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【前編】人と音楽の狭間に立つしらっち。大事なものはより大事に、誇れるものはより強く

2022年に製作したFlagmentの紙書籍『あかつきのおと』。
その校正・校閲を担当してくれたのは、同級生であり、仙台を拠点に活動するイベンター・しらっちだった。
惚れ込んだものや心を決めたものには惜しみなく没頭するタイプだと知っていたので、依頼する作業は決して楽ではないが、もしこの企画を気に入ってくれればきっと全うしてくれる、という信頼があった。

その気質は自身が継続して開催しているライブハウスイベント『ツナグ。』にも滲み出ている。
趣向や工夫を凝らし、ときには変化を加えながら、着実に規模や訴求力を増すこのイベントは先頃25回目を数え、魅力的な出演者陣によって成功をおさめた。
そして、やはりこのインタビューにもそれは随所に滲み出ている。今回は裏方としてではなく、その人生の主人公としての彼女の語りに耳を傾けてほしい。

取材・撮影・編集:永井慎之介

一人一人と関わる方がその人のことが分かるな

 生まれは今の大崎市です。

——宮城県のどのあたり?

 仙台市を真ん中にして区切ると、その上。

——あ、上なんだ。

 うん。北の方で、数回引っ越しした。小中高ずっと地元で育って、大学1年生の冬、テストの2日前ぐらいに引っ越しをして(笑)仙台に来ました。

——進学も宮城県内だったわけね。

 そう。大学だけ仙台でした。

——それは、地元から通って行ってたってこと?

 はい。途中で挫折をし、引っ越し前に家族と喧嘩しつつも出て来れたってところでしょうか。

——(親御さんは)実家にいてほしかったんだ。

 たぶん、親的には。結局バスで通学しながら、塾講師しながら、教職課程取りながらだった。めちゃくちゃきつかったね。

——教職、大変でしょう?

 やめた。

——やめたんだ(笑)。

(笑)2年間(課程)取って、やめたんだったな。一応大学入るときは、日本語教員とか、語学の勉強したいなと思って、進路絞って勉強してた。そもそも英語、国語が好きだったんで、熱心に励んでたんだけど……やめちゃった。

——もともとじゃあ、そっち方面の夢みたいなものがあって?

 うん。教員とか、「お堅い仕事」っていうイメージはなんとなくあったんだけど、結局なに目指したいかはわからず。公務員講座とかも受講してたし、やれることは何でもやってたんだけど、全部めげてるね。諦めてばかりの人生……(笑)。(このまま話し進めてゆくと)大学ばっかりすごく色濃くなっちゃいそうだな。

——一旦じゃあ、幼少期に戻って。普段よくする質問として、「一番古い記憶は何ですか?」っていうのがあるんだけど。

 あ~、あるよ。2つあって、どっちも幼稚園の頃。ひとつは、私が実家からバスで登園するとき、おばあちゃんが見送ってくれてる残像がすごくあるの。それと、私幼稚園まで徒歩1分のアパートに最初は住んでて、そこの近所の1個上の男の子とすごく仲良くて……っていうかそこに住んでた子供たちみんな仲いいから、みんなでわいわい遊んでた記憶がある。
 昔からだいぶファンキーだったというか、やんちゃだったっぽくて、私。家に残ってる写真も……魔法少女というかさ、『ひみつのアッコちゃん』とかあったじゃない、とか『おジャ魔女どれみ』とか、『(美少女戦士)セーラームーン』とかの、フレーム付きの写真、ゲーセンとかで撮れるやつ。

——『おジャ魔女』なんて、ちょうど世代だもんね。

 ね、すごく見てた記憶がある。家で踊ってたし。ステッキも持ってる。回すと音が鳴るやつ。

——じゃあけっこうイメージ的には、割と元気な幼少期。

 うん。年長組のときに、体育倉庫で、友達とつるんで……(笑)裏で遊んでたりしたね。

——その頃からそういう社会が形成されてたのね(笑)園内で。

(笑)園内で。園を牛耳る年長さん。

——いるよね、そのときからそういうポジションの子っている。『おジャ魔女』の話とか出たけど、幼稚園に限らず小学校ぐらいのときでもいいんだけど、「こういうのが好きだったな」みたいなことってある?

