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【前編】自分らしい音楽を、ふるさとのために。村民こだま、泉崎のすすめ

矢吹町と白河市の間にある「泉崎村」をご存知だろうか。
車でも電車でも、厳密に言えば新幹線でも、福島を縦断しようと思えば必ず通りかかる場所だ。
自治体のホームページを見れば、出土した埴輪がモチーフの「いずみちゃん」が出迎え、特産品にはさまざまな品目が並んでいる。

と、さも知った顔で書く私も、村民こだまさんにお会いするまでは、泉崎村のことは何も知らないに等しかった。今では、にこやかな口元のいずみちゃんが愛らしくて仕方がない。
その独特なキャラクターと素直で真摯な歌作りのもと、アーティストとして、広報として、村民代表といっても過言ではないであろう活躍を見せるこだまさんに、今回ようやくお話を伺えたことを、とても嬉しく思っている。

取材・撮影・編集:永井慎之介
撮影協力:LIVE STAGE PEAK ACTION

窓の外見つめながら夕暮れ見て泣いてた

 すいません、迷いまくってしまって。

——大丈夫でした?(笑)

 大丈夫です。なんか、インターを降りるとこをまず間違えて、そっから多分、ちょっと焦って(笑)ちょっとあれして……帽子落とすと思わなかった(笑)。

——あってよかったですね(笑)。

 コンビニの玄関に落とすと思いませんでした(笑)。
 すごい、おいしい、これってどうやって食べるんですか?(笑)混ぜる感じですか?(抹茶クリームフラペチーノ)

——混ぜるんでしょうね。

 この生クリームもったいないですもんね。なるほど、なるほどですね。ありがとうございます、伝授してくれて。ひとりだと多分わかんなかったですね。
 ながいせんせのこと、私の中ではナガサワ先生って呼んでるんですけど(笑)私間違えて(他の人との話の中で)ナガサワ先生って一回言っちゃったんですよ。それからナガサワ先生って言うようになって……。

——ね、ずっと名前覚えられてないのかなって(笑)。

(笑)。

——でもなんやかんやで、ちゃんとお話しするのは初めてで。

 そうですよね。

——ライブもなんというか、すれ違いみたいな感じで。

 そうですね、あと飲み会の時に鉢合わせしたりとか(笑)。ちゃんとご挨拶できてなくて。

——いやいやいや。すいません、そんな中、ありがとうございます。

 いえいえ。(永井を)一番最初に見たのが、4年前くらい? コロナ禍前の……何のライブだっけ、zanpanと、対バン忘れちゃったんですけど、地底人とかと対バンする時ってありましたよね。その時にお客さんが「ながいせんせすごい好き」みたいな感じで、「ながいせんせがいつもライブでやるポーズがあるんだよね」みたいな話があって、「マジっすか」って一緒に見てて、最初存在を知ってたんですけど。でもお話しするタイミングはなかったですね。

——イベント被ったりもしにくいですしね。ふっしー(zanpan Drs./郡山PEAK ACTIONスタッフ)とかはでも、お会いすることありますよね。

 ふっしーはピークにいることもあって、あとあれですね、コピーバンド(県内ネットワーク(ビジネス))のドラム……「村へす」のとき出てたの知らなかったんですよね(笑)あれめっちゃ面白かったです。

村へす2023

——「そういえばそうだった」みたいな(笑)。

 zanpanのメンバーの温度差というか、そういうのがいいですよね、和みます。

——みんな3人とも好き勝手やってるんで……。

 いいなって思いました、その感じが。ふっしーもすごいいい子だし。

——じゃあ、じわじわ始めたいんですけど。

 了解です。さゆたっち(sayuta)いるじゃないですか。「今日ながいせんせのインタビューなんだけど、緊張する、どうしよう」みたいな送ったら、「すごい聞き上手だから大丈夫だよ」みたいな。「身を任せていいよ」みたいな。

——ありがた〜い。

 って言ってたので。

——じゃあ、そういうことで(笑)。大体その、お生まれから今日まで、流れで聞いてるんですけど。お生まれから泉崎村で?

 生まれは……母の実家なので会津なんですけど、育ちは泉崎村で。

——会津なんですね! 生まれてすぐに移ったような感じ?

