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RPG人生論

 1.はじめに

皆さんはRPGというものをしたことがあるだろうか。

ロールプレイングゲーム(略称:RPG)とは、参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームである。(引用Wikipedia)

その代表例と言えば株式会社ポケモン(元任天堂)の「ポケットモンスターシリーズ」(以下ポケモン)やスクエアエニックスの「ドラゴンクエストシリーズ」(以下ドラクエ)や「ファイナルファンタジーシリーズ」が挙げられる。

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↑「ポケモン」8作目の最新作「ポケットモンスターソード・シールド」

こういったゲームは往々にして小さいレベルから始まる。敵を倒すと手に入る経験値は敵の強さによって上下し、一定の経験値がたまるとレベルアップして、能力パラメータが上昇する。これを繰り返しながら冒険を行う。キャラクターによって上がりやすいパラメータ、上がりにくいパラメータが決まっていることも多く、プレイヤー各々好きなキャラクターを選択してプレイする。友達とのバトルにこだわったりすると、ある程度優遇されたキャラクターから選ぶこととなるのだが、ゲームのストーリーでは、どのようなキャラクターを選び育ててもクリアできるようになっていることがほとんどであり、その自由さが私にとってはRPGの楽しさである。

レベルアップをした際には技やスキルといったアクションを習得することができる。戦闘では、このアクションをプレイヤーが選択して戦闘を行う、ターン制バトルがとられることも多い。ターン制バトルとは、あるパラメータによって行動の順番を決め、その順にしたがってコマンドを選択し、行うバトルのことである。

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↑「ドラクエ」において炎系の呪文(ドラクエ的技の呼称)のメラ系上位呪文「メラゾーマ」

また、「ポケモン」には経験値とは別に「努力値」と呼ばれる値があるとされている。
(努力値はプレイヤー画面には現れず内部的パラメータ)
(他のタイトルにこういった仕様があるのかは私は知らりません。)
努力値は敵を倒したときに上昇しやすいパラメータが決まっており、1レベル上がる過程で倒した敵に応じてパラメータの上昇具合が異なるのである。

努力値に関する補足
(読み飛ばし可)
例えば1レベル上昇するごとに全パラメータが1ずつ上昇するキャラクターであるとする。
このキャラがAという「攻撃」の努力値を得られる敵を10体倒し、レベルアップしたとすると、このキャラは全パラメータが+1されるときに、「攻撃」のみ+3されるという変化が起こる。
このキャラがAを5体,Bという「素早さ」の努力値が得られる敵を5体倒し、レベルアップしたとすると、このキャラは「攻撃」と「素早さ」は+2される変化が起こるというものである。

このような仕様のお陰でポケモンでは同じポケモンを使おうとも、かなり多様な能力パラメータとなる。好きなキャラクターを自分好みにできるのも楽しさの一つだろう。

2.人生とは

話はうってかわって、人生について考えてみよう。

人生(じんせい)とは、人間がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのことである。(引用Wikipedia)

引用部分の後半では生きている時間、経験などのことであるとあり、つまり人類約75億人、75億種類の人生があり、それぞれを多種多様に歩んでいる。そこに同じものは2つとなく、双子であっても、その環境によってそれぞれの人生となるのである。

容姿についても同じことが言えよう。もちろん全てをマッチングしたわけではないが、容姿も75億種類の容姿があると言えるはずである。いくらパーツで同じでも別のパーツが全て同じであるとは言えないはずである。(そもそもパーツですら同じなことがなさそうですが)

さらに人生についても容姿にしても環境的影響を受ける。仮に同じ容姿で産まれたとしても、日本とアメリカに産まれたのであれば、それに応じた容姿になるということである(遺伝的に考えて同じ容姿で産まれるのも、、w)

