文章表現の世代と映像(印象)表現世代

話し言葉と書き言葉(文章)と文章表現の世代と映像(印象)表現世代

私の上の世代に戦後のベビー・ブーム世代で、60年代、70年代学生運動、日本の高度成長期、日本の高齢化時代の中心を担ってきた団塊の世代がある。

私が、学生時代には、この団塊の世代は、音楽でも学園闘争でも文化芸術活動でも、様々の活動を行い、横のつながりと連帯と連携が幅広く、常に前を歩いていた。

私は、写真を学生時代に始めたが、若いころ写真を見たり考えたりする中で、常に写真の評価、批評、意味づけを言葉で行ってきた。
これは、上の世代から、教わったことだった。

しかし、そこから、かれこれ、半世紀ほどの時間が立ち、いまのネット世界、スマホ世界においては、文章と映像、と言うより、まずは映像を簡単に自己の印象表現、気分、表現手段、伝達手段として使える環境、ツール、ネットの連絡網が存在する事になり、今の若い世代は、言葉より、映像中心、さらに動画中心で、言葉は、簡単なキャプション程度の説明にしか過ぎない。

私の育った世代は、写真も写真集といった紙の本で、文章も存分に載ったものが多くあり、写真の比重と文章表現の比重が、それぞれ重いものが多くあった。

それぞれの評価、価値は、言葉で表され、文章で骨格が形作られてきた。
しかし、現在は、まずは、映像(静止画、動画)が存在し、文章はキャプション程度の内容しかなく、文章が意味を持つことは少なく、映像で印象や気分に留まらず、思想さえ表現させるような時代となっている。

当然、あらわす、あらわせる内容が違ってくる。

上の世代から、手紙をもらい、この手紙の内容をみんなにも知らせてほしいと書かれていて、その重要性は理解し、認識するのだが、今の世代や時代に、これを伝える手段がない事に、改めて時代の変遷を感じてします。

手紙の内容をFBやブログやインスタやnote等に書き写すことは、至極簡単である。
しかし、それでは、ほとんどの人には伝わらない、そもそも、読む事などしないだろう。

こうした、表現の根幹である思想を伝える手法の変遷、変容、変化は、実は驚くほど、深いのではないかと、最近痛感するような気がする。

子の変遷のあいだには、越えがたい深い溝が、横たわっているように感じている。


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