 何ヶ月かですかね。でもそれって(泉崎村)出身在住って言っても大丈夫ですよね? そう、ふと疑問に思う時があって……(笑)泉崎村、出身在住です。

——幼少期の自分自身って、今と変わんないですか? それとも今とはまたちょっと違う感じでしたか?

 ほんと、自由に生きてましたね。今もだいぶ自由かもしれないですけど(笑)そうですね。やっぱり泉崎村ってすごい田舎で、自然豊かで虫がいっぱいいて、あと子供が少ないんですよね。同級生とかが少なくて。虫捕りしたりとか、動物と遊んだりとかして、結構のびのびと過ごしてました。
 あとおばあちゃん子でした。「でした」っていうか「です」(笑)健在なんですけど。両親共働きだったので、ずっとおばあちゃんといる感じでしたね。

——学校は泉崎からだとどの辺になるんですか? 泉崎の中に、学校がある?

 あります。泉崎幼稚園がまず一つあって、泉崎第一小と第二小があって、そこで一回二手に分かれるんですよ。で、中学校でまた合流、6年越しの再会みたいな感じで。私は第二小学校にいたんですけど、自由に過ごしつつ……よく泣いてた記憶(笑)ありますね。結構泣いてました。

——喧嘩みたいな?

 いや、喧嘩ではないんですけど、なんだろう……なんですかね。なんで泣いたかとかはあんまり……なんか、メンヘラ?(笑)小学生でメンヘラってなかなか聞かないですけど、今で言うメンヘラはちょっと。傷つきやすかったかもしれない。言い方一つでだいぶ変わりますね(笑)。
 割とこう、みんな気にしないとこで、泣いてしまったりとかするときはあって。例えば毎日、日が暮れるじゃないですか。夕方とかになると、泣いたりとか……(笑)。私は記憶がないんですけど、うちのお母さんが、「2〜3歳とかそのくらいのときに窓の外見つめながら夕暮れ見て泣いてた」って(笑)大丈夫かなと思って。その名残は今もあるかもしれないですけど。

——なんで泣いちゃったんですかね。

 なんでですかね。なんかあれじゃないですか、「夕暮れ=バイバイ」みたいな。友達とバイバイするとか、そういうイメージになってたんですかね。わからないですけど。全然記憶ないんですよ(笑)「窓の外見て黄昏れて泣いてた」って言ってました。

——いや、でも感受性だったのかもしれないですよね。

 いらない感受性ですけど(笑)割とでも、お葬式とか例えばあったりすると泣いたりとか。亡くなった人と別に関わりがなくても泣いたりとか。そういうちょっと……メンヘラだったって(笑)言ってました。メンヘラだったとは言ってないですけど、そういう一面があったよっていうのを、割と去年くらいに聞かされて。「そうだったんだ」と思って。

——雰囲気なんですかね。

 ですかね。あんまり映画とかも、感情移入しすぎちゃうので、観ないようにしてるって言うとあれですけど。意を決して観ないと、3日間くらい引きずる。

——(特性としては)今も割と残ってるみたいな。

 そうですね。結構その節はありますね。

みんなにはできて、なんで自分にはできないのかな

 ちょっと待ってください、つけまつ毛取れてないか見てもいいですか……?(笑)

——(笑)全然見てください。

 ごめんなさい(笑)ちょっと……つけまつ毛……取れてますね!(笑)すいませんちょっと、つけまつ毛ここで直していいですか?

——全然大丈夫です。

 これ全部マイク入ってるんですか?

——あ、全部入ってます。

(笑)こういうとこって使うんですか?

——使うときもあります。面白かったらそのまま入れてます。

(笑)ちょっとつけまつ毛ののりが……。すいませんすいません。全然音楽始めたきっかけとかの話してないですけど……?

——全然全然、音楽のことだけじゃなくて、その周りを囲っているものとか、その下に根付いているものとかも聞けたらいいなみたいな感じでやってるんで。

 ありがとうございます。なかなかこういう、聞いてくださる機会ってないので、ありがたいですね。

——なんか、自分たちもないなと思って。インタビューとか受けたこと、ほとんどなくて。

 そうなんですね。

——「じゃあひとのやつをやればいい」と思って。

 すごい。今私で何人目くらいなんですか?

