もう他の職種の仕事はしたいと思ってなかったんですね。

 うん、できればしたくないなっていうのは(笑)。でもそのコンビニのバイトもすごく楽しくて、それも本当嬉しかったっすねえ。

——結果的に今じゃあ、ある種夢叶ってるっていう。

 うん。夢叶ってる。

——entayaの時代のこと……JAMもそうですけど、全然僕は知らなくて。当時はあれですよね、セブンの、あっちにあったんですよね。

 ああ、そうそう。でも自分いた頃はentayaがPEAK ACTIONになってすぐぐらいで、ライブも全然なくて。月に……週に一回あればいい方みたいな。あとは、その一個上にビルにスタジオがあって、KRS(郡山リハーサルスタジオ)っていう。そこの業務がほとんどだったと思う。

——ライブハウスのスタッフっていうよりも……

 スタジオの店員さん、っていう感じの方がすごい大きかったっすね。

——entayaとPEAKっていうのは、名前が変わったっていうだけだったんですか?仕組みとかではなく。

 多分おそらく。正直なところあんまり首突っ込まないようにしてたっていうのはありますね。なんやかんやでPEAK ACTIONっていう名前に(笑)。で、それが今はSTUDIO WINって。WINのホシさんっていう方が前の社長さんで。ホシさんがPEAK ACTIONっていう名前のもとをつけたらしい。

——あ、そうなんだ…!

 そうなんです。でもPEAK ACTIONっていう名前自体はすごく好きで、自分も。多分海外的に訳したら多分違う意味なんだろうけど。造語になるんだろうけど。

——……なんか海外の、インスタか何かで!

 あ!PEAK ACTIONさん(笑)。
 Darren Abateさんっていう方がいて、一回メールしたの。「PEAK ACTIONっていう名前で、こちら迷惑じゃないですか?」みたいな。「こんにちは、お互いPEAK ACTIONですね」みたいな。「全然迷惑じゃないよ」みたいな、すごくいい人で。プロカメラマンで、向こうの。
 それであの、何回かやり取りしてるうちに、PEAK ACTIONのパーカーとか、フーディーとか作った時にちょうど連絡してて。「フーディー、売ってるの?」みたいな。「あっじゃあ送りますか?」って言って送ったら、使ってくれてた。ステッカーも貼ってくれてた。すごいよね(笑)びっくりするご縁だった。

——自分の名前みたいな感じで(笑)。

 そうそう(笑)。面白いですね、どこでどうなるかわかんない。

"すぐ辞めてやろう"は"辞めてやるもんか"へ

——(店の名前が変わった時の話に戻して)その時って今と比べるとどうでした?お店の様子……

 お店の様子はもうライブハウスっていうよりはもう完全にスタジオ業務ばっかりで。週に一回ライブがあればいい方って感じ、あんまり機能はしてなかったんじゃないかなあ。

——ライブ自体は、盛り上がりは……?

 あったと思う。シャープナインさんFREEWAY JAMさんHIP SHOTさん、の方がすごく盛り上がってるイメージは自分はあって。いろんな方来てるなあ、みたいな。

——どっちかというと向こうのほうがわいわいしてたんですね。

 わいわいしてるイメージ。もうシャープナインさんなんかいっぱい県外のバンドも来てたし、わいわいしてるイメージで、こっちはもう、本当駆け出しの小さなライブハウスみたいな。駆け出しっていうよりもなんか、おじさま方がやってるライブハウスみたいなのあるじゃない、そういう感じかな。ツアバンとかじゃなくてもう地元のバンド、コピバンとかで使われるようなライブハウスだったイメージ。

——確かにそのくらいの頃ってシャープ……行ったことないですけど、すごい元気そうなイメージ。

 元気だった〜。すごかった〜。めっちゃ元気だった。シャープナインさんもアーケードに移転する前だったのかな、あっちの、お好み焼き屋さんの方にある、アーケード越えたとこにある、元々あっちで。こっちは全然盛り上がってなかった。PEAK ACTIONは全然盛り上がってなかったイメージがある(笑)。

——結構じゃあ、人が集まるまでに時間はかかって。

 時間かかった。入った時はもう正直な話、すぐ辞めてやろうって思ってたくらい、折り合いが良くなくって最初は。現実とその裏方のギャップにやられてしまったというか。

——高校でライブをやっていた時に想像していたのと、のギャップ?

