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「記憶」と「記録」

皆様、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

諸般の事情で私のnote更新がやや遅れてしまいました。現段階では詳しくお話することはできませんが、この数ヶ月の間に感じたことをまたここに記そうと思います。

年の瀬の成田空港第1ターミナル国際線到着ロビー。外気は肺を指すような冷たい空気とは対象的にメガネが曇ってしまうほどの温かい建物の中。良質な雪を求めて欧州から日本に入国される方、お隣の大陸から日本の国土を踏む若者。後者は必ずスマホを手に取り、対象者が入国ゲートから出てくるその一部始終をスマホで記録しているケースが散見されました。

先日、情報過多社会において、人間の脳の発達が遅れる(特に幼少期からスマホやタブレットを使用している子供)という研究結果があるというお話を耳にしました。確かに、現代は様々な情報が洪水のように手のひらから溢れかえってしまうのは皆さん経験はお有りだと思います。それが好きな人、そうでない人。様々な人がいらっしゃると思います。ただ、筆者は「記録」より「記憶」を大事にしていきたいと思っています。

某SNSアプリではストーリーという機能があります。写真もしくは数秒のビデオをフォロワーに共有するものですが、みなさんもよく見る乾杯のストーリーや「キラキラ」したお店で飲食したコース料理の一品ずつを写真にとってあげたり・・・少なからず筆者の世代は嫌というほど見かけることが多くなりました。

写真やビデオを記録して思い返しながら見ることをする人もいるかも知れませんが、結局iCloudのストレージや端末のストレージを圧迫しているだけなのかもしれない。今みなさんのカメラロールやアルバムの中を見て「これってなんで撮ったんやっけ?」って思う写真や動画が山程見つかってくると思います。でも、それに関連した「記憶」が全く思い出せない。そういういった経験はありますでしょうか。

筆者はありました。「これってその場の勢いで撮ったけどその後何したっけな・・・」と認知症のような気持ち悪さを感じてしまいました。あまりにも画面上でどういう構図で撮れば一番キレイに映るのかにこだわりすぎた結果、その産物とそれ前後の記憶がないことはよくあるのではないでしょうか。

例えば、3年ぶりに会う家族にサプライズで訪問したときにスマホ片手に登場するとしましょう。ハプニングもない普遍的な、いわば撮れ高0の動画は一体誰得なんでしょうか。

コンサートやライブでも続々と撮影可能なイベントが増えてきていると思います。けれど、あなたは本当に彼らのショーを「見る」ためにチケットを払ってますか?撮影のために入るのであれば、あなたはなんのためにライブハウスへ足を運ぶんですか?

自分の好きなアーティストは「ショー」をするためにステージに立っているわけで、我らに撮影されるために披露しているわけではないのです。人生のその一節一節を「記録」として残したとしても、「思い出」にはなると思いますが「記憶」にはならないと思っています。百歩譲って、あなたは「撮影者」としての「記憶」が残るので、実際そこで起こった五感で感じることはできないでしょう。撮影に夢中なのだから。

ですから、友人の大事な結婚式、同窓会、邂逅する旧友とのイベントはその目に焼き付けて「記憶」するほうが鮮明にその雰囲気やその当時の気持ちをすぐ思い出せるのではないでしょうか。どうせ撮ったところで見返すこともないでしょう。時折見返すという人がいるのならば、ぜひ反論をぶつけてほしい。

どうか、宴会や楽しいイベントに参加される際は記録を優先するより五感で感じることにフォーカスしてみてください。ビデオ出とったものを見返したりするより、その場の臨場感、雰囲気、盛り上がりを鮮明に思い出すことができます。もしくは、あなたのパートナーとの時間、相手の撮影に没頭するより、「今」その時を大事にするよう意識して見てはいかがでしょうか。

淡く辛い記憶や楽しかった記憶は意外と鮮明に脳の引き出しに保管されているので。

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