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【前編】誰もがその歌を口ずさめる日まで。アーティスト・MANAMIが探し続けるメロディー

取材のお声掛けをしたのは、とあるライブの終わり際だった。
知り合って8年ほど経つMANAMIさんに取材するのは永井としてももちろん感慨深いことなのだが、きっとそれ以上の時間を共にしているファンの方々にとっても、今回初めて聞く話がひとつでもあれば、とても光栄なことだなと思う。

「押しちゃってから決めよう」と、メニューを開いてすぐ呼び出しボタンを押したMANAMIさん。程なくして駆けつけた店員さんに、目に留まったそれを注文して、まもなく取材は始まった。

取材・撮影・編集:永井慎之介

好きっていう自覚をするよりも先に、もう自然と音楽を好きだった

 え、あの……喋りすぎてたら「もう大丈夫です」ってこう(笑)ストップかけて。

——了解です(笑)でも取材とかいっぱい受けてきてますもんね。

 うん、でもさ、言うこと大体いつも同じになっちゃうし、やっぱ長さも限られてるからさ。それに合わせたことしか喋らないから。時間もたくさんあって、生い立ちからみたいなの改めて話すのは初めてだよね。

——そんなメディアもないですもんね。

 ないないない。大体使われるとこもいつも一緒だからさ、みんな「あ、それ聞いたことあるな」「知ってるな」って情報が多くなっちゃうじゃない。だから今日はここだけで、初出しする話が、いっぱい出てきたらいいなと思うので。引き出してください。

——いや〜、だといいんですけど。

 ふふ(笑)お願いします。

——さっきラジオの収録行ってたんですけど。

 あ、そうなんだ。

——やっぱり聞くことって……10分くらいしかないから、これもこれも言いたいんだけど、これしか聞けないな、みたいな。結構もどかしい感じはしましたね。

 うんうん。だし、大体さ、「音楽始めたきっかけは?」とかさ、そういうやつになっちゃうよね、時間限られてると。
 何でも聞いてください!(笑)

——(笑)まあまあいつもだと、でも大体スタート、生まれから聞いてるんですけど、Twitterに92年6月2日ってあって。

 あ、そう!ありがとうございます。そうなんです。結構さ、年齢を重ねるごとに「聞いていいものなのかどうか」みたいな、そういうのを探り探りで聞かれることが多いんだけど。全然オープンにしてます。

——女性にインタビューすること自体があんまりなくて。

 あ、そっかそっか。

——男の人の方が割合は多くて。だから年齢聞くときって「あ、どうしよう」。

 ああ(笑)全然。

——書いてあるのは、ありがたいですね(笑)。

 計算してもらうと「あ、30歳なんだな」ってわかると思う。

——古い記憶、幼い記憶とかって、パッと思い浮かぶものって何かありますか。

 パッと思い浮かぶ……幼い頃の記憶がね、そんなにないけど。おばあちゃんと暮らしてた時期があって、幼少の頃。なんかその断片はちょっと覚えてたりするかな。怒られたとき押し入れに閉じ込められたなとか(笑)あと、なんだろう。なんかいつも、おばあちゃんの二の腕ぷにぷにして寝てたなとか(笑)そんなことぐらい。

——そのときは、おばあちゃんのお家に預かってもらって。

 そうそうそう。生い立ちとかから話していくってなると、生まれはどこでみたいになっていく中で、子供の頃おばあちゃんと暮らしてた時期が数年あって。

——おばあちゃんのお家も福島?

 おばあちゃんは宮城。そう、だから宮城で本当に小さい頃、生活してたときがあって。

——物心つくかつかないかぐらい。

 そうだね。

——これ割とみんなに聞いてることなんですけど、幼いときって自分ではなかなか言いづらいと思うんですけど、どんな感じの子だったなって思います?

 どんな感じの子だった〜? ああ、でも……いつもほっぺが赤かった(笑)「りんごちゃん」って言われてた。いつもほっぺが赤くて、りんごちゃんって感じだったかな。まるまるっとしてて。でもあんまり人見知りとかするタイプではなかったかな。

——元気な子。

 元気とはまた違うんだろうけど、別に暗くも明るくもないかな。写真撮るときはいつも、誰よりも決めポーズというか(笑)絶対ちゃんとピースしてる子だったと思う。

——こういうのに興味持ってたな、とかありますか?

 小さい頃は……ゲームが好きだったかなあ。世代じゃないんだけど、ファミコンとかマンガとか、『ドラゴンボール』とか、それこそおばあちゃん家に置いてあるような。多分同年代の人たちよりも、一昔前のものをすごく好きだったと思う。ファミコンで育ちました(笑)。

——その時の流行りみたいなものとはまた。

 あー流行りはねえ、でもちゃんと『セーラームーン』とかそういうのも好きだった。

——どっちも。

 どっちも好きだった。

——子供心ながらに、音楽にも親しんだりしましたか?

