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自分なりのストレスコーピング

筆者は最近自分のストレスコーピングの活路を見出したなと思う。

ストレスコーピングなんて、普段考えるものではない。もちろん、自分の知らないうちにコーピングしている場合もあるしその逆でストレスを抱えたまま崩れていく人も見てきている。

自分なりのストレスコーピングは何か。それは「誰かと話す」事やと気づいた。思い返してみれば、今まで誰か話せる相手がいて、別に悩みの話とかをするわけではなく、その場所の雰囲気とパッと出てきた話題でその「時」を楽しむことで、ある程度のストレスコーピングになっていた。友達と食べるお昼ごはんや飲み会、ちょっとしたお茶でもいい。誰かと「話す」事によってこの心のうちのもやもやを解消してた。その後、MBTI診断を受けESFPであることを知った。E(外交的)、つまり人と話すことによって自分の生きる糧、エネルギーにするのだ。これには心底納得してしまった。これとは対照的にI(内向的)の人が存在するが、最初の「E」か「I」は診断を受けて反転することは無いそうだ。

今までの話し相手は皆、卒業して散り散りになってしまって、昔は嫌でも毎週のように顔を合わせていた人も、もう4、5年会ってなかったりする。かといって、大人になってから自分を一つの「個」として理解してくれる人と新しく人間関係を築くことは少なからず時間と気力を伴う行為である。

最近カウンセリングを始めた。精神的な拠り所を求めているわけではなく、「己」とどう向き合うか、今の自分は少なからず何かしらの偏見を持ち、それをどう中和するか。その中の議題の一つとして「大人になってからのお友達作り」をメインに、長期的な目標は服用している睡眠導入剤や抗不安剤などの長期服用している薬物を断つこと。今はこのコーピングがどうしてもできないため、抗不安剤に頼ってしまっているが、服用にはリスクが伴う。

少し脱線してしまったが、御存知の通り筆者は「友達」と呼べる人は両手で数えれるぐらいしかいない。でも、両手もいれば幸せな方だと思う。浅く広く関わるより狭く深く今まで関わってきたし、ある程度「友達」と呼べる皆には喜怒哀楽を見せたり誤っている部分を正してくれる素晴らしい友人に囲まれている。だからこそ、表面的な、上っ面の友達は友達とは呼べないし、どうしても「大人」からの友達作りはすべて損得が絡んでいるようでならない。

筆者のSNSフィードには社会人になってからの人脈を広げていることを自慢気に更新している(これは筆者の受け取り方の問題)人を見てきたが、その人曰く「頼れる友人がいる」と述べるとともに、私生活について茶々を入れるなとも述べていた。受け取り側の視点からすると、仕事内外のその「友達」との人脈の豊富さをわざわざその人達をタグ付けしてまでSNSで「魅せる」必要はあるのだろうか。もし筆者がタグ付けされる側であれば、せめて断りを入れてほしいし、なんならその場での会話や雰囲気を当事者ではない人間に共有したいとは思わない。これも深く狭く関わるからこそ、彼らとの「今」を大事にしたい。

はたして損得勘定が働いている友情関係における人を「友達」と呼べるのだろうか。まず疑うべきは「自分は利用されているのではないだろうか?」ということで、自分が友達だと思っていても、相手はそう思っているだろうか?典型的なケースは突然連絡をしてくる人たちだ。彼らを責めるわけではない、でも彼らに自分(筆者)「有益」であるからこそ連絡してきているケースがマジョリティであり、その人達を「友達」とするにはいくらなんでも慈悲深いか鈍感すぎるのではないだろうか。

この人間関係というのは非常に厄介だ。三島由紀夫は東大全共闘に対して、他者の存在とは何なのかと問われた時にこのようなことを言っている。

私の大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけれども、一番ワイセツなものは何かというと、一番ワイセツなものは縛られた女の肉体だと言っているのです。
サルトルが『存在と無』の中で自と他の関係を非常に分析しておりますけれども、エロティシズムは他者に対してしか発動しないですね。
今暴力の話が出ましたが、暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。
他者に対してしか発現しないのが本来のエロティシズムの姿です。
ところがその他者というものは意思を持った主体である。
これはエロティシズムにとっては非常にじゃまものになる。
ですから、とにかく意思を持った主体を愛するという形では、男女平等というのは一つの矛盾でありまして、お互いの意思によって愛するというのは本当の愛のエロティシズムの形じゃない。
相手が意思を封鎖されている。
相手が主体的な動作を起せない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに訴えるのだ。
これが人間が人間に対して持っている(注─性的)関係の根源的なものじゃないかと思います。

三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実(抜粋)

他者に主体性があることによって人間関係、すなわち「自分」と「他人」という関係は必然的に複雑になってくる。自我があれば人間は主体性を伴う。前述で触れたSNSに一定数存在する「人脈自慢さん」は他者に主権の及ばない自分のSNSのストーリーを投稿することで相手の主体性を奪う。彼・彼女たちは「縛られた女の肉体」ではないだろうか。

また、筆者が「浅く広く」の関わりを持つことを避けるのは単に「親密さ」「共感さ」といったある程度の関係性を持てば構築できる事象を切り捨てるという行為が許容できないからである。また、個人的に「浅い」関係はいつでも「切れる」という利便性があるが、それに投じる時間を考えると無駄に思える。これは認知の歪みなのかもしれないが、時間という有限のものを、今後関係が切れるであろう人間に投じるのは無駄だと思う。

一方これが「会社」という組織に焦点を当てるなら別だとも思う。いろいろな経歴を持つ人を知ることで様々な価値観や考え方に触れることができる。プライドではないが、同じ組織で働くひとは極めて賢明で、いつも参考になるからだ。Snoop DoggはこれをClosing The Gapという

能力や才能、タレントを秘めている自分を高みに居るとする、そうすると低い位置に居る相棒・友達に合わせる必要が無い。彼らが高みに登って、自分についていくしか無い。至極当然だ。常に謙虚で低姿勢で居るだけでは全ては変わらない。ましてや自分が高い位置にいるという錯覚や幻覚を生んではならない。いわば、「お仕事でお世話になってるXXXさん」は友達ではなくライバルであり、「友達」の定義からかけ離れたものになる。常に野蛮で意欲的であることが筆者にとっては生きやすいのだと思う。

結局の所、「友達」の定義や位置づけについて深く知ることはまだまだ人生経験が必要そうだ。ただ、少なからず言えるのは自分の中で「浅く広く」の人間関係は電化製品の取扱説明書のように薄く、「狭く深く」は広辞苑や聖書のような厚みを持ったものであるということ。やはり後者の関係を持てるような人間に出会うまでの道のりは長い。

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