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【前編】鈴木康弘の新たな旅立ち——沢山の贈り物と、大きな本棚を携えて

2019年11月、再会は突然叶った。
書き手・永井と同じ高校を1年先に卒業した、鈴木康弘さんが帰郷。
ご自身のバンドSheepdogs in the HollowのCDを手渡しに来てくださった。

在学中には温めきれなかった縁を、なおも覚えていてくださり、そして今こうして温め直す機会をくださった康弘さんの誠実さは、インタビューの中でも随所に顕れている。

昨年夏、惜しまれつつも解散したシープ。
しかし音楽に、そしてリスナーに嘘なく向き合うその姿勢が、他ならぬ康弘さん自身を「新たな旅立ち」に向けて鼓舞している。その希望を確かに受け取ることのできた取材となった。

取材・撮影・編集:永井慎之介

気質がどこまでも多分オタク寄りで、好きになったらとことんだし

——じゃあ、じわじわ。

 よろしくお願いします。

——じゃあ、生年月日から。

 一応、西暦で言うと93年。1993年12月24日です。

——クリスマスイブ!

 クリスマスイブで。何もめでたくない(笑)。

——そんなことはない(笑)ずっとじゃあ、高校までは郡山で。

 郡山で。19になる歳から(上京)だから、それまでは18年間郡山育ち、完全に。

——覚えてる限りで一番古い記憶っていうと?

 いつだろう……。2歳ぐらいの時に、近所の公園で当時あったあの、おっきいブランコみたいな丸型のやつで、前歯折ったっていう記憶が(笑)めちゃくちゃ昔にあるな。今は、永久歯の前だったから綺麗になったけど、それが一番古いかもしれない(笑)。

——自分で言うの難しいかもしれないんですけど、どんな感じの幼年期で?

 内向的だったかなっていう記憶はあって。友達と遊んだりはあったけど、そういう時間よりも一人で本読んでたりとか、おもちゃで遊んでたりとか、みたいな方が好きな子供だった記憶がある(笑)ぐらい。もうちょっと年数経って小学校ぐらいだと、それこそプラモ組んだりだとか、当時だと家にエレクトーンがあったりして……母がやってて、それでちょっと遊んでたり。あと母が昔使ってたクラシックギターみたいなのを引っ張り出して、ちょっと弾いたりとか、全然遊びレベルで、やってたりっていうのが小学校ぐらいの記憶かな。あとアニメよく観てたり、映画観てたりとか、そんな感じだった気がする。

——結構その時からじゃあ、音楽に触れる環境というか。

 そうだね。結構当時流行りものとか、もちろん聞いてたり。あとは車の中で……いかんせん結構、両親は音楽がっつりではないけど好きっていうところがあって、当時だと安全地帯とかユーミンとか、その辺の時代の曲がよく車で流れてて。洋楽だとカーペンターズとか、ベタだけどその辺をよく聞いてて、そこから掘り下げてってみたいなのはあったかな、っていうのは今になってみると。

——その時にじゃあ聞いてた印象とか記憶とかで結構、形作られたとこもあったり。

 多分残ってるね、根っこは相当あって。だから今にも至るけどメロディの組み立て方とか、フックの置き方とかっていうの、なんかこう肌感というか。刻み込まれたのはその辺の時代だった気がする。

——家で音楽流れてるとやっぱ。

 なんかね、胎教でクラシック流すみたいなことも親はやってたらしいけど。そっちには転ばず、あくまで。割とだから日本語の歌が多かったのかな、邦楽にどっぷりっていう感じで、今もそうかもしれない。

——個人的にはあまり、じっくりとはお話できてなかったじゃないですか、言うても。で今、ここ来るまでの間に、結構……結構サブカルの人なんだなって(笑)。

 そうだね。むしろそういうのを掘り下げて……やっぱり気質がどこまでも多分オタク寄りで、好きになったらとことんだし。好きなものに対してこう……にわかな温度感でいれないみたいな(笑)。だからどんどん、一冊本読んだら関連の書籍何冊も読んで……とかずっとそういうところは、あったかもしれないちっちゃい頃から。

——特撮とかも、そんなにお好きだとは思ってなくて。

 そうだね〜。特撮好きってなんか、公言してもあんまり周りにいないからっていうので……(笑)。(でも)全然いけますね。男の子が好きなものだいたい好きだと思ってるから。

——ちっちゃいとき、幼稚園とか小学校ぐらい、特にこれ好きだったなみたいなのあります?