 音楽……でも、それこそ好きっていう自覚をするよりも先に、もう自然と音楽を好きだったと思っていて。おばあちゃんに育ててもらったというか、一緒に暮らしてた時期とかは、そうだね。おばあちゃんが音楽を聴かせてくれるとか、歌ってくれたりとかしてたと思うし。
 あとは……初ライブがね、5歳とかなんだよね(笑)。なんか、思い出すと、音楽活動をして、初ライブとかって聞かれるじゃない。いつステージに立ちました、みたいなのは言ってるけど、実は幼稚園生の時からライブをしていたなっていう記憶があって。SPEEDとかSMAPとか、そういうのが流行ってた時に、自分もアイドルみたいな感じで(笑)チケットを手作りで紙に書いて作って配ったりして、おもちゃのステージみたいなのに立って、パフォーマンスしてたから(笑)。あれってライブだったんだなって(笑)大人になってから気づいた。

——自分でプレイガイドやってたんですね(笑)。

(笑)そうそうそう。やってたなって。メンバーもちゃんといて、女の子2人、私以外にもいて。3人でそういえば活動してたんだなあの時って。だから多分幼稚園生くらいか、その前から音楽好きだったと思う。

——面白い。それを後々本当にやることになるわけですもんね。

(笑)思わなかったよね。

——印象的な友達とかいました?

 印象的な友達……そうだなあ。私は、どっちかっていうと男の子っぽかったから、友達が男の子ばっかりだったんだよね。いつも男子とつるんでるタイプの女子みたいな。「まなお」って呼ばれてたし(笑)子供の時。だから、女子女子した感じがあんまり得意じゃなくて。仲良くなる女子も、割と男の子と仲良くなるような……オタク気質の人が仲良くなることが多くて。アニメとか音楽とかも、結構そういうところに影響を受けていったような気がする。オタクが多かった(笑)。

——おばあちゃんちとかではもうその時はないと思うんですけど、その後も結構そういう……男の子の好きなものとかに触れることが多かった?

 多かった多かった。苦手だったというか、女子が好きなものを好むことが苦手というか。どっちかっていうと男子が好きなものを好きでいたかったのかな。

——それって、今と比べるとどうなんでしょう。

 今はね、そんなことないと思う。中学生くらいから物心がついてきて、「あ、私って女の子なんだな」ってさ(笑)なんか違うんだな男子とは、みたいなのが、気づいてからちょっと、距離を置くようになって。女子の空間に溶け込めるようになっていったというか。

——そういう意識をするようになった。

 なのかなって。

——たぶん、中学生くらいから自分の中の世界っていうか、いろんな今に繋がるような土壌ってできがちだと思うんですけど。

 そうだね。

——こういう種まきしたな、みたいなのってあります?

 音楽を始めたというか、音楽の道を進みたいなって思ったのが中学校の時、一年生の時だったんだけど。友達と初めてカラオケに行った時に、歌を歌って聴いてもらった時に、「なんか歌上手じゃない?」ザワザワ、みたいな。あれ、私って音楽いけるのか?みたいな感じでちょっと、ぼんやり歌手に憧れ始めた時期……が中学一年生の時だったんだけど。そこから「バンドをじゃあ組んでみよう」みたいな話になっていたりっていうのが、種まきだったというか、音楽を始めるスタート地点がそこだったかなって。

ボーカルをクビになりまして

——それまでって、子供心、幼心ながらの将来の夢とかって言ってました?

 将来の夢はね、私はスポーツが好きだったから、小学校はミニバスをやってたし、中学校は卓球をやってたから。バスケをやればバスケット選手になりたいって思ってたし、卓球やってる時は卓球選手になりたかった。スポーツ選手とか、あと絵を描くのも好きだったから、漫画家になりたいって思ってた時があるし。

——多彩ですね。

(笑)違う違う、好きなものがいろいろあって。ワールドカップのバレーボールとか見てたら、バレーやったこともないのに「バレー選手になりたい!」って思ったりとか、そういうタイプ(笑)。

——(笑)確かに、でも流行ってましたもんね。流行ってたっていうか、盛り上がってた。

 そうそう。風船でバレーボールしたりしてて、「私はプロのバレーボール選手になる!」って思っちゃうような、タイプだったかな(笑)。

——それが、音楽のきっかけがあって、「そっちかも」って。

 そうだね。

——人に言われないと気づかない部分ってありますもんね。

 あるあるある。それまでも音楽好きで、多分。音楽番組とかめっちゃ録画して見てたし、好きになったアーティストとかのライブパフォーマンスを何回も巻き戻しして、歌詞とかに起こして覚えたかったりとか。結構夢中になってたから、自覚なしに好きだった、音楽が。

——なるべくして、みたいな感じがしますね。

 そうだね。

——中学でそういうきっかけがあって……ちょっとプロフィールも見てきたんですけど、実際に自分で活動を始めるのが、高一から?