——でも30人くらいは多分、聞いてると思います。

 ですよね。ずっと見てましたよ。すごいなと思って。

——わあ、ありがとうございます。11月から始めて、もう2年経つので。3年目の最初の一本がこれになりそうです。

 え、これで大丈夫ですか?(笑)ありがとうございます。
 ……小学校くらいまでですよね。自然とかで遊んだりとか、木に登ったり虫捕りしたりとか、数少ない友達と遊べるときは遊んで。でも大体遊べないときとかの方が多くて。家にピアノがあったんですけど、お母さんの。それでピアノを弾くっていうのが大体の過ごし方でした。

——そこがルーツみたいなとこがある?

 そうですね。

——お家で教えてもらって?

 あ、教えてもらった記憶はあんまないんですけど、テレビとかから流れてくるものを真似して弾いたりとか。

——あ、耳コピ的な。

 そうです。いまだに楽譜読めないんですけど、ずっと感覚で生きてしまってるんですね。あんま良くない意味で(笑)。でもお母さんが家にピアノを置いてなければ、私は多分ピアノを始めてなかったと思いますし……っていう感じですね。面白いですね。自分の過去も振り返れるから、こういうインタビュー面白い。

——たまに言ってもらえるときあります。「すっきりした」とか。

 確かにそうですね。

——素敵ですね、ピアノあって良かったですね。

 そうですね、「ピアノなかったら今頃何してた?」って思うくらい結構、今の自分にはすごい大切なものになってるんで、お母さんに感謝してますね。泉崎村にも感謝してます。

——それからはずっとピアノを弾いてっていうか、音楽好きな感じで育っていく?

 そうですね。
 ちょっと話飛ぶんですけど、高校は隣の白河市(に進学)だったんですけど、そこに行くまでCDとかをレンタルしたりとか、J-POPとかを借りたりして聴く手段とかが全然ない環境で育ってたので、高校の時に初めてCDを借りて……テレビとかでは見てましたけど。割とそういう音楽の方が好きで。

 それまで、一応ピアノも習ってたんですよ、習ったんですけど楽譜読めなくて。結局最後までピアノの発表会とかあるじゃないですか、ピアノの発表会とか。みんな楽譜渡されるのに、私だけカセットテープだったんですよ(笑)「カセットテープ」っていうのがまたちょっと年代を……(笑)っていう感じで、それまではずっと課題曲、ピアノ習ってるやつの課題曲を弾いたりとか、軽く自分で作って弾いてみたりとか。何歳くらいですかね、ラジカセあるじゃないですか。ながいせんせラジカセ知ってます?(笑)

——(笑)知ってます。

 よかったです(笑)ラジカセにカセットテープ入れて、録音ボタンと再生ボタン一緒に押すと録音できるんですけど、それで自分が弾いたやつを録ったりして、聴いてみて「いい感じだな」とかっていう遊びをしてましたね。

——じゃあずっと物心ついた時からピアノと一緒に。

 そうですね、家に帰れば……それ以外の選択肢が、ネットとかも今みたいな感じで普及してない時代ですし。
 あと忘れ物とかめちゃくちゃ多かったです(笑)どんな子供かっていうので思い出したんですけど。……想像つきますよね。

——……はい(笑)。

(笑)今日もそうですけど、道に迷ったりとか結構バタバタしちゃったりとか。だから「なんで自分だけできないんだろう」っていう、自己肯定感がすごい低い子供でした。それは今もなんですけど、多分自分の歌の歌詞とかを見ると、そういうのが垣間見えてる部分はあると思うんですけど。「みんなにはできて、なんで自分にはできないのかな」っていうのがすごい多かったです、昔から。

聞いちゃいけないものを聞いてるんじゃないか

——今ちょっと話に出たとこですけど、テレビとかから聞こえる音楽とか、CD借りて聴いてた音楽とかで、思い入れがあるやつとか、好きなやつとかは?

 そうですね、小学生の頃にテレビで最初知ったんですけど、モーニング娘。、ハロプロがすごい好きになって。楽曲もすごいなと思って聴いてて、それでCDとか借りれるようになって。
 でも高校時代で一番私が影響を受けてるアーティストって銀杏BOYZで。

——え〜、そうなんですか!

