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2020年飛騨旅(2)〜迷ったら、森へ行こう。

2020年7月4日。
私は飛騨古川の森の中で、シャワーのような雨に打たれながら歩いていた。

ぬかるんだ地面からは、湿度を含んだ土の香り。
その香りは若葉の芽吹く香りと混ざり合い、霧になって私を包む。
頭や肩を指先でタップするように、降り注ぐ雨粒。

歩みを進めれば、雨音に沢や滝の音が重なる。
一緒に歩く人たちは、ときどき慣れない山道に足を滑らせながら笑いあう。

そんな中で突然頭に浮かんだのは、高校生の頃のこと。

なんであんなに昔のことを、森の中で思い出したんだろう。


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1990年代。
私は高校生で、美大受験用のアトリエに毎日通っていた。
そんなに絵が上手だったわけではないけれど、グラフィックデザイナーになりたかった。
「大好きなミュージシャンのCDや書籍のデザインをしたい」
それが当時の夢だった。

アトリエでは、毎週月曜日にデザインの課題が出る。
一週間かけて仕上げた課題は、最後に全員の描いたものが壁に並べられて、それぞれ先生から評価を受ける。

教えてもらうのは、楽しい趣味の絵ではない。
受験に合格するためのテクニックを覚え、プロとしてデザインをしていく上での基礎を叩き込まれる場所が、アトリエだ。

先生方は私たちのデザインやデッサンを講評するとき、「高校生だから」という容赦はしなかった。
褒めてもらえないどころか、考えの甘い点を嫌と言うほど突っ込まれるので、涙目になることも多々あった。
いつも帰り道では落ち込みながら、クラスメイトと慰め合った。

「年齢なんて関係ない。プロになりたいなら、それ相応の覚悟を持て」

どの先生もそんな気持ちだったのではないかと、今ならわかる。


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ある月曜日のこと。
先生から出された「今週の課題」に対して、まるでデザインのイメージが浮かんでこなかった。
それが具体的にどんな課題だったか、今はもう思い出せないけれど。

毎週毎週、才能溢れる同級生の絵と並べられるたび、自分のデザイン力の無さを思い知らされた。
世の中にはきらめくような才能を持っている人が山ほどいて、所詮自分は凡人なのだという、変えようもない事実を突きつけられた。

どんなに頑張って作品を作っても、先生からはダメ出しの嵐が返ってくる。
「ちょっと絵が上手」だった自分のプライドは、すでに壊滅状態だ。

しかも、課題を出されても、全くアイデアが浮かばないとは……。

何だかいたたまれない気分になり、課題を考えることを諦めた私は、そっと教室を抜け出した。


教室の外に出たら、仲のいいクラスメイトがいた。
どうやら、彼女も私と同じ思いを抱いていたようだ。

「今回の課題、難しいよね」
「うん、全然思い浮かばないから、もうサボっちゃおうと思って」
「そもそも、こんな課題出す方が悪いよね〜!」

彼女と会話をしながら、ヒリヒリした気持ちが少し柔らかくなるのを感じた。持つべきは分かち合える友達だ。

…と思ったのもつかの間、教室のドアが開いた。
出てきたのは、担当の先生だった。明らかに顔が怒っている。

「こんなところで何してるんだ!早く席に戻りなさい」

「えー、でも先生、ちっともアイデアが出ないんですよー。今回の課題、難しいですよー」

ヘラヘラ笑いながらそう言った瞬間、先生の表情が鬼の形相に変わり、全身の力を振り絞ったような大声で怒鳴りつけられた。

「……馬鹿野郎!!」

高校生が、大人の男性に馬鹿野郎呼ばわりされて怖くないわけがない。
もしかして殴られるんじゃないかと、一瞬身構えた。

先生は、赤鬼みたいに顔を真っ赤にしながら、私たちに怒鳴り続けた。

「アイデアが出なかろうと、描けないなりに描くんだよ!
くだらんこと言ってないで、黙って席について手を動かせ!!!」

有無を言わせぬその言葉の勢いに、友達と私は無言で席に戻った。

その時無理やり提出した作品もこてんぱんに罵倒されて、やっぱり落ち込んだような記憶がある。


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なんとか美大の付属短大に入り、グラフィックデザイナーになって、気がついたら二十数年が経っていた。