 そうだね、高一から。

——「バンド組もうか」っていう流れもあったと思うんですけど、そういう形で活動しようってなったきっかけは?

 うんとね、中学一年生の時に、歌手になりたいって思って。一番仲良かった子のお兄ちゃんがベースやってて、その子とバンドやろうみたいな話になって、その子が「私もベースやりたい」みたいな。「じゃあとりあえずギターとキーボード集めなきゃ」ってなって。ドラムっていうのは知らなくて(笑)。仲の良い女の子に「ギター弾いて」とか言って、ピアノ習ってる子に「ちょっとキーボードやってみない?」みたいなこと言って、4人で形だけのバンドを組み始めて。BLUE CLOVER(ブルークローバー)っていう名前で、女子4人のバンド、形だけとりあえず作って、私はボーカルやるみたいな。
 それで、歌詞を書き始めたりはしてたんだけど、結局組んだだけで何も活動せずに、形だけでフェードアウトして。「高校生になったら絶対バンドやってやろう」って思ってたから、高校生になってBLUE CLOVERっていうバンドを、本当にちゃんと楽器できる子たちと一緒にやることになるんだけど。それがスタートかな、バンド活動。

——最初がバンド始まりだったんですね。

 そうそう。歌手になりたいって思って、一人でっていう意識が1ミリもなくて。バンド=歌手みたいな、バンドで歌うことが歌手みたいな。いきものがかりとかポルノグラフィティとかが好きですごく。だからそういうのに影響を受けて、バンドっていう意識しかなかったのかな。

——確かにそれならドラム要るって分かんないかもですね……(笑)。

 確かに!そうだね(笑)だからだったのかな。ドラムが必要っていうことを知らなくて。

——これって、舞台はどこで……どういう機会があって披露したんですか?

 えっとね、バンドは本当に偶然なんだけど、中学一年生の時に一目惚れした一個上の先輩が、たまたまギターをやってる人で。その人がどうやらライブハウスとか出入りしてるらしいみたいな。「アウトライン」っていうところでやってるらしい、みたいな情報が入ってて。その先輩を追いかけて、高校も追いかけたりするくらい、本当に憧れてた先輩で。
「アウトライン」っていうのはちょっとぼんやり聞いてて、私はライブハウスって外にあると思ってたの……(笑)なんでか分かんないけど、アウトラインっていう名前も、外のイメージが勝手にあって(笑)外でライブやってんだろうなって。自分も組んだバンドで、「ユーワンミュージックっていう楽器屋さんがあって、そこでライブハウスがあって」みたいな、詳しいメンバーが一人いて。スタジオに入ったりってなってく流れで、初めてユーワンに行って。今あるとこじゃない、西口にあった時。スタジオもその中にあって、そのときに、阿部(綾子)さんと初めましてっていう流れで、そこからアウトラインに繋がっていくんだけど。そしたら初ライブがアウトラインになったんだけどさ。「あ……中にあんだ」みたいな(笑)。

——「アウトライン」なのに?っていう(笑)。

 外じゃないんだ(笑)っていうのが、初めてのライブハウスとの出会いかな。

——その頃からっていうか、もう一番起点のところから、ずっと阿部さんとは一緒に。

 そうなのそうなの。でも勝手に男の人をイメージしてて、阿部さんっていう人が。だから初めてユーワンに行ってスタジオに入ったときに、加藤さんってスキンヘッドのさ、強面のおじちゃんいるじゃない?(笑)あの人が阿部さんだと思ってて(笑)ああ、やっぱ予想通りの阿部さんだなって思ったら、全然違う女の人だった。小柄な。それからの付き合いかな、阿部さん。

——もうじゃあずいぶん長いお付き合いになりますね。

 もう……15年くらいになるかなあ。

——初めて人前でというか、一段高いところに立って、演奏したときのインパクトとかって覚えてますか?

 インパクトかあ。そうだな……なんか、何も分からずに……だってライブハウスがさ、中にあることすらびっくりっていうレベルで(笑)いきなり行ってさ。リハーサルとかさ、知らない世界すぎて、何も覚えてないんだよね。ステージでライブをしたことも。

——やることで精一杯。

 そうそうそう。やることで精一杯だったかな。覚えてない本当に。

——もうもう、必死でやってた。

 そう(笑)ライブしたっていうこと、すら分からずにステージ立ってた。

——カラオケで褒められてっていうのもありましたけど、ライブでのお客さんの反応とかもあんまり(記憶)薄いですか?