 の、ギャップみたいなのがすごくあって。なんか違うのかもって。その時は思ったんだけど。でも逆にそれが、なんかワ〜嫌だ〜みたいなのが逆に自分は、逆にあとあと良くって。絶対辞めてやるもんかみたいな、意地になっていく、パターンでしたね(笑)完全に。

——やっていく中でじゃあ、少しずつその、やりがいとか楽しさとか。

 うん。うん。半年くらいしてからかな。半年か一年くらいしてから、ようやく少しずつ見えてきたというか。楽しくなってきた。

——何かきっかけになるようなこととかが?

 そう、よくぞ聞いて頂きました(笑)。その時スタジオに、海王丸っていうバンドがいて、今は活動休止中なんだけどその海王丸さんのベースのこてつさんって方とはやっぱり昔から繋がっていて、よく対バンしてたりしてて。その方が「今海王丸ってバンドやってるんだ」って言って、よくスタジオ来てくれるようになったりとか、ライブしてくれるようになって、それが結構でかくて。一緒に頑張ろうなみたいな感じのことをよく言ってくれてて。頑張ってんだなあみたいな。それがなんかすごい嬉しくて「ああ頑張ろう」ってなったんです。そういうきっかけがあって。本当些細なことなんだけどね。

——でも気持ちが誰かとシェアできるだけでも。

 そう。本当それは海王丸さん感謝してます。

——それでやがてその、お店を引き継ぐじゃないですけども、代わりにやろうっていうふうに。

 続けようって。あ、で、お店自体は前ホシさんが辞められて、前のオーナーさんが残ったんだけどまあ如何せん60過ぎてたから、割とお歳で。その方ももう辞めるってなったのが2010年の7月前ぐらいかな。じゃどうするってなった時に、あっじゃあ俺、引き継ぎますって言って。そっからでした。

はじまりの日、そこに彼らあり

——でもそれからすぐ震災が。

 そう(笑)半年、半年ちょいくらい。

——建物が、だめになっちゃって?

 そう建物が。ビル一面壁剥がれて。あれ本当、運悪かったら誰か亡くなってたくらいのレベルのやつで。めっちゃ怖かった…。

——怪我人とかはなく?

 出なかった〜。でも4階の壁一面剥がれて落ちてくるし、さすがにすごかった。ずっと一日警報鳴ってるし、ずっと。

——前後しちゃうんですけど、そっちにあった時も今くらいの規模感で?

 ああうん、規模は変わらず、このくらいで。

——機材とかは……

 とかは全然無事で、何も被害なしで。その時はまだグラスを使う……旧PEAK ACTIONグラス使ったりジョッキとか使ったりしてて、そういうのが割れたくらいかな。そんなに大きな被害はなく。

——移転にあたってはじゃあ、単純にお引っ越しみたいな感じ。

 そう、もうモノだけ。でも移転作業もほんと手伝ってもらった〜、いろんな人に。ピアノとかめちゃくちゃ重かった(笑)冷蔵庫とか、そういうのも全部皆さん手伝っていただいて。それはでもちょっと大変な重労働だったかな。でも(物件が)見つかるまでがちょっと時間かかってしまって。

——見つかってから再オープンまではどのくらい?

