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武道や手技療法の探求に学問としてのアプローチが必要である理由②

前回の記事の続きになります。
前回の記事はこちら👇

前回は、私が武道や手技療法を探求する上で学問の枠組みを利用することの理由として、時代を超えた普遍的な伝承のために、論理、学問という枠組みが必要になると説明しました。

この前回の内容の続きと、手技療法も武道と同じように考えられる理由を、この記事で説明しています。


武道という文化を昔のまま継承するべき理由

前回の記事に書いたように、武道とは昔の特殊な社会環境の中だからこそ生まれたものである、といえます。その中身は、まとめてしまえば①非常に精密で合理的な技・動きという身体的なもの②不動心のような精神的なもの③その精神性の高さから生まれた様々な文化、という大きく3つがあるのではないかと思います。

これらは、特殊な社会環境があったからこそ生まれたもので、一度失われればそれを再現することは困難になるでしょう。

そのため、やはり極められた文化は、その質を保つ努力をしながら後世のためにも残していくべきです。

身体的にも、精神的にも、ある境地というものにたどり着いた人たちがいて、その境地に至る道(方法)が武道の型や鍛練法、コツなどの形で伝承されています。それを伝えていくことで「人間はそんな境地にいたることができるのだ」という可能性を残すことができます。

ある時代に、人間の可能性をあるところまで追求した、その結果として残っている文化というものは、すべて残して継承していくべきだと思います。それが人間の多様な可能性を示してくれます。過去の人が残した可能性に触れることで、人は自分の可能性に希望を持つことができ、また時代が変わっても、その成果を別の形で役立てることができることでしょう。

たとえ刀で戦うことはなくても、その鍛練の過程で得た深い感覚、精細な身体操作、日常では得られない深い認識などは、文化として継承していく価値があります。

「現代人の生活に、不動心のような精神的な境地は必要ないだろう。それは物好きなマニアックな人たちが趣味でやればいいのではないか。」という考えもありそうです。

しかし、やはり私は現代人にも役立つと思います。なぜなら、たとえば不動心とは一種の心の働かせ方の境地であり、それはつまり人間の頭脳の働き(認識)の活動の一つであり、あらゆる人間の行動は認識によるものだからです。

つまり、武道を通じた鍛練によって身体感覚が鍛えられ、精神的に成長・成熟することができれば、その人のアタマの働き(認識)は全般的にレベルアップしています。そのレベルアップしたアタマで行うあらゆる行為は、それ以前とは違ったものになるはずです。

現実には「武道でメンタルはタフになったが、人間的に成熟しているとはいえない人」「武道をずっとやっていたが、アタマの働きがよくなったわけでも、感性が鋭くなったわけではない人」はたくさんいるでしょう。しかし、それは単に武道を通じた鍛練のやり方が十分ではなかっただけです。

しっかりと武道の本質を押さえた、つまり論理的に体系化された方法で、目的意識をもって稽古を続けていけば、誰でも認識(精神、アタマの働き、感性、などなど)は成長し、またその成長した認識をその人なりの形で社会生活に役立てることは可能なはずです。

実際、私は兵法二天一流玄信会の修業・修行によって、そのような実感を得ています。

もちろん、私たち現代人が宮本武蔵のような剣豪と同じレベルに至るのは難しいでしょう。どれだけ真剣勝負を念頭においた稽古をしても、本当の真剣勝負を数十回と行ったような宮本武蔵の体験とは、まったく質が違います。しかしそれでも、その境地を目指した探求することには、前述のとおりの価値があると考えています。

そして、時代が変わってしまった、そしてこれからも変わっていく中で、その当時の武道という文化を継承し、境地に至る道を探求していくために、論理化することが必要なのです。

論理化することで積み重ねによる発展が可能になる

昔の人が、当時の社会状況があったからこそ至れた境地というものに、現代人が近づくことはより困難です。生きる環境がまったく違うのですから。さらにいえば、時代が経過するほど難しさは増していくでしょう。

そのため、武道を学問として論理化する試みが重要になるのです。

武道の世界の稽古法、鍛錬法、コツのようなものは、口伝や書物、型などの形で伝承されています。しかし、それは当時の人の当時の人なりの表現であるため、現代人が正しく理解することは困難です。

まず、それを読み解くために論理、学問という枠組みが必要になります。
それは「伝書を読むために歴史学的なアプローチを採用する」という意味に限りません。それはそれで大事でしょうが、論理的に取り組むことが大事です。

また、古の武道の文化を探求し、そこで得た成果を後世に正しく伝えるために、やはり論理、学問の手法が必要になります。なぜなら、論理的な表現はもっとも時代の変化に強い表現である、と考えられるからです。

現代人が、二千年前のギリシア哲学を読むことができるのは(難しいですが)、それが論理的な表現であるからです。論理的に問いを立て、それに論理的に答えているため、まったく異なる時代、社会の人が書いた文章であっても、理解することができます。