 でも初ライブって、友達がたくさん見に来てくれてたから、学校の。だから、ノリで何とかしてくれてたと思う(笑)。

——本格的な披露の場っていうよりも、友達と楽しい遊びの場みたいな。

「ライブしててすごーい!」みたいな、チヤホヤされる感じだったかな、最初は。

——誰もが通る道ですよね。その後、そのバンドってどうだったんですか?

 初ライブをしたのが7月で、8月に、その好きだった先輩の人の企画に呼んでもらったの。で、「うわ、出たーい!」ってなって出て。その後に、テルサ(ホール)でオーディション、「ミュージックレボリューション」かな。あれに出て……終わった(笑)。

——終わった(笑)。

 7月に初ライブ、8月にもう一回ライブ、テルサでやって、解散(笑)活動期間超短かった。

——またしても本格化ならず……。

 そう〜。1ヶ月くらいだったのかな。スタジオ入って、とかを含めたら3ヶ月くらいだったんじゃない?(笑)すごい命の短いバンドだったんだけど。ボーカルをクビになりまして。メンバーがみんな男の子たちで、スタジオに入るときに、「マネージャー」とか言って一人男の子連れてきてたのね、メンバーが。ボーカルクビになった後に、その子がボーカルでバンドを。「なんだよ!」って(笑)。全然違う名前で活動を始めて。「俺たち男だけでバンドがやりたい」って言われて、クビになった。もちろんほかの理由もあったと思うけど。

あの人を振り向かせるにはどうしたらいいんだろう

——でもそこで「もう音楽いいや」ってはならなかったわけですもんね。

 そうだね。そこで、楽器なんかしたこともなかったけど、ギターをすぐ買いに行って。ユーワンでギターを買って、っていうのが9月かな。7月にバンドで初ライブ、8月に解散、9月にギターを買って始める、10月に初ライブ。

——(笑)めまぐるしい。

 そうそう(笑)ギターを買って、全然弾けもしないんだけど、もう1ヶ月後のこの日にライブをやるって決めて、そこに向けてめっちゃ練習して、っていうのがMANAMIのスタート。

——とりあえず注文ボタン押しちゃう感じですね(笑)。

 そうそうそう(笑)さっき(取材開始前)と一緒!さっきと一緒だ〜。変わってないんだな多分そういうとこ(笑)。

——やっぱそこで途切れずに、ギター買いに行って、っていう行動に移すぐらいの気持ちではあったんですね。

 そうだね。もう絶対歌手になりたいっていう気持ち。歌手っていうか、有名になりたいっていう気持ちが強かったから、なにくそっていう気持ちでギターを買って。
 その時YUIっていうアーティストが流行ってて。私もすごい好きで、あ、弾き語りっていうか、一人でやるってそういう感じか、みたいなのでYUIの曲をめっちゃ練習して。ギターを覚えることに精一杯だから、弾き語るっていうところまで思考が行き届いてなくて、ギターだけとりあえずめっちゃ練習して。でライブ当日に「あ、そっか歌も歌うんだ」って(笑)なんか……弾きながら歌うっていう練習はそういえばしてなかった(笑)。

——してなかったんですか!?

 そっかって、そうだよなって、当日になって。だからちゃんとこう、弾きながら歌ったのはライブが初めてだった。

——ぶっつけで。

 ほぼぶっつけみたいな。

——やれたんですか?

 いやもう、ボロボロだけど。その一番ひどいところから、ステージに立っちゃいけないレベルでステージに立ったから、怖いものがなくなったかもしれない。

——あ〜。あとはもう伸びしろしかない。

 そう。本当にボロボロなステージ。残っててさ、映像が。数年前に見たんだけど、弾き語りの初ライブはアイヴィースタジオ。シームーン(福島C-moon)ができる前のアイヴィーのスタジオが、ライブできる会場だったんだけど、そこで初ライブをして。「すごくバンドをやりたいんです私は!」みたいなのをMCでめっちゃ言ってた(笑)。

——(笑)まだ諦めきれなかった。

 そうそう。私も本当はバンドがやりたくて、メンバー募集してますとか言って。

——その後、バンドを組むことってあったんですか?

 コピバンは結構やったかな。木村カエラのコピバンとか、ジュディマリのコピバンとか。あと『けいおん!』とか流行ってたじゃない?それ系はちょっとやったかな。

——基本的には一人で?

 一人で。そうそう。とにかくライブの数めちゃめちゃ入れて、月4〜5本はやってたかな。ライブハウスと、あと路上ライブをやってた。とりあえず数こなして経験値上げようみたいな。

——ちょっと話逸れちゃうんですけど、郡山って路上、あんまりよろしくなくて。福島って割とそういうのオープンだったんですか?