このように人生というのは大きく分けて先天的要素と環境的要素の2種類から構成され、多様性を生み出していると考える。

3.RPG的要素からみる人生

いよいよ本題である。RPG的要素を考えて、それを人生に当てはめたとき、どのようなことを考えられるのかを考察する。

 Ⅰ.能力パラメータ

RPGには能力パラメータというものが実装されていることが多い。そういったパラメータはキャラクターの特徴を反映して上昇し、その強さを表すものとなるのである。「ポケモン」で言えば「攻撃」や「素早さ」、「ドラクエ」で言えば「ちから」や「きようさ」といったもののことである。

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↑「ポケモン」での能力パラメータ画面。
HPを始めとして6種類のパラメータが存在し、その下の数字が大きいほどそのパラメータの能力が強い。

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↑「ドラクエ」での能力パラメータ画面。
こちらも「さいだいHP」など11種類のパラメータで表される。同様に数字が大きいほどその能力が強い。

このパラメータをリアルの人生に置き換えて考えると、そのままその人の能力を表しているということになるが、私はこのパラメータが互いに独立して無数にあると考える。

また、ゲームでの初期値やキャラごとの特徴というものは先天的能力と捉えることができ、ランダムではあるものの遺伝の影響を受けるものと考えられる。

そして、「ポケモン」における努力値による上昇は環境的能力と捉えることができ、自分の意思によって自分の思う能力を上昇させることができるものと考えられる。

ここで私の立場を示したい。私は人による差別はないという考えに基づいてこの先天的能力はみな平等に割り振られていると考える。

では、人によって差があるように感じるのはなぜだろうか。

それはパラメータが無数にあるせいだ。
先天的にパラメータの総量に差がないのだが、今の仕事や生活に活用しやすいものではないパラメータが高いということでなのである。

パラメータは、今私たちが認識している事柄ごとにある訳ではない。さまざまな能力パラメータが噛み合って、私たちはあるアクションをとれているのである。

例えば、サッカーをするという経験を得たとする。「サッカー」というパラメータだけが上昇するのではなく、「ボールを脚で扱う能力」が大きく上昇し、同時に「瞬時に判断する能力」や「空間認識能力」などの能力も付随してやや上昇していると考えられるということである。

話を戻せば、なぜ個人差が生まれるのだろうかという話であった。簡略のためスポーツと学習というパラメータを考えたとき、スポーツのパラメータのほうが高いのにスポーツは嫌いだと言って、勉強のほうで必死に努力しているという状況が、人によって差が生まれる原因なのである。

これを聞くとバカだ。向き不向きを考えろ。なぜわざわざ向かないもので努力するんだと思うかもしれない。

しかし、ここで立ち止まって考えてほしい。私たちは自分のパラメータを知らない。こういう考え方を導入しているだけで、実際には何が向いているなんて分からないのである。これが人生がかなりのクソゲー説を醸し出している。なんとも非効率である。

さらに追い討ちをかけるように悪化させているのが現状の社会である。今の社会は多くの部分で「思考力?」のパラメータを要求するのである。

そのため「思考力」を先天的に優遇されたパラメータの持ち主は青年期までうまく事を運ぶことができ、一方で一定ラインの「思考力」(受験による合否が最たる例)を持てなかったものはやや苦しい人生を強いられる。社会が成立してかなりの年月が経っているので、他のパラメータに比べ「思考力」は遺伝的に優遇されやすいだろうが、平等ではないことは明らかである。

ここまで読むと人生がかなりのクソゲーであり、やるせない気持ちにさせてしまったかもしれない。先天的に社会に適合しにくいパラメータを得た場合は諦めるしかないのかと考えてしまうが、ここで考えるべきが環境的能力なのである。

RPGではほとんどの場合、初期値なんてものは最終的なパラメータの1~10%程度にしかならない。

これを人生に当てはめて考えると、先天的能力なんて大したものではないのである。

天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。
(トーマス・エジソン)

和訳版ではあるが、エジソンはこのような言葉を残したと言われている。

これをRPG的解釈をするのであれば、「先天的能力は微々たるもので、大部分は環境的能力である。あと「運」のパラメータがやや高いだけである」となる。

つまり、努力量によっては環境的能力を向上させることで自らが社会に適合するようになることは可能である。

そうは言っても「キャラごとの特徴」によるパラメータの伸びやすさに関してはどうなるのか?と考える人もいるだろう。

もし、ここに対処法がないのであれば、あらゆる分野の第一線は先天的に恵まれたもののみであることになり、向いているか向いていないか分からない上、向いてなかった場合には第一線には上ることができないことになる。やはりクソゲーである。