 はい(笑)銀杏BOYZなんです。結構意外って言われるかもしれないんですけど、バンドサウンドがすごい基本的に好きで、銀杏BOYZを聴いてから人生がこう……狂いましたね(笑)いい意味で。

——大学の時に、全然詳しくないんですけど、サークルのコピバンで弾いたことがあって。すごい……パワフルだけど繊細な。

 確かに確かに。もう、衝撃的でしたね。高校生の自分にとっては……なんか聞いちゃいけないものを聞いてるんじゃないか(笑)っていう気持ちも、ちょっとあって。部屋でこっそりヘッドホンで聞いてました。でも曲で初めて泣いたのが銀杏BOYZの『夢で逢えたら』って曲だったんですけど、「音楽ってすごいな」って改めて思って。
 今までピアノでやってきた音楽と全然違うもんじゃないですか。歌詞とかもあるし。自分もそういうのをやってみたいなっていうのは結構、強く思いました。それで音楽の専門学校に行こうと思って、そこで決めましたね。

——世界が広がった。

 なんかもう、広がったっていう綺麗なもんじゃない(笑)すごい衝撃的だったので、それは今も変わらずですけどね。そっからいろんな音楽を聴くようになって。やっぱり青春パンクとか、速いテンポの曲とかが好きだったりするので。

——めっちゃ意外です。

 本当ですか。でもよく言われます。割とでも、自分の曲とかを聴いてると、メロディの譜割りがこう、「あ、ちょっと銀杏っぽいな」とか(笑)そういうのなんかちょくちょくありますよ。「この流れちょっと銀杏っぽいな」「影響されてるもんなんだな」と思って。あの衝撃はすごかったです。

——何がきっかけで出会ったんですか?

 私、女子サッカー部をちょっと手伝ってたんですけど、私が高校2年生の時に、1年生の後輩と、その子を好きな男の子と3人でカラオケに行ったんですね。で、その男の子が銀杏BOYZの『BABY BABY』っていう曲を、好きな女の子に本気で歌ってて。それで「え、何この曲!?」ってなって。すっごい綺麗な歌詞だし、すごい真っ直ぐな歌詞で、メロディーもいいし、ちょっとCDショップで借りてみようと思って借りて、アルバム聞いたらもう、全然……(笑)全然違うような曲もたくさん入ってて。すごい人間臭いんです、銀杏BOYZ。それでハマりましたね。

『BABY BABY』だけだったらまだハマってなかったかもしれないんですけど、きっかけとなったのはそれです。その多分、後輩の男の子の本気さ、本気でその子のが好きで一生懸命歌ってる感じに、結構感動して。

——そのきっかけじゃなかったら、ハマんなかったかもしれないですもんね。

 そうですね。今思うと確かに、すごいご縁かもしれない。そうなんです、女子サッカー部の手伝いになったのも……白河旭高校っていう白河の高校なんですけど、女子サッカー同校会があるんですけど人数が全然足りなくて。私、軽音部に最初入ったんですけど、人数的にうまくバンドに組み込まれなくて、辞めて、ちょっと放課後フラフラしてたとこで「サッカー蹴ってみない?」って感じで誘われた(笑)感じだったんです。

——そんなカジュアルな(笑)。

「ちょっと蹴ってかない?」みたいな(笑)「一杯引っ掛けてかない?」くらいのノリで、ちょっと体も動かしてみようかみたいな感じで、やって、そういう後輩ができて、カラオケ行くような仲になってっていう感じだったので、思い返すと結構すごいことかもしれないですね。そのまま軽音やってたら多分、銀杏と出会ってなかったと思うんですよね。

——イメージ、逆な感じしますよね。軽音部に行った方が出会えそうなもんですけど。

 確かに。確かに。軽音は軽音で、その時流行ってたELLEGARDENとかHYとかのコピーバンドがすごい流行ってて、木村カエラさんとか。それはそれでもちろん好きですし、でも銀杏のコピーっていうのがうちの高校ではなかったので……すごいですね、自分で今話してたら「そうか」と思って。あの男の子に感謝です。

——どこで何があるか分かんないですね。

 そうですね。感動してますめっちゃ。

辛さとか寂しさとかを曲にすることで表現してた

——ピアノの発表会があったり、軽音部ちょっと行ってみたりとかっていうのがあったと思うんですけど、それ以外に何か音楽を発表したり、披露したりする場っていうのはあったんですか?