 今は分かんないけど、当時は……厳しくはなかったかな。でもお巡りさんに注意されたりは、してたけど、お巡りさんも味方につけてやってた(笑)。なんかね、警備員さんが見回りに来るんだけど、「やめてね〜」みたいなこと言われてたけど。ある時ね、警備員さん?がCDを買ってくれたことがあって。「本当はダメだけどね」みたいなこと言って、CDを買ってくれた。だから、見逃してくれてたのかな。

——歌でってことですよね。めっちゃ自信になりますね。

 そうそう、すごい嬉しかったかな。

——路上って、やっぱり、うちらみたいなバンドマンには経験のないことなんですよ。だから路上をやる時の景色とか、気持ちとか、あんまり分かんなくて。

 そっか。そうだよね。

——この間の「まなフェス」みたいに、屋外でやるみたいなのは分かるんですけど、それともまたちょっと違うじゃないですか。孤独感みたいな……もちろんいい気持ちになれる時もあると思うんですけど。その時ならではの、感じたこととかってありましたか?

 うーん、そうだな。その時ってお客さんもついてないし、だからライブをするのにもやっぱりノルマも払わなきゃいけないじゃない。弾き語りでもバンドと同じ料金払ってライブしたりとかも全然あって。だから、めっちゃバイトしてもノルマ代で全部消えていくみたいな。本当「お金を払ってライブをする」っていうのが当たり前だったから。もうなんでもいいから、一人でもいいからチケット誰かに買ってほしいとか、路上ライブとかで。もう必死だったよね。一人でも立ち止まってファンになってくれないかな、みたいな。あと、名前をちょっとでも誰かに知ってもらおうとか。必死さしか多分、路上の時はなかったかな。

——その時の頑張りが、今に繋がっている感じってありますか?

 えーそうだね、それを経ての今だから……路上で誰か一人振り向かせたいみたいな気持ちって、路上の時からもそうだけど今も変わらずあるというか。この会場にいる誰か一人でも、自分の想いが届いてほしい、みたいな気持ちは多分路上の時から変わらないかなと思う。

——確かに、同じ会場にいるのに、それこそ通行人ぐらい心が離れている人もいますもんね。

 いるいる。あの人を振り向かせるにはどうしたらいいんだろう、みたいな。そういうのをすごい思って、ライブをしたりするから、通じるところはあるよねきっと。

——めちゃくちゃいい経験というか、大事な経験だったんですね。

 そうだね。私はね、実は路上ライブが好きじゃなくて。だから、路上もやりたくないから、売れたい(笑)しなくてもいいように売れよう、頑張ろうみたいな、気持ちにも正直なって。やってる人たちはすごいなと思うけど、自分は進んではやりたくない。

——路上が好きで飛び出していくというよりも、そこからむしろ脱していくっていうか。

 ここには……戻りたくないじゃないけど、やっぱりすごい切ない気持ちになるんだよね。誰も止まってくれない、素通りが当たり前だし。やっていいのかやっちゃいけないのかも、グレーというかさ。正しいことをしてるんだという気持ちではできないから。誰かの迷惑にもなっているかもしれないとか考えちゃうと、なんとも……って感じ。

——肩身狭いっていうか。

 うん。

——職業的な夢とかも他にあるわけでもなく、真っ直ぐ歌の方向にずっと向いてた?

 そうだね。中学校は卓球めちゃめちゃやってたから、卓球選手になりたいみたいなのがあったけど。

——出た!(笑)

 愛ちゃん目指して、みたいな。高校も卓球のスポーツ推薦で入ってて、別に卓球が強い学校でもなんでもなかったんだけど、好きな先輩もいるし、卓球部がなかったから「作ります」みたいなこと言って。それで学校に入ったのに音楽の道に走って部活辞めてるから(笑)最低だよね、利用したみたいな(笑)。でもずっと音楽やりたいって気持ちが、強かった。

——続けたくても続けられない人もいる中で、その気持ちでずっと今日まで来れてる……いろいろあったとは思うんですけど、来れてるっていうのはシンプルにすごいことだなって思います。

 いえいえ〜。ありがとうございます。

何者でもないなって、結構早い段階で気づいた

——高校3年間も、みっちり歌をやっていく?