「大好きなミュージシャンのCDや書籍のデザインをしたい」という夢は、10年目ぐらいで叶えることができた。


そして今も、自分の才能の無さと向き合う日々が続いている。


クライアントからの要望に対して、パッとアイデアが出てこないことは、今も頻繁にある。
でも引き受けた以上は、「アイデアが出せませんでした」なんて言うわけにはいかない。
期日までに形にして提案することが、商業デザイナーの仕事なのだから。


そんな時に思い出すのが、あの時の先生の言葉。


アイデアが出せなかろうと、描けないなりに描く。
出せないなりに、アウトプットする。


今ならわかる。
「できないなりにやる」の積み重ねは、「経験」になることが。

二十数年の間「できないなりにやる」を繰り返した結果、
「もともと才能がないのだから、粘って考えるしかない。あとは経験が支えてくれる」
と開き直れるようになった。

そしてデザインの才能はなくても、身体が丈夫であることは職業人としての才能だと気がついた。
(これについては生まれ持った部分も大きいと思うので、親に感謝せねば)


……でも、何故こんなことを、飛騨の森で思い出したんだろう。

疑問を抱えながら東京に戻り、しばらくしてから、はたと気がついた。


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アロマやハーブを使った植物療法では、植物と人間の身体のパーツを対応させるという考え方がある。

例えば、花は植物にとって目を惹きつける場所であり、受粉を行うパーツ。
だから花の精油(エッセンシャルオイル)は、美容や女性の体のサイクルが不安定な時期に使う…といったように。

その考え方でいうと、根は、土台を支えて栄養を取り入れるパーツ。
ぬかるんだ土から立ち上る植物の根の香りは、私自身の土台や原点を思い出させるには、きっと十分すぎる強さだったのだ。

そして、葉は光合成を行うパーツ。
新緑の頃のぐんぐん伸びる葉っぱを見ながら、「自分が若葉だった頃」を思い出したのも不思議ではなかったのかもしれない。


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私が植物だったら、すでに何らかの花をつけたり、実をつける時期だろう。

それなのに精神的には二十数年前とあまり大差なく、果たして自分に何か花が咲いているのか、これから実がなるのかも謎だ。

ただ、二十数年前と違うのは、自分の持ち時間が無限ではないと知っていること。

今、この一瞬はもう二度と巡ってこない。
2020年7月4日の飛騨古川の森が、もう二度と見られないように。

変えようもない過去のことや、まだ来てもいない未来をあれこれ考えている暇はない。


何ができるわけではないけれど、今を生きる。
これからも「できないなりにやる」を続ける。
ただそれだけだ。

たぶん植物も、そうやって今を生きているんじゃないだろうか。


もしも道に迷ったら、飛騨の森に行けばいい。
きっと私は、いつでも自分の原点に戻れるはずだ。


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今回企画していただいたイベントは、こちらでした。

今回、大雨の中でも安全を確保しながら社有林と朝霧の森に案内してくださり、飛騨の素晴らしさをたくさん教えてくださった「ヒダクマ」こと株式会社飛騨の森でクマは踊るの代表、松本剛さん。

滞在をサポートしてくださった、FabCafe Hidaのキュートなスタッフの皆さん。

森林のことや近自然森づくりの可能性をお話してくださった、「飛騨の遠山の金さん」こと、岐阜県庁森林整備課の中村幹広さん。

そしてこの森と出会うきっかけを作ってくださった、QUSUYAMA LLC.の吉水純子さん、旅に同行してくださったシーズの和田文緒さんに心から感謝いたします。

ヒダクマさんとは、これから森の活用について考えるイベントが行えたらと考えており、今回はその視察を兼ねた出張でした。

あの素敵な森を、ともに分かち合えるひとときが作れるように。
夏の終わりごろに向けて、企画イメージをふつふつと温めていきたいと思います。

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