そのため、私は各パラメータに「成長度」というパラメータも付属するのではないかと考えた。先天的に成長度が高い場合はあれど、環境的に伸ばせるものであると考えるのである。

この考えが都合良く作られたものでなく、正しいものであることをを実際の例を用いて考える。
該当者ができる限り多くとれるため、「受験勉強」について考えよう。

受験勉強の際、点数がなかなか上がらなかったり、急激に伸びたりという動きを経験した者は少なくないと思う。それが「成長度」の存在証明なのである。

なかなか成長しないとき、これは成長度をうまく上昇させることができていない可能性が考えられる。学習において問題パターンに対して答えを覚えるだけの学習をする、といった学習方法がそれに該当しそうである。

一方でそれでも継続して勉強したときには急激に点数が伸びることもある。継続したことによって一気に理解が深まるということである。ここから言えるのは、「成長度」というパラメータを一定ラインを越えることで効力を発揮しやすくなるという特徴を持つパラメータとして捉えることで感覚的に納得のいく点数の動きになるということである。

以上よりRPG人生論的には向き不向きが分からない以上、ある事柄に特化して学習し経験値を得て能力を活用するスペシャリストになることが効率が良いと考える。

 ・コマンド操作

RPGにおいて操作はコマンドで行い、それいがいの行動はとることができない。コマンドがないのに地面に寝転がったり、戦闘中に強力な技/スキルを使ったら衝撃のゲームである。

ターン制のバトルにおいてポケモンでは攻撃コマンドは4種類と決まっており、それを越えると「忘れる」という形で指定したコマンドを使うことができなくなる。一方、ドラクエでは、呪文や特技コマンドに制限はなく、一度習得したものは全て使える。

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↑ポケモンの戦闘画面。
右下の横長い4本の枠がコマンドである。

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↑ドラクエの戦闘画面。左下の枠が特技コマンドで、8種類あるが、枠の右下には矢印がついておりさらに選択可能なコマンドがあることがわかる。

これをリアルに置き換えるとどうなるだろうか。

私はそれが得意であると言えるラインに達したものの能力のリストのようなものであると考える。簡潔に言えばあなたを表す特徴リストと言え、ゲームで言えば
「実況パワフルプロ野球」(以下パワプロ)の「能力」欄が近いと考える。

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↑パワプロにおける山田哲人選手の能力画面。
右下の縦8マス横4マスが能力欄で、明るくなっているものは既に取得したもの。薄くなっているものは今後取得可能性のあるものである。

能力は各種パラメータをあげることによって、解放されるように得意になっていく。パラメータの項目ではサッカーを例に出し、「ボールを脚で扱う能力」に付随して様々な能力が上がると考えたが、サッカーを行っているときに開放される能力は基本的に「ボールを脚で扱う能力」のみだと思う。その他「空間認識能力」が一定ラインに到達し得意と言えるレベルにあっても、能力としてはなかなか発揮されないのである。
これはパワプロでいう、薄い文字の能力、つまり今後取得可能性のあるものとなると考える。

なぜそのように考えられるのであろうか。

それは多くの人は単元、項目毎に能力を見ているからである。

サッカーで学んだ空間認識能力が野球に生かされると思う人は多くいても、UFOキャッチャーで生かされるとは到底思わない人が多いということである。しかし、活用のしかたはやや違えど、「空間認識能力」であることは間違いなく、空中のボールの位置把握と、クレーンの位置把握には似た部分もあると考えられるだろう。

したがって、ある事柄で学んだ知識、能力が他にも生かされるのではないかと疑って活用しようと試みることはとても大切である。やってみないとできるとは思えず、宝の持ち腐れとなる。

