終わり、始まり、繋がり、巡るなにか
仕事を辞め、時間がある内に回れるところは回っておきたいと思っていたが、3月の後半に少し旅をすることができた。
ちょっと振り返りながら、最近の出来事を綴りたいと思う。
この短い期間の間になにが起こっていたかと思い返すと、さまざまな事が同時に起きていて、今の私自身ここから学ぶことが多くある。
その後、私は地域を巡る『RAPHA CARAVAN』を立ち上げた。根底にあるのは『RIDE FOR KUMAMOTO』での体験であり、ラファを通じたサイクリストの繋がりを広げ、地域の魅力を掘り下げ、ブランドのファンを獲得するという流れが作られていった。
それは所謂「サイクルツーリズム」と言われるモノとは異なり、地域のコミュニティこそ重要であるというところが要点となる。
カルチャーの礎は数奇者が集まる処にあり、そこから広がるコミュニティが文化を形成していく。土台がなければツーリズムなど表面を擦るモノでしかなく、長く継続するライフスタイルにはなりにくい。
ユニバーサルマイノリティとでも言うか、ロウソーシャルプライオリティなサイクリングの社会的立ち位置はそのようなコミュニティで支えられている側面がある。
個人的には優先順位は低くて誰も気に留めないくらいが居心地良いと思うが、サイクリングの人気がそれなりに上がってきてユーザーが増えてくると社会の中層階くらいまでは浮上してきて、同時に課題も表層化してきたというところか。
まぁそれは良いとして、私自身RAPHA CARAVANを通じて、九州から北海道まで多くの地域を巡らせてもらい、数えきれなほどのサイクリストと出会った。
深く関わった人、そうでない人、さまざまではあるが本当に多くの方にお世話になり感謝の気持ちでいっぱいだ。
ブランドとしてだけでなく、サイクリストとしての繋がりが持てたことは、大きな財産となった。
同時に行く先々で感じたこと。気候風土が織りなす個性的な街や里山、圧倒的な存在感を放つ大自然、伝統文化や豊かな食文化、明るく暖かい人々に触れ、日本の素晴らしさを体感した。
地方創発といわれて久しいが、地方の魅力がもっともっと知られて地域経済が循環していく仕組みが必要と感じることも多々あった。
ラファから離れたタイミングで自分自身の足あとを辿りつつ整理する意味もあり 春の両極の旅 に出た。3月下旬、北海道に行きその後九州へ。対馬から福岡へ、その後は大分へ行き最終目的地は熊本とした。
宮崎や鹿児島、長崎にも行きたかったがスケジュール的に無理があったので別の機会を作りたい。瀬戸内や東北にも行かねば。
別府にある鉄輪温泉から熊本の阿蘇までサイクリングで移動する日を設け、途中で南小国町の茶のこへ立ち寄ることとした。理由は、松崎さんが入れてくれる ”抹茶” をいただくためだ。
ラファに限らず、それ以前から長く外資系のブランドに勤務してきた。そこから解き放たれた束の間に、身の回りを見渡せば欧来モノに囲まれた生活をしていることに気がついた。
日本があらゆる面で弱体化しているといわれ、日本の文化や伝統が消えゆく様はさまざまな情報から読み取れる。もちろん盛り上がっていて応援したいこともあるが、総合的に下降気味の事象を他人事として傍観している自分に気がついた。
そりゃそうだ。もの心ついた頃からそのような宣伝広告にヒタヒタに浸かってきて何の疑問も抱いてこなかったのだ。私だけでなく日本の多くの人が同様なのである。
音楽にアート、映画、ファッション、フード、50s、60s、70s、80s、90…どこを切ってもあらゆる文化や経済、教育も政治も多くのものが欧米モノで溢れていて日本の文化に覆い被さっているように見える。
さらには我々は、少なくとも私はそんな海外のモノコトに憧れを抱いてきたのだ。たとえ日本のブランドであっても、諸々の理由があるにせよ日本で作っていないのだし、経済循環の点では多くの接点が途絶えてしまっていることさえ気にも止めずに。
ちなみに和装は日本の象徴的な文化といえると思うが、私は一着も持っていない。きものの市場規模は、1.8兆円と言われていたピーク時(1980~90年)から近年は約2800億円、およそ15%まで下がっているそうだ。悪いことだけではないらしいが見事な下げっぷりからは、織物や染め、絵つけなどの伝統の継承が容易ではないことが想像できる。
祖国の神話を語らなくなった国… 12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる… とは、”トインビーが発したとされる言葉”と”噂”されているモノだが、嘘か本当かはさておき、今の日本を見ていてそのように思えてくるのだから危ういことには変わりはないだろう。
日本をそのように仕向けたのはGHQであり、その戦略は見事に成果を上げて早くも78年が経とうとしていて、それは今も継続中というわけだ。多くの日本人はそのことを知っているハズなのに、いつもの日常が淡々とつづいているだけのように見えちゃうからヤバいよね。
戦争に敗北して滅びゆく日本か… 切ないね。
だから? だったらなんだというのだ? 具体的にどうするのだ? 日本を守るためになにかアクションを起こすのか?