 ああ、すごい急ピッチ。その前の物件も、使えなくなるかどうかまで答え出るのちょっと時間かかって、1ヶ月くらいかかったのかな。んでどうにもできなくて。どうしようどうしようって言って決まって、そっから探しに行ったんだけど見つかんなくて。ようやくここが空いてることを知って、でした。そっから銀行にお金借りに行ったりとか。

 で、本当あの(再オープン日が)9月11日ってのも、まあ秀吉BANDさん(ひとりぼっち秀吉BAND)とか、聞く機会あったらだけど、ツアーファイナルが9月11日にもう、うちがオープンするか決める前から「じゃあ9月11日にしましょうよ」「ジョンさん再オープン頑張ってください」みたいな(笑)。その日やりましょうみたいな感じで信じて待っててくれて。

——あ、それで決めたんですね…!

 それで決めたの。やろうみたいな。間に合わせようってなって、そっからもうほんと急ピッチに、一気に進んでって、事が。もうほとんど記憶ないっすその時のこと。
 融資が下りるってなったのが確か8月頭くらいで。ミクシィ日記に書いた気がする(笑)。

——時代ですね(笑)

 時代ですね〜(笑)。当時ミクシィコメント数が制限されてて、確か200件くらいだったんだよね。それ全部200件超えて、そのくらいコメントいっぱい来て。「制限」って書かれたの初めて見た。

——ああじゃあ、再オープンまでざっくり半年ありましたけど、だいたい7月くらいまではもうずっと物件探しで?

 物件……ああ物件はもうその時には大体決まってた。でその融資、とあと融資OKになった時すぐ工事に移れるように工事業者さんとかお願いしてて、そこもバタバタしてた〜すごいバタバタしてた。

——そっか。ただ引っ越せばいいってだけじゃないんですもんね。

 うん。設計っていうのもあったんだけど如何せん何もわかんないから、「これはステージと楽屋一緒にできないんじゃない?」ってなって。場所的に。でもピンと来たのはやっぱりこの場所で。ここならいいかもって。ステージと楽屋は別々になってもいいんじゃないかなって、でこの形になるんだけど。バタバタ。本当急ピッチ。
 秀吉BANDライブやった時、まだこれ……黒いゴムシートみたいなの貼ってるんだけど、ステージとかに。それもなくて、ただの白いコンクリートで。お客さんみんな真っ白になってライブ見てくれてた(笑)。秀吉BANDのみんなも粉まみれになりながらライブしてくれて。

——あ、もうその今ここで行われた最初のライブが秀吉BAND。

 そう秀吉BANDさん。ただオープニングアクトがあって、イズヒロキという男がいましてですね(笑)。彼が20分のところを40分ライブして……あの、これ書いて欲しいんですけど、しやがってですね(笑)

——(笑)やってくれましたね。

 やってくれましたね。怒られてたけど(笑)

——でもメモリアルですね。

 メモリアルです〜。そっからやっぱりもう、彼らにはどうしても、こう気持ちが……応援の気持ちがこう、ありますね。

——そんな人たちと一緒にできてるって考えると、僕らも嬉しくなりますね。

 嬉しいね〜。俺も秀吉BANDとzanpanのツーマンの時とかなんか感動しちゃった(笑)ツーマンとかしかも、なかなかないよね。嬉しかった〜あれ。特別な二組がこう、二組でやるんだ〜っていう、すごい嬉しかった。しかもコロナ禍で。やってみてどうだった?

——え〜なんか、でも、そんなにすごい特別な感じはしなかったですね。やること自体はいつも通りだったので。
 企画そのもののなんか、プレミア感みたいなものはもちろん感じてたんですけど。ライブ自体は素直に楽しかった。

 おお〜。だんだんそうなっていくんだね。面白いね。

——逆にインタビューされてしまいました(笑)。

 ああそうでした(笑)出過ぎた真似を(笑)すいませんでした。

——このくだりも書きますね。

 ぜひぜひ(笑)。

<次回>
尊敬する人々の話、元気をくれる家族の話、そして街と未来の話。
*後編は11月22日公開予定

記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。