当たり前と思った方も多いだろう。なにせ誰しも行っているのだから。
例えばゲーム。新たなゲームをするときに説明書を読まずに始める人も多いのではないか。なのに、スティックを倒して移動。十字キーの押した方向に移動というのが分かっている。これはゲームタイトル毎に操作を理解しているわけではなく、ゲームという包含したさらに大きな枠組みで捉えているから、このゲームでもこの操作が可能なのではないかと気づけるのだ。

人はなにか物事を個別に見てしまう。それは、名称のついたものでないと認識できないことも影響しているかもしれない。

そもそも言葉というのは名称がないと使えない。最初に4足歩行の動物という定義で「犬」と名付けたなら、今いる馬や牛、猫など全て「犬」なのである。言葉というものは名称もなにもないカオスから定義として領域を切り取って名前のラベルを貼って存在している。
自分達が認識しているものと本来の区別(それすらない可能性はあるが)とは異なって当然なのである。

私は友人にこう言われたことがある。
「定義定義って理系っぽいわー」
と。

確かに私は理系である。しかし、定義にこだわることの何が不自然なのだろうか。そもそも定義がなければ認識できないのだから。その部分を感覚で行えば、認識できたはずのものを見逃す可能性すらあるのである。

話が逸れてしまったが、つまり取得可能性のある能力は存在して、自分の考え方一つで新たに才能を発揮しうるのである。

このコマンドの考え方ではもう一つ言えることがある。それは経験したことでないとそのコマンドを選択するのは難しいということである。私たちは機械ではないので、経験していないことを行うことが不可能な訳ではない。それは先述の取得可能性の話が示してくれている。しかし、だからといって必ずできるのかというとおいそれと簡単にはできないのである。

極端に言えば、トップクラスの学者であれば内部的に(可能性的に)タイムマシンを作ることができる能力パラメータを持っているかもしれない。だが、新たな発明というものがそんなに簡単に起こる訳がないということは皆さんも理解できるだろう。

常に可能性を探っても難しい。ましてや常に可能性を探ろうとする姿勢を継続させることも難しいのである。

それにそもそもなのだが、経験したからと言って全てできるわけでもない。
「前にいったよね」
この言葉を聞かずに生きてきた人はほとんどいないだろう。仕事において言われたことをきっちりやることは地味でも評価されるものと感じている。また、言われていないことができる人は「仕事ができるやつ」と評価されるとも思う。

しかし、その仕事ができる人も、突然タイムマシンを作ってくれと言われてできる訳ではないだろう。自分のできる範囲で以前言われたことを覚え、今回にもその業務をすべきかを判断しているのではないだろうか。

つまり、仕事が「できる」人というのは言われたことを覚え実行することに長けているともいえる。「記憶力」だろうか。このパラメータも存在するだろう。

経験したことしかできないということについてさらに考えるべきことがある。
それは「常識」「当たり前」ということについてである。

常識とは、ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。 (引用大辞林)

人は効率的に動いてしまい、「常識」と感じていることは相手も知っているものとして話を進めてしまうだろう。

しかし、経験したことしかできないという観点に立てば、全員が経験したことのある事柄についてしか言えず、そのような常識はほとんど存在しないと分かるだろう。

私は社会一般の常識を「先駆者(自分より歳をとった方)のほとんどが経験したこと」と認識すべきだと考える。多数が経験したことは少数を無視して全員だと考えてしまうのである。そのため今社会一般に存在する常識は、大辞林の定義となってしまうのである。(大辞林の定義は「広く」とあって、全員ではないことが考慮されてますね。しかし、なにか常識について話ときには全員が知っていることを前提とされがちです。)

大辞林の定義にもあるが、「ある社会」とあって集合を限定している。日本とアメリカの常識が全てが同じとは限らないことの考慮である。しかし、ここに問題は生じる。国という単位なら分かりやすいものの、この「社会」という集合は、どの程度なのかは不明だ。同じ学校を過ごしたものであっても先述したように人生が75億種類あるのだから、そのうちどのくらいの人が分かることが「常識」と言えるのかもわからないのである。