 小学校のときはね、図書室でめちゃくちゃ本借りてたね。本が好きだった。あと視聴覚室とかにいた記憶がめっちゃあるから、たぶんパソコンとか、本とかに触れてたね。小学校、人数少なくてさ。

——あ、けっこうちっちゃい町の。

 うん。でも私、たぶんあんまり馴染めなかったから、図書室に通ってたんだよね。ドッジボールとかさ、バスケとか、昼休みにしてることもあって、もちろん参加もしてたけど、図書委員もやってたから、図書室で過ごしたりとかもした。
 あと、たぶんこれ使える話だと思うんですけど(笑)小学校のとき、放送委員を経験したんだけど。ORANGE RANGEって(流行ったのは)その辺?

——だったと思う。

 よく周りとこの話になるんだけど、私なぜか誕生日プレゼントにORANGE RANGEの『musiQ』を買ってもらって、(校内放送で)流した記憶がある。校内新聞作ったりとか、リクエスト曲流したりとか、放送入れたりとか……影のもの(裏方仕事)をやって過ごしてた気がするね。

——ちょっと今の片鱗みたいなものが?

 ちょっとあるね(笑)あるにはあると思う。「発信」はしてたんじゃないかな。

——ORANGE RANGEは、「テレビで流れてる音楽」としてなんとなく好きだったのか、しっかり好きになったのかでいうと?

 でいうと、なんとなくそのときの流行りかな。たぶんテレビだね、テレビはだいぶ見てたし、周りもたぶんそういう話はしてた。うっすら記憶ある。で、みんなにはあんまり言いふらしたりせず、自分一人で聴いてたイメージ。貸し借りした記憶とかないから。

——自分の肌の合う環境とそうじゃない環境は、なんとなく棲み分けできていってたんだね。

 今も割とそうなんだけど、グループで大人数でワイワイ喋るとかじゃなくて、1対1で喋ったりする方が好きで。もう小学校時代からそうだったのね。「一人一人と関わる方がその人のことが分かるな」みたいな。だからグループで遊ぶのがすごく苦手。「周りにこう思われてたら嫌だな、どうしよう」とかけっこうあった。

——芽生える時期だしね、そういう意識が。

 うん。けっこう、思春期そのものよね。そしてそのまま中学校に上がってしまった。

——それがどんどん分厚くなっていく?

 そう!(笑)一番中学校がひどかったと思うな。

——それは閉じこもる方向の意味で?

 そうだね……中学校は黒歴史だな(笑)けっこう。全然活発じゃなかった。部活ばっか。

——何部?

 吹奏楽部。音楽系ですよ。

普段はがさつだけど、こだわるときはこだわる

——大変でしょう? 吹奏楽部なんて。

 ヤバかった。大変だったけど、先生がすごく尊敬できる人だったから3年間頑張れた。ちょうど私たちの世代、その先生が3年間一緒だったから、モチベーションも高いとこにあったと思う。
 けど、持ち前の性格で、ちょっと意地も張るから、似たような性質の子とドカーンとぶつかったりもして、喧嘩もした。私パートリーダーやってたんだけど、自分が一番上の代で、しかもリーダーだから、尋常じゃない入れ込み方というか。

——面子ではないけども。

 そう、「やんなきゃ、やんなきゃ」みたいな気持ちで。けど互いに熱い気持ちで取り組んでいたから、ぶつかり合うこともあって……。

——待って、すごい顔してる(笑)。

(笑)いやでも、そういうのを離れるとめちゃくちゃ仲いいんだけど、楽器のこととなると頑張らなきゃいけないじゃないですか。やっぱチームだし。

——入れ込んでたがゆえのっていうことだよね。

 そうそう。いろいろ忘れらんないもんな。みんな練習頑張ってたんだよ。朝7時からかな、鍵開けて、8時過ぎぐらいまで練習してさ。朝自習して授業始まって、掃除終わったら真っ先に部活行って。個人練、パート練、合奏。けっこうバリバリやってたの。土日もやってたし、ストイックな中学校でした。高校でも続けていくわけなんだけど。

——あ、そのまま高校でもやるんだ。クラリネット? 高校なんてもっと大変なんじゃない?