 バイトして、ライブして、企画とかもやってたし、高校生の時から。オリジナル曲作って、オーディション受けてとか……高校生が一番頑張ってた時代かな。すごい気持ちが強くて。「音楽で頑張りたい」みたいな。
 ちょっと生い立ちに絡んでくる話なんだけど、私は母子家庭で育っていて、生まれてすぐに両親が離婚してるから、お母さんに育ててもらったんだけど。父のことを知らずにずっと育っていて。唯一、お父さんめっちゃ歌うまかったらしいっていう情報だけあって。それ以外のことって、なんか聞いていいのか分かんないし、お母さんも話したりしないから、あんまり興味を持たずにずっと過ごしていたんだけど。中学校の時に「歌手になりたい」って言った時に、「お父さんもそういえば歌うまかったんだよな」「歌手で有名になったらお父さんに会えるんじゃないかな」みたいな、ぼんやりとそういう夢を持ち始めて。だから音楽でめっちゃ売れて、お父さんに会いたいみたいな、そういうのをずっと掲げて、音楽やりたいって思ってた。

 でも、音楽で有名になってお父さんと会いたいみたいなのを思ってたんだけど、高校三年生の時にひょんなタイミングでお父さんと再会することになるんだよね、ライブハウスで。東京でライブをすることになった時に、初めてライブハウス……アコースティックの登竜門みたいな場所が、東京の四谷天窓っていうライブハウスがあるらしいよみたいなので、阿部さんが繋いでくれて。ちょっといろんなことが重なってというか、お父さんがそのライブハウスに来てくれて、初めましてをするっていうドラマチックな出来事があって。
 でも、もっと有名になった先でお父さんと会う予定だったから(笑)それこそ『Mステ』とか出たりさ、もっとめっちゃ売れて、そういうドラマチックな……テレビの番組の企画とかをイメージしてたから。こんなあっさり会えちゃう(笑)みたいな。だから、遠く先に掲げてた夢が意外と近くで叶っちゃって、モチベーションがそこでゴールしちゃったというか。

——ああ……じゃあ結構そのぐらいのウェイトを占めてるものだったんですね。

 そうなのそうなの。本当にそれに突き動かされてたというか。だからバンドを初めて組んだ時も、「私はこういう事情でお父さんに会いたいんだよね」みたいな。でメンバーも「よっしゃやるぞ!」みたいな……すぐ解散したけど(笑)。だから(解散後)すぐ一人でじゃあやろうって思ったし、それを目標にというか、走っていけてた。夢を叶えてくれたのも音楽だったんだけど、なんか……思ってたのと違うなって(笑)。

——意外と近くにいたなっていう。

 違っ……もっと先で出会えるはずだったんだけどな……みたいな(笑)。

——でも会えたっちゃ会えたのは、それはそれでよかった。

 そうだね〜。ほんと18年間音信不通というか、生きてるか死んでるかも分かんないよみたいなことしか聞かされてなかったから。まあでも音楽が繋いでくれた、ことではあったけど。でもその後も「次はメジャーデビュー」とか、色々次の目標を、一応立ててはみるけど、なんか心が追いつかない時期がずっと続いてた。

——メジャーデビューとかって言っても、その支柱になるものがもう無くなっちゃったから。

 そうそう。そこまではすごい走っていけてたけど、ちょっとこう……次なる目標みたいなのが明確じゃなくなって。高校卒業した後とか。

——それは、どこかでまた見つけることはできたんですか?

 今も探してるの(笑)そうなの、実は。そこからは、音楽ももちろん頑張りたいけど、「結婚して幸せになりたい」の気持ちの方が多分強かった(笑)。「売れたらラッキーだよね」ぐらいの感じになっちゃったかな、モチベーション的には。

——高校のその一生懸命やってた時が……「闘い」だとしたら、その後は……「遊び」って言ったら言い方悪いですけど、楽しい気持ちでやるようなものに変わっていった感じなんですかね。

 えっとね、そうなるにもかなり時間かかって。高校卒業するタイミングで、初めてワンマンライブ、アウトラインで卒業記念ワンマンみたいな。2011年の3月の12日に企画してて、そこに向けてまたこう、じゃあワンマンあるからって頑張れてたけど、前日に震災が起きて、そのライブ自体も流れちゃって。っていうので……ワンマンやって上京しよう、みたいなのを考えてたから。就職も進学も私はしませんって言って、音楽でやりますみたいなことを言ってたから、とりあえずワンマン頑張ろーって。だけどそれも流れちゃって。何に向かって走ればいいのかも分からないし、楽しくもないし、辞めるに辞めれないしっていう。音楽が楽しくない時期がずっとあったかな。

——うん……辞めれないんですよねえ。

 辞めれない。そうなんだよね(笑)辞めるに辞めれなくなってて。やってるだけ、みたいな。でもこれしかないし、みたいな状況だったかな。

——上京するっていうのも、すごく強いモチベーションというか、目標みたいなほどのものではなかった?