時代が変化しても、論理的に表現することで、現代人が探求して得た成果を後世に正確に伝えていくことができます。

さらに、論理化することで積み重ねることができます。

たとえば、私がどれだけ努力をして卓越した武技を身に着けたり、高い精神的な境地に至ることができたとしても、その技も精神も私の死とともに消失します。

しかし、それを論理化して表現しておけば、後世のだれかがそれを理解し、その上にさらに実践を積み重ねることで、より発展したレベルに至れる可能性があります。また、その時代にあった稽古法などを編み出す、つまり別の形に応用することもできるでしょう。

論理化することで正しく伝えることができ、その結果、その上に積み重ねてさらに発展させることができる。二天一流であれば、いわば「二天一流学」とでもいえるものを、個人の一生を超えて、世代を超えて発展させていくことができる。それができるために、論理化、そして学問化ということが重要になるのです。

敷衍して考えると、これはあらゆる文化遺産で必要なアプローチであることがわかると思います。ある境地に至ったもの、その成果といえるようなあらゆる文化は、このような取り組みによって学問とし、後世に伝えていく意義が大きいと考えています。

古武道についていえば、伝承のために政府が大きなサポートをしてくれる、といったことは期待できません。そのため、継承者の個々人の努力に任されている状況です。したがって、個々人が短い一生の中で、正しく継承活動をしていくために、学問の力を借りることが大事なのです。

整体・手技療法も学問化が必要(であろう)

ここまで、武道を学問として取り組む必要性について、私なりの考えを述べました。

そして、あらゆる文化遺産はこのようなアプローチが必要であると書きました。これは、私が現在本業としている整体・手技療法の世界でも同様ではないかと思います。

手技療法は現在の西洋医学と異なり、自らの体のみを用いて施術を行うものです。

当然「病気を治す」といったことはできませんが、施術家が自らの手を用いて体表からアプローチすることで、調子がよくなったり、元気になったり、関節、筋肉など運動器の不調が改善されたりするものです。

しかし、手技のみで施術するということは、施術家の技能によって施術の質に大きな差が出るということです。また、どんなにすごい達人がいても、その達人が亡くなれば技は失われてしまいます。このような点では、武道と同じく論理、学問の力を借りてしっかり技を継承可能な形にし、再現可能なものにし、世代を超えて技を発展させられるようにしていく必要があると考えます。

そのような試みはすでに多くの先人の先生方によって行われているのだろうと思いますが、私もここまで説明してきたような立場から技を学び、発展させていくことができればと思っています。

このようにとらえて施術も武道も実践を重ねることで、遠回りでも着実に上達していくことも可能だと考えています。

ただし、ここまで説明してきた学問としてのアプローチは、単に解剖生理学や運動学などの個別科学の成果を利用するという意味ではありません。

武道も手技療法も、そのほかどのような対象のことでも、学問として構築するには一般性から押さえること、論理的に大枠から築いていくことが必要です。その過程で個別科学(解剖生理学など)の研究成果を用いることはあっても、その分野で明らかにされた理論などをそのまま援用することは誤りのもとです。

したがって、私の場合は、哲学の世界を中心に発展した弁証法、認識論、論理学という枠組みを用いてまずは大きくとらえ、個別具体的な問題にあたる際に、その都度個別科学の成果を用いていく、というアプローチをとることになると思います。

とはいえ、私は学者ではないため、それほど細かく個別科学を使う必要もないのだろうとは思います。哲学的枠組みのみでも、論理的に大きな方向性が明らかにできれば、その先は自らの実践によって答えを出していける気がしています。

大幅なショートカットができるわけではない

前回と今回の2記事で、私の武道と手技療法におけるアプローチの方法を説明しました。

ここでの説明は、あくまで私が対象(武道、手技療法)をどのようにとらえ、どのように実践していくかという話です。このような論理的な方針を持っておくことは、武道でも施術でも大きな方針(地図)を持ち続けられる、というメリットがあります。つまり、未知の領域を勉強していく上でも大きく間違う可能性を減らせます。いろいろ手を出したり、まったく間違ったことをやってしまう、ということは避けられます。

一方で、一発逆転の近道になることもありません。そもそも、武道も施術も時間をかけなければ実力を養成することはできず、大幅にショートカットできるような上達の近道はないものだと私は考えています。
ただ、間違いのない努力を重ねることができる、というものです。

そのため、実際の武道の練習や施術の実践の中身が、大きく変わるわけではありませんが、私はこの「大きな方針を把持して実践し続ける」ということが何より大事だと思っています。

以上、2記事にわたって私が実践する武道や整体と学問的な取り組みという背景について書きました。武道、整体に限らず、何らかの対象を同じような方法でアプローチしようと考えている方の参考になれば幸いです。

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