 ヤバかったよ、けっこう難しい自由曲をやってたから。吹奏楽ってグレードがあるんだけど、グレード5(最高難度)の曲ばっかりで。それでも先輩は本当に上手かった。
 後輩も上手かった(笑)1つ下の後輩が本当に上手くて。(私が)こんなリーダーだったから、たぶん「こうならないようにしよう」みたいな反面教師感があったと思うんだけど……けっこう空回りタイプだったから、昔から。今も……(笑)。

——(笑)。じゃあ高校3年間もけっこう、それ中心。大部分がそれを占めてた。

 そうだと思う。あとは一応進学校だから、「勉強、勉強」みたいな感じだったし。一応その地域では一番偏差値が高い学校だったもんで、けっこうビシバシ勉強してたね。私は追試組だったんですけど(笑)数学、苦手でさ。本当に苦手で。しかも吹奏楽の副顧問が数学教員でさ。すごく苦笑いしてて……。

——気まじいねえ。

 めっちゃ気まじい。(追試のせいで)部活遅れるし。いつもパートごとに整列して、いない人は「誰々さん何々のため遅刻します」みたいなことを(いる人が代わりに)言わなきゃいけないじゃん。それで自分が追試だったら、後輩に言わせなきゃいけないっていう……地獄の時間でしょ。「私が追試のため遅くなります」はヤバいじゃん。そんなんで足引っ張ってられないから。そういうの、けっこうあったね。ダメだったけど。

——言わせちゃったのね(笑)。

(笑)あると思う。言わせたと思う。

——じゃあもう勉強か吹奏楽か、ぐらいの感じだ。

 本当に。さっきも言ったんだけどもっぱら英語・国語好きで、特に英語が好きだったのね。メインの顧問が英語教員、ライティングの先生でさ、長文とか文法とかの指導をしてくれる人だったんだけど、やっぱり顧問だし、気合入れなきゃなって頑張って成績維持してた。そのおかげもあって、大学進んでからも英語とか日本語とかの専攻になったんだけど。

——語学系の勉強が好きな自覚っていうのも、その辺り(高校時代)から芽生えてた感じ?

 うん、あったあった。なんなら、言うの忘れてたけど小4の頃から英語習ってたから、ずーっと塾もそのまま中3まで習って。あと時々高3の、卒業間際か夏休みかその辺に、たまにその塾に行って教えたりとかしてたはず。好きだったね、ずっと。大学もそこでバイトさせてもらったし。

——ああ、それがそう(冒頭に行っていた塾講師のアルバイト)だったんだ。

 そう。ちょうどバスの停留所のところにバイト先があってさ、そこで高校生と中学生教えたりとか。
 ……大事なこと言い忘れてた。すごく戻るけど、小学校2年生から6年生までずっとそろばんを習ってた。たぶん「勉強、勉強」ってなったのはその辺がきっかけで。そのときはずっと算数好きだったのよ。好きだったし、計算も得意だし……それが数学に結びつかなかったのだけ残念ってところで(笑)。珠算の県大会に何回か出てたり、地区大会で優勝争いとか、フラッシュ暗算でもうちょっとで入賞、みたいなのとか、ちょっと惜しい感じだったけどすごく頑張ってた。あと算数検定を受けてたりとか。一応暗算は、段位まで取った。

——数学で使う頭とは違うかもしれないね?(笑)

(笑)ふふふふ。ちょっと違うね。

——でも、そろばんってフィジカルの楽しさもあるからね。

 あるある、弾く動作とか。伝票算がめちゃくちゃ好きで、シャシャシャってめくるやつ、あれめっちゃ好きだったね。

——一個の作業として好きだった、みたいな。

 うん。たぶん、何か一つに熱中できるとか、いかに素早くめくるかとか、変なこだわりはあるかもね、意外と。普段はがさつだけど、こだわるときはこだわるって感じかなあ。

「こういうところがあるんだ」って認知してから、ガッと

——ちなみに高校生のときは、まだライブハウスとかとは出会ってない?