 ピアノを習ってて、それがだいたい5歳くらいから……間違ってたらごめんなさい、から中学生くらいまでやったんですけど、それの年に1回の発表会、だけかもしれないです。
 高校でちょっとだけバンドをやってたんですよ。すぐクビになっちゃったんですけど……(笑)ちょっと、方向性の違いで。私はオリジナルをやりたかったんです、コピーももちろん楽しいですけど。みんなはコピーやりたいみたいな感じの、方向性の違いが。「明日から来なくていいよ」って……切なかったですね(笑)号泣しました。

——逆にでも、元々自分で音を取って(作曲)やってたんですもんね。

 そうです。ラジカセですけど、ピアノ一本でしたけど。専門学校に入るまではピアノで曲作りっていう感じです。

——特にどこかで発表する感じでもなく、作り貯めていってた感じで?

 その、例のクビになったバンドで、郡山の、今はなくなっちゃいましたけどFREEWAY JAMさんで、何回かライブはさせていただきました。あとは作って貯めて、が多かったですね。
 今でいうとボイスメモとか簡単に録れますけど、その時はラジカセ。今はもうないかな、さすがにあったらちょっと面白いな、音質とかすごいですけどね(笑)それがすごい楽しかったです。

 楽しかったというか、なんですかね、生活の一部だったというか。そうやって、自分の感情みたいなのを表現する。言葉があんま得意じゃないので、だから泣いたりとかすることでしか他人に自分の辛さとか寂しさとかを伝えられないような感じもあって、それを家に帰って曲にしたりすることで、多分発散じゃないですけど、表現してたのかなって。今思うとちょっとかっこいい言い方して(笑)多分そうだったんだろうなと思って。

——当たり前に最初からピアノがあって、当たり前に作ったり歌ったりということを続けてきたから、それがあるのかもしれないですね。

 そうですね、感謝です。本当に環境に。

——ちなみに専門学校は県内?

 東京に、2年間の専門学校に行ったんですけど。そこでシンガーソングライター科っていう新しくできたのがあって。それこそピークアクション(郡山PEAK ACTION)のジョンさんもそこ出身で。

——あ、ESP?

 そうです。ESPです。そうなんです。その繋がりもあって、ジョンさんとはお知り合いにもなったんです。最初mixiっていう……(笑)。

——いろんな懐かしいワードが(笑)。

 そうですね(笑)mixiとか、モバゲータウンとか、懐かしいですね。
 シンガーソングライター科っていうのはいろいろ学べるから、でも自分は弾き語りをするっていうのは全然未経験に等しかったというか。家でラジカセで録ってた時は、はっきり歌ったりとかじゃなくて鼻歌のせたりとか、そういうレベルだったので。本格的に学んでみようと思ってシンガーソングライターコースに入りましたね。

——結構ガラッと変わりました?

 変わりましたね。まず原理が全然違いますよね。ピアノだけで弾いてると、右手でメロディ弾いて、左手でコードっていう感じで弾くんですけど。弾き語りって右手コード、左手ベース音、で歌なので、そこから学んで。「シンガーソングライターの方々ってすごいな」って思いながら。
 いろんな授業があって。楽器自体がすごい好きだったんですけど、地元にドラムとかギターとかをできる環境が全然なかったので。ドラムに触る授業とかがあったりとか、ギターに触る授業があったりとか。
 あと作詞とか理論。理論は全然わからなかったんですけど(笑)そういうのを学びました。学べてないかもしれない(笑)。私ドラムすごい好きなんです。楽器の中で何気に私一番ドラムが好き。

——一番ですか(笑)。

 好きです。「得意」ではないんですけど。ドラムがあるとガラッと変わりますよね。

——ピアノ以外のいろんな楽器に触れる機会でもあったんですね。

 あとパソコンで曲を作り始めたのがその頃です。パソコンというか、あの頃なんていうんですか、ゲームボーイみたいなメカ(笑)今パソコンでLogicとかCubaseとかいろいろあるじゃないですか、DTMソフトが。あれがこうこういう、四角のちっちゃいもので全部打ち込みとかできるメカがあったんですね。それが専門学校で使ってたもので。それでまずドラムとか打ち込んだりとか始めて、割と感覚的に楽しくできてて。そういうのもやってみたいなと思って、そういうソフトを買ったりとかして、今に至ります。

——それまでとそれからだったら結構、表現の幅みたいなのも大きく変わりました?

 変わりましたね。あの授業とかがなければ多分、今宅録とかしてなかったかもしれないので、貴重な授業でした。ありがとうございました、先生たち。

自分みたいな人間に音楽をやらせたらどうなるんだろう?