 勝手に「上京=売れる」じゃない?(笑)分かんないけど。東京に行ったらもう売れるんだろうな、行っただけで売れるって勝手に思ってたから。東京行って売れよう、みたいな(笑)気持ちだったんだけど、でも震災がきっかけで、やっぱり、ね。それどころじゃなくなったっていうのと、自分がいかに無力かっていうのはすごい感じた時期で。
 周りのミュージシャンの先輩、それこそaveさんが震災の時に曲を作ってみんなに勇気を与えてたり。でも私みたいな当時のペーペーは、別に歌ったところで何にもならないし。路上で募金集めるみたいなのもちょっとやってみたんだけど、「なんで被災地の人からお金集めてるんだろう」っていう違和感もあって。本当なんか、できることなんにもないって、なってしまって。そこで自分のちっぽけさに気付くというか。高校生ブランドでチヤホヤされてただけだったんだなって、気づいちゃったかな、早い段階で。

——ありますよね、高校生っていうマジック。

 あるよね。高校生で歌ってて、っていうだけで周りから注目されてただけなんだなって。そのブランドがなくなったら、本当何者でもないなって、結構早い段階で気づいた。

——そしたら一回、東京には行けなくなって、でも後々行くじゃないですか。それまでの間の、一時停止の期間があって。ここってやっぱ……苦い期間だったんですか?振り返ると。

 そのタイミングで、震災があった直後のタイミングで、片平里菜ちゃんという存在が出てくる。同い年で、音楽始めた時期も一緒で、それこそ路上ライブ時代は私がこの辺で歌ってて、里菜ちゃんが少し先で歌ってるみたいな。同じ場所で路上してるけど、一緒にじゃないけど、同じ場所を拠点に路上ライブしてて。私がやってる日、里菜ちゃんがやってる日みたいなのがあったり。その頃から里菜ちゃんっていう存在が、自分の中で大きくはなっていったんだけど。
 その頃にソニーの新人発掘みたいなので(MANAMIさんが)目をかけてもらってたんだよね。でも、ライブ見てもらったりしてもらったけど、何も繋がらなくて。里菜ちゃんはドーンといったっていうか……「閃光ライオット」か、でもオーディションでバーンっていった時期で。もうなんか私……なんだろう、すごい比べられるし、「片平里菜ちゃんみたいに頑張れよ」みたいな。意識せざるを得ないというか。私は私でって思うけど、存在がどんどん大きくなっていくから、なんか、かなりもどかしい時期というか。

——周りから見てもそうだったろうし、自分自身の中でも多分、スタートラインが近いからこそ、同じように走ってきたはずなのにっていう感じってありましたよね。

 そうだね。一年ぐらいは里菜ちゃんを意識して、「私は東京行こう」ってまたなるんだけど。なんか逃げるように東京に行っちゃったのかな。福島に居づらいとか、なんか居てもいい思いがあんまりなくて。

「もう音楽は二度とやらないぞ」ぐらいの気持ちで

 一年越しにやる予定だったワンマンライブをやって、アウトラインでその時に100人以上動員したんだよね、初めてのワンマンだったんだけど。それで「東京行きます!」って言って、みんなにめちゃめちゃ「頑張ってこいよ」みたいな、すごい応援してもらって東京に行って。小さな事務所に入ることも決まってて、「東京行って事務所入りま〜す!」ってヘラヘラして出てったんだけど、3ヶ月で辞めちゃったんだ。

——事務所っていう単語だけで、わってなりますもんね。

 そうそう、でも思ってるのと全然違くて。それこそ「路上から武道館へ」っていうのをコンセプトにやってる事務所で、私路上ライブ苦手だから……(笑)「いやーマジかー」ってなって。なんとなく分かってはいたけど、路上ライブやっぱやんなきゃいけないんだな、でもやっぱやりたくないし、売り出され方みたいなのも「田舎から出てきた、かわいそうな感じでお願いします」みたいな。「いやー私、多分違うなー」って。やりたい事、ポップでキラキラした感じが好きなんだけどなー、おかしいなーってなって、3ヶ月で辞めちゃった。

——そこまでのイメージ戦略みたいなのが、はっきりあるんですね。

 あったねー。「社長が作った曲でデビューしてください」みたいな(笑)。でもなんか……あんまりね、ピンとくる曲じゃなかったし。もう事務所辞めちゃって、どうしようってなって。福島帰るわけにもいかない、なんか帰りづらいし、事務所辞めちゃったのもなんかね、言いにくいし。うわーってなって、そこから東京で静かにライブ活動とかしながら。
 その時期がもう地獄で。楽しくないし、お客さんのことが好きになれなくて。「なんでこの人たちライブ来るんだろう」みたいな。事務所でついたお客さんが、事務所辞めても見に来てくれたりしてたんだけど、優しくできなくて。物販とかでニコニコできなくて。「なんでライブ来るんですか」って……(笑)お客さんに「来なくていいですよ」とか言っちゃったこともある。