 小学校の時……はとにかくロボットアニメだったなっていうのが(笑)あるかな。ガンダムもそうだし、当時だったら『ガンダムSEED』とかがやってて、あの辺で目覚めて。いとことかもそういうの好きだったりもあって、どっぷりだったね。あとはやっぱずっと音楽が好きで、小三か四ぐらいかな?お願いして、iPodだかウォークマンだか買ってもらって、そこに……あとMDか、当時だったら。好きなやつのプレイリスト、今で言う、あれを作って車で聴いてたりとか、家でCDプレーヤーとかで聞いたりとか、みたいなことをよくやってた記憶がある。だから結構音楽からサブカルってのはずっとなのかもしれない。

——家庭の中にきっかけがあったりにしても、結構能動的に音楽聞いてた感じなんですね。

 そうね。確かに自分の好きなものとか、あとTSUTAYAとかよく行ってたねだから。ジャケ借りとかして(笑)やってた記憶がある。

——その頃で、何か印象的な出来事ってありますか?

 もうちょっと先になるけど、本格的にじゃあ音楽にどっぷりってなるきっかけになったの多分中学校の時で。その時ってうちは……まあローカル学校文化みたいなのがあったりすると思うんだけど、先生が毎年これを歌うのが文化祭の花形、みたいなのがあって。当時だと丸坊主のハンドボール部のすごい面白い先生が、毎年ブルーハーツを歌ってて。で、その先生と仲良かったりすると、そのバンドメンバーに選抜されるっていうのがあって。その時たまたま空いてたベースのところに俺が呼ばれて。べースのべの字も知らないみたいなところで、じゃあこの機会に楽器始めてみるかって。最初にハードオフで、バッカスのベースかな、買った記憶があるな。それでやってみて「ああバンドって面白いな」、全然下手くそも下手くそだけど、全然楽しくて。
 で、そっから高校になって、ちょっとべースだと……当時やっぱさ、音楽についてこう、浅かったから。ベースよりもなんかもっと主旋律弾きたいとか、みたいなエゴが勝っちゃって、ギター始めて。まだそんなに上手くはなかったから、最初ボーカルとかで歌ったりして、そういうバンド、コピバンやったりとか。で、そのリードギターが一人抜けちゃうからっつって、じゃあギターボーカルやるわみたいなのでギターボーカルになって、っていうなんか……歴史じゃないけど(笑)流れはあったな。だからきっかけ、大きく自分の人生でそういうのが動いたなっていうのは中学校だった気がする。小学校はなんか、そのインプット期間だったなみたいな(笑)変な話。いっぱい聞いて、いっぱい映像作品とか、そういう芸術とか触れてみたり。

——土台を。

 土台が。小学校までだったなって。

何が好きって言えないまま好きでいるモヤモヤみたいなのが気持ち悪かったりもして

——一番最初ベースだったんですね。

 ベースなんです。ちょこっとだけ弾ける(笑)。

——ベースより……かはやっぱギターかな、みたいな。

 かなって。やっぱ性には合ってた気はする。未だに弾き続けてるし。当時ライブとかにも、やっぱ初めて行ったのって……親に連れられてちっちゃい頃行ったとかじゃないのだと、まあ中学校ぐらい。当時だとflumpool、にちゃんと自分のお金とか貯めて行ったんだよね。郡山の文化センターに来てて、そこで初めて自分が好きなバンドに自分のお金で行って、自分の目で観て聞いてってやって。当時やっぱりその、ギターボーカルの山村さんとかにもすごい強烈な憧れを持ってて、っていうところでやっぱりギターボーカルってかっこいいなとか、自分も曲書いたりとかそういうふうになりたいなみたいになって。なんだろうね、すごいその音楽にのめり込んだタイミングと、その衝撃が多分、同時に背中を突き動かしてくれて。まあちょっと時間はかかったけど、結局未だにギターボーカルっていうのでやらせてはもらってて。大きな転換点は中学校だなやっぱり。

——中学校の時とかはやっぱり色々、自我が固まっていったりとか、色んな影響がもろに出てきたりとかあったりするから、結構大事な時期ではあったんでしょうね。

 なんかその頃からやっぱちょっと屈折はし始めて。学校すごい嫌いだったし、一人だったり友達だったり、時間どう有意義に過ごすかみたいなところで、QOLのバランスを(笑)図っていたような気がする。だからより趣味には全力投球、あんま外で遊び歩くよりは、自分の知見を磨くとか、インプットするじゃないけど、そういうところに生きがいを感じてた。内向的な人間だったんじゃないかなとは思うな。

——中学の時、これの知見磨いてたなっていうのありますか?

