「成長という病」

成長とは「外の基準を内在化させることだと思っています。」

成長したい。という気持ちは人の普遍的な欲望なのか。「成長欲求」がある人からすれば誰もが持つ欲求だと思うのではないだろうか。しかし、そうではない。

成長は,文明が作り上げた幻ともいえる。資本主義では利益を出すことを求められる。組織の成長と資本主義の相性は最高だ。ここで,当然のように組織に所属している個人の成長も求められると考える。それゆえ,これにとらわれていない人もいる。私の近しい人もそうだ。「成長くそくらえ」そんな風に思っているようだ。

ただその考えもすごい。斉藤幸平さんの「脱資本論」という本で,脱成長の考えがあった。山口周さんも成長をし続けることについて疑問視していた。現社会は成長の「高原状態」に見えるようだ。

成長は必ずしも「善い」ことではないかもしれない。全体的な視点で見るとそうも思える。しかし,個人レベルで見れば能力を上昇させずにはいられないと思うジレンマがある。

「足が速くなる」「英検1級を取得する」「新規事業立ち上げを経験する」。成長といえども成長の仕方は様々で人によって微妙に成長のニュアンスが違うのではないかと思う。

そんなことを思いながら「成長とは外の基準を内在化することだと思っている」という考え方に触れた時,思わずその考えを内在化しようかと考えたくらいの衝撃を受けた。

例えば「感情を表にすぐに出さなくなった」ということを「大人になったなぁ」と認識する人がいる。「成長=大人になる」ではないことは当然だが,同じようなニュアンスでこの言葉を用いているケースも多々あるだろう。これは「感情を表に出さないということが成長」という基準を受け入れた結果である。当然,感情を表に出さないことを普遍的善として認識して生まれてきたわけではないからだ。

あらゆる情報がSNS,テレビ,会話,書籍などに溢れている現在。価値観も同様に溢れている。全てが善と思って取り入れようとしてしまえばピクリとも動けなくなるだろう。「これは善い」ということをそれまでの経験から判断して生活に取り入れていく。

そうして自分の行動,思考が変容したことを振り返ったときに「成長したなぁ」と実感することがある。他人はあなたを見て「何も変わらない。」「お前は成長すべき。」と声をかけてくることもあるだろう。このような客観的評価に踊らされるべきではないと思う。むしろ「この人の成長の判断軸はどこにあるのだろうか」と探ってみると良い。その判断軸が自分にとって善く見えたらそこに向かって成長していくといいのではないか?

成長はあくまで主観で良い。そもそも,するもしないも自由であり,成長の仕方も自由だ。であるから「自分の苦手な◎◎を克服することこそが成長だ」という視野狭窄に陥るべきではない。

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