 あ、いい質問ですね(笑)。実は高校で出会ってます。音楽というかバンドが好きになったのは中1のとき、吹奏楽始めたタイミングで、実際にライブに行ったのは高1。
 バンプ(BUMP OF CHICKEN)の『jupiter』を、中1のときに友達に勧められて聴いたのがきっかけでバンドにハマりました。斜め前の席の人がバンプ好きで、すごく語ってたの、後ろの人と。その時期すっごい喋ってて、バンプの好きな曲を勧めてもらって。
 そのときはもうバンプ、バンプだったんだけど、高1のときに今度、これまた斜め前ぐらいの席の人から、今度はアジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の話題が出て、聴くわけ。それでどんどんいい感じに盛り上がってって、高1の、2011年、震災前の2月。Zepp(Zepp仙台)がなくなる前のアジカンに。

——あ、アジカンが初。

 はい。

——へえ〜。まあ、やっぱバンプ・アジカンから入る世代だもんね、どう頑張ってもね。

 ふふふ(笑)そう、みんなそう。私たち(この二人)もバンプから話始まったじゃんね、元をたどれば。
 高校の頃、GREE、モバゲー、mixiみたいな時代あったじゃん。GREEで高校の友達と、クラスは違ったんだけど事前に知り合って。その人とtacicaのライブに行ったんだよね。アジカンは本当に震災前、ラストZepp、最初で最後の思い出があって。本当に楽しかったし、テスト前日とかに行ってるから赤点取らないように必死で……なんとか取んないで済んだんだけど。tacicaのライブがさ、初めて仙台の街なかのライブハウスに行ったときの思い出で。MACANAに行きました。これが私のルーツ。

——デカ箱の思い出として一番最初がアジカンだけど、今でも出入りするような規模のライブハウスの現体験はtacicaってことね。

 そうそう、tacicaから入った。「ああ、こういう場所があるんだな」。
 生でtacicaを見たあの日は正直、もう幻想だったんじゃないかってくらい、おぼろげな記憶になってて。全てが初めて過ぎてさ、本当に熱狂の渦だった。ソールド公演だったと思うから、すごく混んでて、上見てやっとメンバーが確認できるぐらいの感じだったから。正直、ライブへの感想は薄れてるんだけど、とにかく「こういうところがあるんだ」って認知してから、ガッと(のめり込んでいく)。

 時系列ごちゃごちゃなんだけど、私中2のときに、けっこうわかりやすく中二病になってまして。あの頃、携帯を全力で駆使して聴いてたインディーズのバンドサイトがあったんだけど、そこで実はインディーズはけっこう聴いていたんです。特にハマってたのはバンプ、アジカンで変わりないんだけど、インディーズバンドも実はその頃から知っていて。私が好きになったバンドがMACANAでライブをするらしいと。ガッチャンしたわけ、(tacicaで)「MACANA行ったことあるじゃん」ってなって、行ってみて。仙台、インディーズバンドがいろいろいたわけですよ、雨ニモ負ケズとか、ひとりぼっち秀吉BAND(福島)とかもだけどね。「おお!」ってなって、もう全部ハマってったね、そこから。

——仙台のインディーズシーンに、ってこと? それに限らず?

 限らず。東京中心だった。

——あ、なるほどね。

 渋谷kinotoとか、下北とか、たぶんそこら辺だったと思うんだけど、とりあえず聴いてた。tacicaも、紹介してくれた人が確か好きだって言ってて、(私も)いいなってなって、その後『ナルト』の主題歌やってびっくりした(笑)「先に聴いてました」感はすごく出したいんだけどさ(笑)。
 それから、大学時代にはSuck a Stew Dryというバンドにハマり、東京に行ったりとか、仙台公演全部行ったりとかして通ったのが、たぶん私のルーツだと思う。

——そのときからけっこうじゃあ、あちこち勢力的にというか?

 あ、高校はたぶん、行ける範囲で、仙台だけ。やっぱ仙台に引っ越してきてからは、ライブ観るのが少し容易くなったっていうのがあったね。だってうち実家時代の門限22時とかだったから。サークルとか何もないときなんかは20時ぐらいに帰らないと、ちょっと怒られるぐらいの感じだったからさ。

——ちょっと過保護なぐらいの感じ?

 そう……間違いない。このインタビュー見てなんて思うかな(笑)。
 小学校に上がる直前、私がさっき言った「バスで実家から送り届けてもらう」っていうくだり、あれはおばあちゃんに送ってもらってる記憶で、もうずーっとおばあちゃん子だったわけ。一緒にいるからね、ほんとにちっちゃい頃から。私も一人っ子だし、あんまり娯楽に触れてきてないわけよ、兄弟で何か、とかがないから。3代それぞれ一人ずつだから、けっこうもう3人で固まって過ごして、何するにも3人で。
 よくロックタウン(イオンタウンの旧称)に連れてってもらったりとか。……ロックタウン、伝わる?

