見出し画像

③「経験不足でできない」

足りないものは「経験」か?
児童発達支援事業所では、その施設ごとの特色もあると思いますが、子どもが様々な能力やスキルを伸ばしていくための手助けを行います。前回の記事(「療育」での当たり前を疑って発達支援をアップデートする②「やればできる」の?)でも書きましたが、“できなかったことができる”ように変化を促すためには、それができなかった時にはどのような能力が不足していたか、できるようになるためにはどのような支援を提供すればよいのかということを考えます。私が勤務する事業所は、日常的な生活を送る中で発達を支援するというスタイル(?)を取っているため、食事、排泄、着替え等の日常生活動作、遊びやそれを通して行う同年代の仲間とのコミュニケーションの在り方等が支援のターゲットになります。例えば、食事の際にスプーンやフォークが思うように使えない、便器を使って排泄できない、支援者に着替えさせてもらうばかりで自分からは衣類の着脱を行わない、お絵かきの道具を目の前にしても手を伸ばそうとしない、支援者が読み聞かせる絵本に興味を示さない…といった“できない”ことは、“できる”ように支援していくことが期待されるわけです。その中で、「この子が〇〇できないのは経験不足のためである」という言葉が聞かれることがあります。しかし、経験がなかったからということが“できない”の理由なのでしょうか。

「経験」できなかった理由を考えてみる
能力があっても十分な環境がなかったために経験できなかった、そのために習熟することができなかった、ということは様々な状況であり得ることだと思います。先ほどの例で言えば、食事の際にスプーンやフォークが用意されない、クレヨンや絵の具に触れさせてもらったことがない、絵本を見たことがないといった環境で育ってきたような場合が想定されます。しかし、必ずしもそのような環境で育っているわけではないのに、“できない”状態が続いている子どもがいます。その状況を一見すると、スプーンを手に取る、絵の具に触れる、絵本を手に取るという経験をしていないため、「経験不足」であるとみなすことは間違っていないのかもしれません。ただし、その背景を考えてみると、経験するために必要な能力が十分に育っていない場合等もあるのではないでしょうか。スプーンを握るのに必要な手先の力が足りない、一度触ったら何かが手にまとわりついているような感覚が気持ち悪くそれ以来手を伸ばせない、といった理由が考えられる場合もあるかもしれないということです。

“できない”ことは経験できない
それでは、どうすれば“できなかったことができる”ように促すことができるのでしょうか。私ができれば実践したいと考えていることは、次のように子どもに関わっていくことです。それは、①今持っている能力を最大限に発揮してできることを繰り返し経験させながらその次の段階として期待されることが偶然に起きることを待つ、②偶然にも“できた”時にどんな要素がそれを導いたかを探ってその状況を再び整える、③そしてそのような偶然が起こる頻度を増やす、ということです。これは、身体的にも認知能力的にも成長の真っただ中にある子どもと接するからこそ思えることなのかもしれません。また、そのことは「無理にでも経験させているうちにできるようになる」ということも間違いではないと思わせてしまう原因になっているのかもしれません。しかし、“できない”ことは経験できないのです。

昨今、「教育虐待」という言葉が聞かれるようにもなりました。このことについても思うところがありますので、また別の機会にまとめてみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?