——環境もだいぶ変わったと思いますけど。泉崎・白河から、東京。

 夜が明るくてびっくりしました(笑)。学校が高田馬場というところなんですけど、その近く、池袋とかの近くに住んでたんですけど、そこらへんって本当にキラキラ。夜中2時〜3時とかでも人歩いてるじゃないですか。泉崎村だったら通報されると思うんですよね(笑)職質されるんじゃないかなって思うから、全然違って。自分の中ですごい新しかったです。お店もたくさんありますし。

——環境の違いに苦労したとかっていうよりは、割と楽しめた?

 割と、そうですね。友達とかもすごい、みんな音楽好きな人たちなので、カラオケ行ったりとか……懐かしいな。
 でも、寂しくて。すっごいホームシックに……あれ、「アットホーム」じゃないですよね?「ホームシック」で合ってますよね(笑)ホームシックで、月1で帰ってました、泉崎村。多いときは月2とか。帰らないとやっぱり……ちょっと一旦、心を落ち着かせる。カエルの声とか聞かないと(笑)。

——カエルの声いいですよね(笑)。

 いいですね〜、もう最高なんですカエルの声。そう、私田舎出身だけど田舎が本当に大好きなんですよね。
 どっちもでも違った良さがあって、東京も本当に。東京から泉崎村に帰ってくると時間が止まったような(笑)感覚があるんですよね。

——結構その、音楽の道というか、「音楽のある将来」みたいなのを見据えて、進んだ感じだったんですか?

 あ、でも……高校の時にたまたまパンフレットを見て……割と勢い的なものもあって。すごい家族のことは大好きですし、ばあちゃんと離れたくなかったですけど、やっぱちょっと家を出たいっていう気持ちって……ありません?(笑)そうそう、自立までは行かないかもしれないですけど、それでとりあえず学んでみようって。

「自分みたいな人間に音楽をやらせたらどうなるんだろう?」っていうのが、自分で興味があって。どういう歌を書くのかなとか……ちゃんとその、一曲として完成させたことっていうのがなかったんですね。フレーズとかではよく録ったりとかしてても、自分みたいなそういう……ちょっと自分を下げるけど大丈夫ですか?(笑)自分みたいなダメ人間が(笑)歌ったりとかしたらどうなるのかなっていうのは、自分ですごい、どういう歌詞を書くのかな、どういうメロディーになるのかなっていうのは気になって、始めたっていうのは大きいです。

——なんか、自分を俯瞰するじゃないんですけど、自分の「そうなったら」っていうところに興味を抱けるっていうのはすごい、いいですね。

 結構飽きっぽかったりするんですけど、唯一音楽だけはやっぱり、興味を失わずに今まで生きてこれたんですよね。得意不得意とかって人間色々ありますけど……難しいですね、言葉にするの。特別なもの、自分にとっての、それが音楽だったら嬉しいなって思います。今もそうですけど。

——気持ちはよくわかります。

 ありがとうございます。

——専門学校が終わってからはどんなふうに過ごされたんですか?

 専門学校の2年目のときに組んだロックバンドがあって、それをちょっと頑張ってみようっていう感じもあったんですね、弾き語りとは別で。なので東京にこのまま住むんだろうな、みたいな感じに思ってたんですけど、震災があって。
 でもすぐは帰れなくて、バタバタでしたよね。親とかにすごい連絡……心配で。やばかったですね。気が気じゃなかったんですけど、電話しても親は心配かけないように「全然大丈夫だよこっちは」みたいなこと言うんですよ。本当はすごい大変な状況だったじゃないですか。「こっちは全然大丈夫だから」「そっちで頑張りな」みたいなことを言ってくれて…………泣いちゃいますね。

——でも頑張ってほしいって思いますよね。

 結構お父さんとか無口な方なんですけど、お父さんは「夢に向かって頑張れ」みたいな手紙送ってくれたりとかして、私に心配かけまいとしてたんですけど。ネットとかでわかるじゃないですか、大変な状況っていうのも。「帰ろう」と思って。
 そのバンドは辞めて、6月くらいかな、引っ越しとかもあって、でも部屋汚すぎてちょっと長引いたのもあって(笑)6月くらいに福島県に帰ってきました。


<次回>
帰郷、そしてシンガーソングライターへ。
*後編は11月8日公開予定

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