——めっちゃ病んでますね……(笑)。

 めっちゃ病んでるよね(笑)なんか変に尖っちゃった。違う方向に尖っちゃって。でもそのお客さんね、今でもファンでいてくれてて。10年以上、三重からずっと通い続けてくれてて、その頃を知ってるから、「変わったねー」って(笑)言われる。そう、そんな時期がね、1年……2年間かな、東京に2年いたんだけど。1年目は一応、ちょっとは活動してみたんだけどさ、ライブ出てみたり。あと地元にもちょこちょこ帰ってきてライブしたり。「MANAMI(東京)」ってついてるのがさ、なんか(笑)嬉しくて。地元でライブするときに「(東京)」が嬉しくてさ(笑)東京ブランドみたいな。やってたけど、全然いい活動はできてなかったかな。惰性でやってる感じ。

——多分ですけど、活動一回休止するみたいなのもこのぐらいの時期?

 そうなの、暗黒な時期があって。でもその、一年間は地味にライブやってたんだけど、その2年目?上京して2年目はもう「辞めます」とかも言わずにフェードアウトしたの。ギターも触らないし、音楽もやってないし、ライブ活動もしないし。東京で、スーパーで働いてた。「もう音楽は二度とやらないぞ」ぐらいの気持ちで、音楽と離れた時期があったんだよね。歌手ってことを知らずにさ、誰かとカラオケ行ったらチヤホヤされるの楽しい(笑)ぐらいの生活を送ってたから。

——それで……どうなんでしょう、心は洗われたんですか?

 それもまた里菜ちゃんが絡んでくるんだけど。街で普通に買い物とかしてると、有線で里菜ちゃんの曲が流れたりするじゃん。とか普通にテレビ見てたら里菜ちゃんが出てたりとか、あの時共演したあの人が売れてる、みたいなのが全然あって。切っても切れないというか、離れたつもりでももう離れられないんだな、みたいな。「悔しい」って思ってさ、やっぱそれが。この悔しさは、自分が音楽をしないで後悔みたいな感じで感じていくよりは、自分も音楽やってる上で悔しい、のほうがいいなって思ったかな。
 それで……それもあったけど、音楽やろうっては別に思わなかったんだけど、とりあえず福島帰ってみようかなってはなって。このままずっと東京いてもしたいこともないし、今まで私を知ってた人、誰にも会わずに(笑)ひっそり福島で暮らしていきたいなって。就職とかしようかなって、福島に帰ってきた。2014年。その時に、帰ってきたら、誰かにライブのお誘いをされたんだよね。見に来てって……たぶんスタジュニ(Stand☆Jr.)かな。誰か、その辺だと思うんだけど。ライブの誘いをされて、「アウトラインでライブやるんで」って。それをちょっと「行ってみるか」みたいな。東京に上京した時、阿部さんの連絡シカトしてて……(笑)。

——めっちゃ不義理じゃないすか(笑)。

(笑)本当に最低なんだけど。阿部さんからの連絡も全無視してたし、関わりを持つことすらしてなくて。「行きづら〜い」と思ってたんだけど、ちょっとこっそり行ってみるかってなって、アウトラインにライブ見に行って。そしたら意外とみんな「あれ?MANAMIちゃんじゃ〜ん」みたいな。「何してたの?」みたいな。「あれ?なんかみんな普通だ」って。阿部さんに至っても全然……ね、いつもの感じで。「またやったらいいじゃん」ってすごいラフに言われて。「あ、いいんだ、やっても」みたいな。そこからかな、じゃあもう一回やってみようかな、になったのが。

——結構それまでにあった、(胸に)突っかえる感じ、とはまた別にゆっくりやってみようかなっていう感じ。

 うん。なんかそっから「楽しい」がわかるようになった。音楽、ライブって楽しいんだみたいな。それまで「やらなきゃ」とか、誰に言われたわけでもないけどやらされてる感じでやってきてたのが、「なんでもいいんだな、自由なんだな」っていうか、すごい楽しくできるようになった、再開してから。

——スタジュニがいなかったら……って感じですね(笑)。

 うん、でもスタジュニだったかも覚えてないけど、その辺の誰かだなって感じ。

——SkyRideとかですかね。

 SkyRideだったのかな。根本(啓生)くんだった気がするんだよな、って感じ。

——zanpan組んだのが2013年で、やりだしたのが14年とか。だからそういう風になった後のMANAMIさんだったんだなって。

 そっかそっか、出会ったのがそのぐらいだもんね。2014年ぐらいで。

——まだその時大学生だったので。

 そうだよね、星ついてたしね(笑)星時代からの付き合いだからね。

——きついなあ……(笑)。


<次回>
音楽的苦境を乗り越えて、今MANAMIさんのやりたいこと、できることとは。
*後編は2月22日公開予定

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