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私の話

はじめまして。マリアです。
初投稿のnoteを読んでくださってありがとうございます。
初なので、ぶっちゃけ何書くかイマイチ定まっておらず方向性の明確化がムズいんですが、今回はこのnoteの方針の説明と自己紹介を兼ねて、私の身の上を書いています。
とっても長いですが、読んでみて欲しいです。

はじめに

私は今、関西で21歳の大学生をしています。
私のnoteはそんな1学生が自立して行くまでの備忘録だと思ってください。

ただ私は明るくないので、暗い話が多くなると思います。それに私はとても未熟で、文章もきっと青臭いです。
でも未熟ながらに経験して考えたこと、乗り越えたことを共有することで、誰かが少しでもホッとしてくださることを願って、少しづつ書いて行こうと思います。

これまでの私

私は片親育ちです。15歳の時に母が癌で亡くなって、大学に行くまで父と暮らし、同じ敷地の別世帯に祖父母が暮らしていました。
母親が死んだことはもちろんショックでしたが、15の私なりに仕方の無いことだと割り切りました。でも、元々愛着障害気味でアダルトチルドレンだった父親は乗り越え切れず、鬱になった。

・父との関係

父親は高校生の私に毎日当たる日々。理由も分からず無視されたり、突然怒鳴られたり、暴言と恨み節でいっぱいのLINEが毎日届きました。

父いわく、私は母親とは似ても似つかない、優しさの欠けらも無い最低の人間で、母親の娘では無いそうで。母親が死んだのも私のせいだそうです。そんなことを言われ続ける日々でした。

私にとって父親にかける「ただいま」の一言は、父の機嫌を探るための言葉でしかありませんでした。家に帰る度「今日は機嫌が悪くないか。何も言われないか。」とばかり考えて、自室に戻っても父親の立てる物音に聞き耳を澄まし機嫌を伺う。そんな日々が3年間続きました。

・板挟み

それに父と祖父母は大変仲が悪く、とても血の繋がった家族とは思えませんでした。母が亡くなったことで余計に関係は悪化し、そんな両者に私は常に板挟みでした。
祖父母は母親を亡くした私の生活面を支えてくれましたが、祖母は少し過干渉で厳しく私は祖母とも気が合いませんでした。

当時は本当に辛かった。私は毎晩ベッドで泣いていました。抱き枕が変形してしまうぐらい強く抱いて、父の気を立てないように静かに泣き続けていました。
父性を求め未成年でありながら歳上の男性とばかり付き合って、親に隠れて危ないことばかりするようになりました。その時は私も愛着障害のようなものを抱えていたと思います。

・進学といま

そうして逃げるように遠方の大学に進学しました。
それでももう実家を出たのに、大きな物音を聞くと動悸がしたり、タスクに全く集中出来ず文章も頭に入ってこないような状況が1年近く続きました。
思っていたよりギリギリだったんだなと思い、情けないのと悔しいのとでまだ涙が止まりませんでした。

だけど今、大学で何名かの素晴らしい人に出会い、4年ほどの時間を経て、ようやく元の自分を取り戻せてきました。人の機嫌を伺う癖も無くなり、先回して謝るようなこともしなくなりました。

このnoteは、そんな未熟な私が自立していくまでの備忘録にしたい。そう思って始めました。

さいごに

当時は口に出したり書き出したりすることすら辛かった。でもこうすることで、少し大人になった自分が、当時の自分を抱きしめてあげられている気がするんです。

長くなりましたが、私が書く文章で私と誰かの心が少しでも軽くなれば嬉しいです。

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