 その頃から、映画とかの映像とか、音楽とかそういうところにすごい目が向いてて。当時中学生だったけど、カルト映画みたいなのにハマったりとかして。わざわざ……当時だとあの、VHSレンタルをやってるところがいっぱいあって、そういうもう寂れに寂れた所までわざわざ行って。でビデオ借りてきて、一人でVHSデッキ、親からもう使わなくなったのもらって、それで観たりしてた。
 で、この監督はこういう毛色があってみたいなの、自分なりにやっぱり言語化して、この監督好き、とかって掘り下げていったりとか。音楽もそうだね、このアーティスト好きってなったら「このアーティストのどこ好きなんだろう」とかっていうのを考えて、じゃあそれだったらこの辺とかも同じシーンで語られてるから、じゃあここ掘り下げてみようかみたいな。そういう芋づる式に「自分の好きってなんだろう」みたいなのを形作って言語化していくみたいなのを……あれかな、今の質問に対してはその辺が、熱中してたこととか、その辺を語るとすればそういうとこだった気がするね。

——結構趣味を楽しむって「こういう感じが好き!」みたいに感覚的に楽しむ人と、体系的な分析とか言語化とかに重きを置く人といると思うんですが、でいうと……。

 完全に後者だね。何が好きって言えないまま好きでいるモヤモヤみたいなのが気持ち悪かったりもして。逆に掘り下げてって、そうやって紐解いていってみると「あ、自分これ好きなんだ」っていうのがより強烈にのめり込めたってのもあるし、曲作るとか、今にもその癖ってめっちゃ生きてて。悪く言えば理屈っぽいんだけど、良く言えば落とし込みしやすかったり、要素として取り入れるときにちゃんと言語化できてるできてないで、曲の完成度みたいなのも違うと思ってるから。そこはいい癖ができたのかなその時代、って思ったりもして。

——結構セッションで曲作って気持ちいいかどうか、っていうのもあるじゃないですか。よりもやっぱり、ちゃんと組み立ててというか。

 結構、バンドで曲作るとかってなると割と特殊で多分。どっちもやってて。自分の中でほぼイメージはできた状態でスタジオに行くんだけど、あえて言わないでそれを。部分的に「みんなこれ聞いてどう思う?」ってやっちゃって。ちょっと自分のイメージと逸れてきたなとかってなったら、リファレンスとして曲出したりとかして「もうちょっとこれっぽい感じとかいける?」みたいな(笑)変な話。でも基本はもうメンバーのセンスに任しちゃって。要は自分が好きで信用してるその腕前なりセンスなりっていうのを、リスペクトしてるメンバーとやってるから、そいつが考えた方が絶対俺より格好良くなるっていう、なんか信頼関係というか、言ったら甘えなのかもしれないけど。っていうもとにやってたから、「あ、それ気持ちいいね、採用!」みたいのが全然あるし、むしろみんなでやって初めて完成したのが自分のバンドの曲、っていうのが結構意味合いが大きい。ガチガチに作り込んだらそんなの一人でいいじゃんとか、もったいないバンドでやるのにっていって、みんなでこうパズルのピースをはめていくみたいな。っていうので曲作りはめっちゃ好きっていう。そういうクリエイティブな時間が多分好きで、自分一人で練ったものがどんどん化けていったりとか、っていうところにバンドの曲作りの楽しさとかはあるのかなっていうので。まあ昔プラモ組んでたあの日の自分と多分根本で変わってないんだろうなみたいな(笑)。

——ドラムはやっぱそのバンドの中でドラムの専門家だから。

 そうそうそうそう。

——手数とかもそうだし、雰囲気の作り方とかも任せた方が曲がいい方に向かってくってことですね。

 結構リスキーだなって多分思ったりもする人いると思うんだけど、やっぱり任せられてるぐらいの信頼感があって。「ああそれ!」ってなっちゃうんだよね、早くて(笑)何も言わずとも伝わっとるやんみたいな感じが(笑)結構多くて。やっぱその辺は本当にメンバーに恵まれてやってるなっていうのは。

——いい関係性ですね。

 かなりね。相当仲良いと思う、多分(笑)ほかのバンドは分かんないけど。

いい経験だったなと思って。未だにつるんでる人もいるし

——そのメンバーの人たちとは接点はどこで?