——え? ヨークタウン(株式会社ヨークベニマルが展開するショッピングセンター)じゃなくて?

 ロック! ロック!(笑)あははははは。

——(笑)ロック? え、イベントかなにか?

 違う!(笑)ロックタウンっていうさ、今でいうトップバリュ系列のさ、ザ・ビッグとか、シュープラザとか、CDショップがあったとこ。

——じゃあ意味合い的にはヨークタウンと一緒だ!

 はははは(笑)まあ、そうだね。そうそう、そういうのに家族で出かけてて、固まって過ごしてた。
 夜もみんな寝るの早いわけ。みんな別々にさ、おばあちゃんは座敷に行くし、お父さんは部屋に行くし、私ぽつんってなってんじゃん。中学生のプチ反抗期みたいになってるときに『SCHOOL OF LOCK!』と出会って聴いてた。「インディーズ好きな俺かっこいい」と共に「SCHOOL OF LOCK!のヘビーリスナー」になり、掲示板に投稿したりとか、ひっつさんからの逆電話あったりとかしたね。

——確かに中高時代、何かをどこからしらからディグっていれば、必ず突き当たる水脈みたいなもんだったのかもしれない(SOLは)。

 そうそう、そうかも。それきっかけでLEGO BIG MORLってバンドにもハマってさ。そのロックタウンのCDショップで、シングルを買った。あれはかなりの……『musiQ』と並んでの思い出だね。今もずっとその曲好きだし。

——LEGO BIG MORLはね、しかちゃんも言ってた。

 おお! はまのくんも好きで。LEGO BIG MORLはけっこう青春ど真ん中に近い。そこにELLEGARDENも入ってくるんだけど。

 意外とその引っ込み事案な中学時代「バンドやろうよ」なんて話もしたことあったし、高校もたぶん、吹奏楽やってなかったらバンドとかやってたんだろうなあ。初心者用ベース買ったのもたぶん高3だったし。

——買ったんだ。

 うん。一応やる側にもちょっと目は向いてて。

あれがあるから私は今頑張れてるともいえるし、それ以上つらいことはない

——当時の仙台というか宮城県エリアの音楽って、「これとこれとこれと……」って挙げられるぐらい、たくさんインディーズのバンドっていた?

 うん、いたいた。けっこう私、高校のときはほぼ夢中になってたバンドしか見てなくて、県外のバンドにばっかり目がいってたんだけど、先輩方の世代ではけっこういたんだ。同世代は大学1~2年ぐらいのタイミングで(たくさん出会う)。私は正直「平成何年会」とかを見てないから詳しくないんだけど、そういうのがあって。94年生まれの人たち、かなりバンドやってた。
 私が特段よく見てたのは小夜の聲とか、Ready to Pray、あとOverComeONとか。あとSILVERTREEとBruteRocksもいたんだよ。私かなりSILVERTREEにハマってて。錦ケ丘ヒルサイドモール(青葉区にあるショッピングモール)で野外ライブをやったことがあったんだけど、それ観に行ったりとか、パースク(仙台PARK SQUARE)めっちゃ通ったりとか。高校生企画とかの次元まで観に行って……そこで初めてBruteRocks観たりとかね。そういうのでけっこう、今に近しい音楽の掘り方をし始めてる。

——今に繋がるシーンとの出会いみたいなものは、大学進学後から。

 うん、そうだと思う。

——しらっち自身の目線として、東京とかよりも、もっと近いところのシーンに目が向いたのもそのあたりだ。

 そうだと思います。当時からいわゆるメジャー向きの大きい会場とかよりは、ライブハウスの方に目線が行ってたから、間違いないね。インストアライブ観に県外行ったりとかもしてたな。東京のライブ観に行ったついでに、タワレコでインストアライブやってるっていう情報を入手して、行ったり。で、また別のバンドと出会うみたいな……やってたやってた。
 大学のときはでも、私サークルは2年生のときに辞めてます。軽音サークル。楽器を弾く側を一度は経験したものの。

——それはベースで?

 はい。

——「これは自分には無理だな」みたいなものを感じるきっかけがあったんだ。

 無理というか、「うまくやれてないな、自分」とは思ってて。
 でもその時期に、学外でライブをしているバンドがいたのよ。その方々がみんなの憧れみたいな感じもあってさ、それも学外のライブハウスに行くきっかけになってったのもある。

——aureliaと密に関わっていくのもその頃から?

