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旧姓で働くということ。それは、わたしのアイデンティティを構成する


川上未映子さん「深く、しっかり息をして」というエッセイー集の「わたしは2度、結婚している」という章を読んだので、わたし個人の思いを書いています。

この記事が書かれたのが2015年。
今はそれから8年が経過しており、事実婚や選択的夫婦別姓については、以前よりは浸透してきている概念だとも思っています。

わたしはいわゆるフェミニストではありません。(と思っています)
この文章を通じて、わたし個人の考えに同意してほしいわけでもありません。
ただ、夫婦間の苗字に関しては、別姓の選択肢をできるようにする、こんな当たり前のことができるような世の中になってほしいとも思っています。


夫婦間の呼称への違和感

夫婦間の呼称に関しては、昔から違和感を感じていました。
例えば、TVで嫁という言葉を聞くとぞわぞわした感覚に襲われました。(関西圏では妻を人前で嫁と呼ぶことが多い地域とも聞いたことがあるので、ある程度の地域性を持っている言葉なのかもしれません)
家内、手紙の 山〇太△ 内という表現も好きではありません。
義母に、わたしが「お嫁ちゃん」と外で呼ばれていたと知ったときは、少しショックだったことも記憶しています(ちなみに義理母との関係は良好であることは言っておきます)

これらが意図することは、所有感への抵抗なのかもしれないと、ふと思うのです。


旧姓がわたしのアイデンティティを構築する

戸籍上の姓をかえることは、そもそも面倒な手続きがたくさんあります。
マイナンバーや銀行口座、クレジットカードの等々。
個人としては何も変化がないのにも関わらず、やることが多すぎるんです。

一方で、仕事では旧姓を使用しています。
正直、旧姓で仕事をする手続きは、これまた面倒でした。
医師免許書の申請、保険医登録、大学院の申請などなど、思いの外やることが多かったのです。
でも、このめんどくさを除いたとしても、やる価値はありました。

それは、旧姓が「わたし」のアイデンティの一部を担っているから。
「わたし」が既婚者や母という属性から離れて、「個人」として社会に貢献している、つながっていると感じることができるから、だと思っています。
もちろん、旧姓である程度のキャリアを築いていたなど、さまざまな理由はあるでしょう。

姓だけで、そこまで自己を証明しているような感覚になるのか?と疑問の声もあるかもしれません。
母になると、いろいろな場面で「○○ちゃんママ」や「○○くんのお母さん」と呼ばれることが多くなります。これに違和感を感じない方もいる一方で、違和感を感じる方が一定数いるのも事実です。
これは、個としての「わたしという存在」が希薄になる、という理由だからだと思います。
でも、わたしは、保育園で○○ちゃん・〇〇くんのママと呼ばれていますが、違和感を感じていません。
それは、仕事上で「わたし」というアイデンティがあるからこそだと考えます。


仕事では夫を「○○(姓)くん」「○○(姓)先生」と呼ぶ

夫は同業で同じ病院で働いています。
職場では結婚後も他人と会話をする際は、結婚前と同様に夫を苗字で呼んでいます。(もちろん、職場内で二人で会話するときは名前で呼んでいます)
このことは、仕事とプライベートを切り離し、さらに、わたしという個人のアイデンティティを維持することに寄与するからです。
些細なことですが、これはやっぱりわたしが大切にしていることなのです。

あまりに他人行儀なので、わたしと夫が結婚していることを知らなかった人もいるくらいです。
そんな話を聞いて、笑ってしまいました。



夫婦で同じ苗字を名乗ることで、うれしさ・一体感を感じたりすることは悪いことはありませんし、その思いは共感できる部分もあります。
ただ、結婚して子供をもってと、ライフステージが変わる中で、わたしという個人が時間と共にグラデーションのように薄くなる、と感じることがあります。
だからこそ、一つでも自分のアイデンティティにつながる「何か」を持っていたいのかもしれません。

こんなわたしはきっと、孫ができたら、おばあちゃんと呼ばれたくない、そんな風に言っているのかな。笑

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