したがって、厄介になるので常識として話してはいけない訳ではないが、常識が通用しない可能性があるということを認識した立場でいるべきである。
その思考の柔軟性を怠れば、ケンカの原因になるだろう。

また、「先駆者」としたのは、時代が変化しており今私たちに当てはまるとは限らないという可能性も考慮している。

以上より、RPG人生論的には経験によってパラメータを上昇させ、アクションを起こせるコマンドのような能力(得意と言えるもの)を手に入れることができるが、その能力を取得する過程は多様であり、他者にも求めるのは間違いで、またその能力すらも持っているかどうかは不明であるから、柔軟な立場で他者に接するのがよい。

3.RPGには採用されにくい要素

ここからは先述のパラメータ、コマンドに対して考慮すべき要素について述べよう。それはずばり「衰退」である。RPGにおいて、レベルアップのタイミングでのパラメータの変化や、使えていたコマンドがプレイヤーの意思とは別に使えなくなるということはあり得ない。

しかし、リアルにはかんがえずには要られない要素である。あらかじめ分かっていてほしいのだが、「衰退」と聞いて最もイメージしやすいのは「老い」である。老いは間違いなく考慮すべき要素であるが、私自身がまだ、老いを考える歳でないことと、RPGとあって読んでくれていそうな層が自分の年齢とそう変わらない層であると思い、省略させていただく。(そんな年齢でないのにここについて言及するのはおこがましいですよね笑)

今回話題の中心としたいのは、時間経過による衰退である。RPGには時間という概念はあって無いようなものと捉えられることが多い。しかし実際にはこちらも考慮しなければいけないのである。

学生時代はできていた。昔はできていた。
こう思うことは多々あるだろう。時間経過によって忘却が生まれ、できていた能力ができなくなる、存在していたパラメータが減るというのというのはかなり身近なのである。

パラメータの減少率はある程度決まっていて、全くできなくなるという訳ではないと考えているが、それによってできなくなることがあることは事実である。

こういった点からも、あらゆるものを行なえるジェネラリストを目指すよりも、何らかの事柄を行えるスペシャリストを目指すことが理想的であると考えられる。

4.現実にしか存在しない要素

「時間経過」というものはRPGにおいてほとんど採用されない要素ではあったが、現在のRPGには未だどの作品にも採用されていない要素として「感覚」というものがあげられる。

「感覚」とは今回は五感そのものを表しているのではなく、頭で理解している訳ではないが、選択できるコマンド、行うことができるアクションのことを指す。

この感覚には十分な注意を払わなければいけない。今まで実行していたアクションが急にさっぱりできなくなるということが発生しうる。感覚主体のパラメータは時間経過によって通常よりも早く減衰しさらに0になりうるのである。

「今まではこうしてくれていた!」と他者から言われても、意識して行っていた訳ではなければ、どのように行えていたかも分からなくなるのである。

感覚というものは身体で覚え、頭で理解できないこととした。それはある一定ラインを越えてしまうと頭の理解を超越して、本能的に感覚的に実行できるようになるようだが、先に述べたように名称、ラベルがついていないと認識できないことと同じなのである。感覚というカオスを切り取ってラベルをつけないと頭では理解できないのである。

したがって、感覚でのアクションを言語化しておく、理論化しておくことがパラメータを0にしない方法であると考えられるのである。

5.あとがき

このようにRPGに置き換え物事を認識し、人生の考え方について述べてきた。このnoteは私の思いつくままに書き、私自身も最後で述べたように言語化している最中である。ここに書いたからといって自分が全て理解し、実行できているとは思えない。すでに優秀なコマンドを失っているのかもしれない。この人生は自分自身の能力についてはなにも教えてくれないクソゲーである。

最後に、この記事を読んで自分がどう思うかじっくり考えてほしい。自分と同じ意見だと言ってくれる人もいれば、一ミリも共感できない人もいるだろう。しかし、改めて自分の人生について考えることだけはあなたのためになることは間違いないと思う。

良ければサポート書く題材にもなりそうな本の購入費に当てたいと思います