 大学1年生の夏、秋ぐらいの時期かな。

——結成の一番最初のところから見てるわけなんだよね。でも、その当時は別にこう、正式にってのは変だけど、そういう(スタッフやサポーターのような)役回りとしてそばにいたわけではなく。

 追っかけしてました。ライブめっちゃ行ってたね。昔の写真とかある、緊張しながらメンバーと写真撮ってもらったり、サインもらったり。

——載せたいものあったら、送ってもらえれば掲載するよ。

 ヤバ写真だよ(笑)やめた方がいい。でもいっぱい写真ある。……まあ、うまくまとまらないけど、aureliaがきっかけになって同世代のライブを観るようになったっていうのは確かだから。

——サークルを抜けてからはもう、完全に観る側というか、お客さんとして。

 うん。ただ、サークルに在籍していたころから、イベント制作にはずっと関わっていて。さっきのサークルを退いたところの理由でもあったんだけど、あれもこれもいろいろ重なっちゃってて。

——なんか中学生のときからずっと忙しいもんな、今聞いてると。

 確かに(笑)ゆとりないよね私、おかしいな。授業なんか、チャイム鳴る1分前とかに座ってたし、深夜まで普通にパソコンと向き合ってたりしてたし、寝てないのもザラだったから。

——それは主にライブ制作関係が忙しくて?

 うん。そこに没頭しつつ、ゼミにも打ち込みつつ……ゼミもやってんなあ(笑)学外活動が結構多いゼミにいたから、「とっておきの音楽祭」っていう仙台の音楽イベントの、出店者のお手伝いとしてボランティアに入ったり、意外と音楽と触れる機会も多かった。医療福祉系だったから、今の職業にも直結してくるし。いろいろ……くたばりながら頑張ってました。

——その中で、さっきの「教員系の勉強を諦めて」っていう話もあったけど、その先、卒業に至るぐらいの時期は、将来像ってどんなふうに考えてた?

「就活、頑張ったろう」と思って、とにかく窓口業務とか受付業務とか、事務系とか営業とか、いろいろ説明会見て回ったんだよね。大学もすごく就活に強いっていうか、整ってたし。企業説明会のブースとかめちゃくちゃ回って、とりあえず絞らずに、最初は回ってたのね。エントリーシートもけっこう出して、的を絞ったのが銀行と受付・窓口系で落ち着いたんだけど、でも決め手になったのがさっきの医療福祉系のゼミ。

 将来のことをどうしても考えなきゃいけない時期にきたじゃん。3~4月ぐらいはめちゃくちゃ焦ってて。「え、どうしたらいいの?」。周りは早く動いてたんだなって思ってさ。そのときにゼミで学んでたことを思い出して、「やっぱ人と関わる仕事はしたい、マストだ」って思った。
 あと昔、中学校のときに職業体験、医療事務で体験したの、私。医療事務が頭をかすめ始めて、「医療事務よくない?」って思って、なったね。内定は何個かいただいたけれども、今もそこでずっと働いてる。

——何かそこに明確な決め手があったわけではなくて?

 頭をかすめたのが一番大きかった。あと医療系っていうのは、私さんざん日本語とか英語とか言ってたけど、ゼミに関しては3年次で自分が所属してる学科以外のゼミを専攻できる特別枠みたいなのがあって、それで別な学科のゼミに入ったのね。紆余曲折すぎるんだけど、それがさっき言った学外活動のさかんなゼミで、主に福祉系。それでおのずと、いろんな職種の中でも医療福祉に傾いていった。
 もちろん、プロモーターとかの方面も見てはいた。自分の中で、音楽業界で仕事するのも脳裏にはあったけれども、それよりまずイベントはたぶん続けるだろうから、せっかく企業研究とかもしたわけだし、(医療系を)がっちり仕事にする気持ちにはなってた。で、ありがたく内定決めたって流れです。

——確かに、音楽は仕事にしてもしなくてもプライベートでできるけどっていう、そこが医療関係とは違う部分だね。

 そう。結局巡り巡って医療系も、心の底ではやりたかったんだろうなと思う。

<次回>
『ツナグ。』の始動と足跡、そして今考えていること。
*後編は8月8日公開予定

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