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写真を嫌がる理由

初めて携帯を持つことができたのは、中学3年生の時でした。携帯って聞くとiPhoneやAndroidを思い浮かべる人がほとんどじゃないですか?当時の僕が持っていたのはいわゆるキッズ携帯です。少しいい家庭の小学生が防犯ブザーとして持っていたあれ。十字キーと4つのボタンしかない、本当に純粋な連絡手段としての携帯を、夕方の塾終わりにだけ親に使わせてもらっていました。

高校に入学するときに初めてAndroidを持つことができました。ゲームも入れてない、月1ギガだから電車通学の間に動画なんて見ない。ダウンロードした星野源や流行りの曲を飽きるまで聞き続ける日々。結局、部活がしんどすぎて途中で寝ちゃうのがオチになってしまうけれど。スクリーンタイムも設定されてたから、そこらの学生よりは携帯との関係性が薄い人間だったと思います。

部活の同期に、持ってる携帯のほうが本体だろって思うくらいずっと片手に携帯を持っている奴がいて、そいつはいついかなる時でも僕や周りの同期の写真を撮っていました。部活終わりの帰り道、遠征中のバスの中、たまーに行くjoyfull。いっつも誰かを写真に収めていて、切り取った一瞬の世界を大事そうに見つめていて。「勝手に撮んな!肖像権あるんだわ!」と言ってレンズに手をかざしていたけど、半分はマジで撮られるのが嫌でした。なんでそんなにラーメンの写真撮るんだよって、ちょっとだけムカついて。

だから僕の高校時代の思い出の写真のほとんどは、誰かによって撮られた写真しかありません。自分で撮ったのは10枚もない。道端で助けてあげたセミに生気を奪われかけている友達の写真とか、種子島宇宙センターの博物館の宇宙ステーションのセットみたいなところで無重力みたいな写真が撮れますよと知って空中に浮いてるようなポーズをとる副顧問の写真とか。後々にLINEのグループで送られてきたよさそうな写真を選んで保存したものが、僕の携帯に残っています。

写真が嫌いというよりは、皆で楽しくやってるときにいきなりデジタル機器が入ってくるのが嫌だったのかもしれないです。写真撮る余裕あるんかいって思ってたし、なんか自分だけ一歩引いてこの状況を捉えていますよ、みたいな感じがして。画角にとらわれてるのお前だろ、勝手にSNSにあげんなとも思っていたし。お前の思い出に勝手に俺を消費するなって感じでした。まあ、ずっと自撮りしてる人よりかはマシかもしれないけど。

本当に写真を撮ることが好きで、カメラに真剣に向き合っている人ならまだ素敵だと思います。思い出に消費しようだとか、後でSNSにあげるんだとかカメラが誕生したときになかった副産物の価値観で撮ってるのが嫌いです。あと写真を撮られるのを嫌がっているさまを面白いと思って撮る人も。まじで自分勝手すぎて、腹が立ちました。価値観の違いって言われたらそれまでだけどね。

被写体としての自信がないから、というのも理由の一つかもしれません。じゃあ自信あれば撮られていいのか?と思う人もいると思います。自信があっても撮られたくないです。だって恥ずかしいでしょ、そこらの女子じゃないんだからさ。今でも写真を撮られることには抵抗があるし、撮らなくて済むなら撮られたくないです。そんなに見返さないので。勝手に写真撮ったり、SNSに投稿するような人はどこか相手への思いやりが足りない気がします。足りない人、世界に増えすぎ。カメラが拳銃に見える時あるもん本当に。

でもやっぱり3%ぐらい、撮っててくれてありがとうと最近思えるようになりました。いくら記憶に残ってると思ってても、細部のリアリティが抜け落ちていることもあって。日記とは違うから、一瞬ですべて思い出せる。だから感謝の気持ちもある。でもほとんど見返さないから。一年に一回、あるかないかだから。そんなに過去って皆見返すものなのかな。

どこか遠くへ行っても基本は写真を撮らないようにしてます。ちゃんと頭の中に思い出として残るように。木々や花の香りを楽しめるように。ラーメンだって味や触感を覚えていたいから。もしかしたら忘れてしまうのかもしれない、そんな緊張感のある旅行のほうが僕にとっては楽しくて記憶に残ると思うので。なんでも写真として収めればいいわけじゃない、五感を信じてデジタルなしで過ごすのもありだなって思います。

忘れてしまったならそれまでのものだったんじゃないかな。見返さないと覚えていないってそれはそれで寂しい気がします。忘れたっていいんじゃない。楽しいことは結構覚えている。結局、より心が動かされたものは死なない限り忘れないと思うよ。

写真に残っているならもうそれはそれでいいし、今の僕を知らない人は記憶の中の僕を思い出してください。記憶の中の僕があなたにとっての僕なので、記憶の中でめいいっぱい可愛がってあげてください。僕はその時の今を精一杯楽しみたいから、今度会うときはレンズ越しじゃなくてその目で僕を見ててくれたら嬉しいです。記憶の中で思い出すことができる限り、僕は生き続けられるのかもしれない。

でもいつかは本当に全てを忘れてしまうかもしれない。蛭子能収さんもあんなに一緒にバスで旅した太川陽介さんを忘れてしまっていたのはかなり衝撃でした。忘れたくないことを忘れてしまうのはすごく怖い。だからこれからは徐々に写真として残していこうと思います。自分だけの思い出としてこれからも反芻していけるように。

意外と写真を撮ることも悪くないな。でも撮られるとなるとやっぱり緊張してしまいます。だから極力は僕を被写体にはしてほしくないです。人間の記憶は約115万キロ。生きていられるのは結局今だけしかないんだからさ。せっかくだし、その目で一瞬を焼き付けてほしいんで。

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