 もう本当に、結構紆余曲折あって。実際バンド自体はがっつりやってたのは二つ、今まで。名前を冠してね、やってたのは二つあって。一個目は本当に大学の友達とかで、延長線上でやってて。そこ解散になって、次に今の名前のSheepdogs〜っていう方になって。それも前のバンド解散になっちゃったから、「お前暇だろやれよ」みたいな感じで、連れてこられて始まったのが最初で。で、その連れてきた奴が、いの一番に抜けてったんだよね(笑)。それで、そこにいたメンバーたちは次第に、リーダーが抜けてくとやっぱさ、その熱量ってどっか行っちゃうじゃない結構。その時引っ張ってきた奴いなくなって、残された俺たちどうすりゃいいのみたいな。徐々にばらけばらけで、最終的に俺一人になって。もうそっからどうしようって。なんならもうバンドとかやめようかなって思ってたときに、そのときサポートでやってくれてたギターの奴が「じゃあ一緒にやろう」「二人で頑張ろうぜ」って言ってくれたのがきっかけで。そいつもそいつで、前のバンド辞めてどうしようかなってなってたから、お互い鼓舞し合った結果「もう一回やろう、この二人で」ってなって、べースの人間も入ってきて……ってなんか少年漫画みたいな展開だったんだよね結構。

——きっかけこそひとからもらったものではあったけど、実質は自分で作り上げてる感じ。

 そうだね。今一緒にやってる人たちっていうのは本当にバラバラ、接点ゼロの状態から、ギターの子なんか「ちょっと入るバンド決めかねてるから、ライブ観に行ってみていいですか」みたいなのが初めてだったし。どうなるか分かんねえなと。元々友達で始めたより仲良くなってたりね。長くなっちゃったけどそんな感じで。

——それすごいですね。

 不思議な関係性。

——でもライブハウスとか行くようになると一気に世界広がりますもんね。

 うん、そうだよね。サークルとか部活とかでね、やってるのとは全然話違うし、上も下もいるし。

——最初にライブハウスに行ったのは高校の時?

 中学校かな。最初行ったのはなんかホールみたいなとこだったけど、そのやつで味占めちゃって(笑)じゃあ今度ライブハウス行こうってなって。その次に行ったのがNICO Touches the Wallsだったんだよね。ちょうど今こうやって話している郡山の、シャープナインに来た時に、「あ、こういう距離感で聞くのもめちゃくちゃいいな」ってなったのをすごい覚えてて。それが多分中学校かな、二、三年?ぐらい。一番多感な時期だね。

——個人的な感覚かもしれないですけど、音楽に関しては結構早熟なのかなと。

 そうだね多分。周りと話は合わなかったね、やっぱり。結構流行り物をなぞるみたいなのも、その頃ってしなくなっちゃって。自分の好きな方好きな方って尖ってってたから、それこそ(永井と)同じ高校の安高(福島県立安積高等学校)のギター同好会っていう、いわゆる軽音部みたいなところに入ったら、ようやくそういう話できるような友達に会ったけど、中学校までは孤独だったね。孤独のグルメみたいな(笑)ほんとそういう状況。自分しか楽しめないから、じゃあ自分一人でとことん、勝手に孤独に楽しもうみたいな。だったなあ、意外と記憶出てくる。

——読んでる人向けに言うと、高校が一緒で、部室も隣で(笑)。写真部としてはずっと、ギター同好会の音を聞きながら現像してたわけですけど。そしたら結構、やっぱギター同好会は結構いい思い出というか。

 そうだね。あれなかったら今やってないと思うな。うちの高校の話になっちゃってあれだけど(笑)軽音部とか、その辺の地位が低くてさ。普通だったら学園祭とかって一番大きい体育館でライブやってみたいなのイメージするけど、うち家庭科室でやらされてたからね(笑)。

——うんうんうん(笑)。

 なんで?みたいな。だからみんなライブハウスとかで企画を打つようになって、ってのでライブハウスに参加する感覚も、他の高校、軽音部恵まれてた子達とかよりは結構、みんな早熟というか。早めにできてたっていうので、場慣れみたいなのもあったし、いい経験だったなと思って。未だにつるんでる人もいるし。そこのギ同のね、(ギ同の康弘さんと写真部の永井との)共通の友達がいなかったらこのインタビューもできてないわけで(笑)。ね、っていうので、感慨深いなって、今改めて考えると。

——そのギター同好会の……夏のイベントで確か一緒に(コピーバンドを組んで)やらせてもらったんですよね。

 そうそうそう。「SUMMER PANIC」な(笑)懐かしい懐かしい。

——そう、(永井はギ同の)OBでもなんでもないのに(笑)。

 ね、そこに飛び入り参加したんだっけコピバン。

——なんかOB枠みたいなのがあったんですよね。

 だよね。それでほぼ初めまして状態で、NICO Touches the Wallsやって(笑)。

——その時弾いた『エトランジェ』とか、未だにたまに聞きますもん。

 大好きあれ未だに。あの時ね、古い曲多くやって、NICOのファンが果たしてこれを読んでくれる人にどのくらいいるかわかんないけど(笑)。好きすぎてアンサーソング書いたからね。『etranger』ってまんま同じタイトルつけて、拡大解釈して。くらいにはNICOもね、あのコピバンもでかかったよね(笑)。

——そうですよね。(中略)だから、ライブハウスと一番接点というか距離が近かったのは確かにギ同だったかもしれないですね。

 ね。当時、やっぱり流行りを反映してたよね。9mmとかさ、アジカンとかナンバガとか、みんなコピーしてたバンド、ピロウズとか。いい時代だったな。

でもずっと自分にあったものって考えたら

——音楽、当時楽しくやってたと思うんですけど、将来的なことで言うと何か、これをやりたいとか、この道に進みたいみたいなのって考えてました?

 当時やっぱり、高校三年生になる瞬間に3.11の地震が来ちゃってさ、進路まっさらになっちゃったんだよね。当時なんか知らないけど教員になりたくて、オープンキャンパスとか行ったりしてたけど、何していいか分かんなくなっちゃって。とりあえず東京出ようみたいな、なんか頭ぶっ壊れちゃったんだ一回その時(笑)。当時やっぱりさ、それで地元が嫌いとか全然ないんだけど、めちゃくちゃ暗かったじゃんその当時。復興のムードみたいなのもなくてさ。で、ここにいてじっとしてたら多分何も見つけられないなと思って、とりあえず冒険しようみたいな。ので、なんとか大学受験して受かって、無事高校からは出て。だから夢なかったんだよね。そのままやっぱり変な話大学時代も突き進んじゃって。就活したはいいんだけど、就職決まりましたっつって一年経たずで倒産しちゃって。

——えええ……!

 本当に、マジで何も分からなくなっちゃって。俺なんのために生きてるんだろみたいな。でもずっと自分にあったものって考えたら、そのどん底の期間にあってもずっと音楽だけは聞いてたし、ずっと大学軽音サークルいたから「結局これしかねえんだろうな」「じゃあ本気でやってみよ」っつって始めたのが、今のシープ。ちょうどその頃に声かけてもらったんだよね、「お前今バンドやってねえんだろ」っつって「じゃあうちでやれよ」みたいなので、寄せ集めみたいな状態でバンド組んで。曲とかも今まで正直、書いてもちょこちょこって何曲ぐらいしかやったことなかったんだけど、そのリーダーだった奴が抜けるってなって、じゃあ俺曲書くわってなって、そっから。だから実際作曲とかもちゃんとしたの、2016年?とかだと思う。なんだかんだまだ5、6年ぐらいなんだなっていう感じ。

——大学の時のバンドでは、そこまでのことはしてなかった。

 してなかったね。当時は一緒に組んでた奴が、曲書きたがりというか。「俺の書いた曲やりたい!」みたいな。だから「じゃ俺いいっす」みたいな感じで(笑)。「そんな……うん、いいよ俺はそしたら」みたいな(笑)感じで気負けしちゃってたから、まあ変な意味甘えちゃってたんだよね。

——じゃあいざ自分の曲をってなったら……どうでした?

 めっちゃ迷った、本当に(笑)。そもそも呼ばれた時点でのSheepdogs in the Hollowっていうのはめちゃくちゃ暗くて。超陰鬱なバンドだったんだけど(笑)。当時そういうバンドもね、もちろん好きなんだけど、なんかもうちょっとライブハウスで映えるような曲とかも欲しいなってなって。めちゃめちゃギターロック書こうっつって。ギターロックと言えばもうDコードで、分数コードにして曲書いたらええやろくらいの、本当にド失礼な音楽への向き合い方で(笑)曲書いてたけど、なんかするっと書けちゃって。
 でもやっぱりライブやるとさ、過去の曲と不整合が起きたりっていうのはあって、じゃあ自分は果たしてどっちに転べばいいんだろうみたいな。曲は書けるんだけど、ずーっと方向性に悩みながら曲を生んでたなっていう。特に最初の二年ぐらい、はずっと迷いの渦中にいたなっていう感じがあったね。でもやっぱり曲書くってなって、思ったより苦戦しなかったなって。曲自体はできたけど、これでいいのだろうかっていう、問いにずっと悩まされる感じだったかな、振り返ると。

<次回>
音楽との付き合い方、ライブとの向き合い方、そしてこれからのこと。
*後編は11月22日公開予定

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