いや、そこまでやる気概はないっす… と思う一方で、せめて自分自身に嘘をつかないことは最低限守るべき線引きだろうと思っている。
時代の流れはグローバルに動いているし、その流れは変えられないかもしれないが、今後自分が選ぶモノやコトは、その先にある自分が大切であると思えるモノコトに繋がっていることが大切であるし意味があると戒めた。
今現在の状況に違和感を覚えたのであれば、少しずつでも変わっていこうと思い、その第一歩が ”お茶” というワケである。
日本で生産されたお茶を、日本で作られた茶器で、日本の水で飲む。めっちゃ当たり前のことやん!って思うかもしれない。
でも、こんな当たり前のことすら私はやってきていなかったのだ。少なくとも18歳で一人暮らしを始めてからは、自宅で日本のお茶はほとんんど飲んでいなかった。
なんならコーヒーをおすすめしていた。仕事とはいえコーヒーを淹れてサービスしていたし、自分でも生活に取り入れて、それなりに選べるようになったし豆に合わせて淹れられるようにもなった。
コーヒーは美味しいしそれ自体が悪いわけではなく、どっちも楽しめば良いと思うが、しかしその前にお茶だった…
そんなわけで私は『本当に美味しいお茶』を知らなかったのだ。
お茶は平安時代に唐からもたらされたと云われるが、今でも日本のあちこちで生産されているし、茶器も伝統的な工芸品として継承されている。それらをちゃんと知らずして、日本の文化を語っている自分自身の間抜けさったらないね。
そんな間抜けた者の九州旅は終盤に差し掛かったあたり、由布岳や九重連山の大自然に畏敬の念を抱き、やっぱり別府〜阿蘇のラインはやべー!と思いながらやまなみハイウェイを登り続ける。長い登りだが思い返せばあっという間である。
長者原を超え、大自然の中を南小国へと降りていく。
何年振りか?久しぶりの茶のこの佇まいに懐かしさというか安堵感というか、なんか帰ってきた感さえある。
よーし!抹茶を頼むぞ!とメニューを開くと、お茶だけでもいろいろとある。玉露、煎茶、その他いろいろ、目移りしてしまうじゃないか!
いつでも気軽に来れるというわけでもないし、ちょっと欲張って玉露を先にいただくことにした。
迷ったあげく… パフェは今回はパスしようと思っていたのに、リアルな体験というのは魔物である。
最後に、今回の旅の目的である茶人松崎氏が点てた薄茶(抹茶)をいただいた。
松崎氏は忙しそうだったが、少し小話をしながら一言、
松崎氏「このお茶碗覚えてますか?」
ん? 抹茶を飲むのは初めて、のハズである。覚えているか?という表現は、あたかも私はこのお茶碗を知っていると言わんばかりである。
なんだ?まったく思い出せない!どんな経緯があったのか、覚えていないとマズいと思うが、覚えていないのだから仕方ない。
私「なんでしたっけ?まったく思い出せないです。お茶碗?」
松崎氏「あの時いただいたお茶碗です。」
さらに不明???なんのことだかさっぱりわからない!
私「ん?まったく記憶にない(笑)思い出せない!!」
松崎氏「ライドフォークマモトでいただいた小包みです。」
私「まじかっ!!!」
なんとなくうっすら記憶が蘇ってきた。あの時のアレだ!
二ノ瀬峠でひとりのサイクリストから小包みを託された。それをもとじさんが預かって、たしかに松崎さんに届けたのを私は見届けた。
あの時の小包みの中身は、このお茶碗だったのだ。
あの時の紳士は「茶のこジャージ」を着ていた。記憶が少しづつ蘇ってくる。残念ながらお名前は思い出せないが、お顔や姿ははっきりと覚えている。
なんということだ。7年前の出来事が、このタイミングで巡り巡って異なる分野で繋がる感覚がヤバい!
旨みとコクと苦味、そして甘味と、さらにはこの物語が味わいとしてなんとも云われぬ奥深い美味しさを醸し出し、感動の体験となる。ここまで走ってきて程よく疲れた体に染み渡る感覚が、言葉にならない幸福感をもたらしてくれる。
この抹茶は安すぎますよ松崎さん!八女の高価な抹茶をただでさえ破格で提供しているのに、この状況ではこっちが逆に気を遣ってしまうほどに安すぎる。
しかし思い返してみてハッとする。
私自身これまで何度も茶のこにお邪魔してきて抹茶をいただいたのは初めてなのである。
茶のこの名物は「いちごパフェ」とかなんとかふざけて言いながら、店主の想いに寄り添うこともなく、間抜けな面を晒していた。
そんな輩が多く来店する中で、ビジネスライクに経営するならばメニューから外れていてもおかしくないのである。
適正価格とはなんなのか?日本の文化に触れるにあたり、その価値と価格が現代を生きる人々にしっくりくるのか?
そんなことが課題としてある中で、儲けが得られない商品でも他でカバーしながら文化を守っていくという信念を持ち、生きていく糧としては不十分であったとしても時代のトリレンマに真っ向から勝負しているのである。
耐え忍ぶ強い意志を持ちながら、時代の流れに身を寄せつつ柔軟さを持ち、好きな茶の文化を守っていこうという松崎氏の生き様に敬服するのであった。
だったら私はこれまで以上に稼いで、自分が大切にしたいモノコトに還元できるようにならなければならないのだろうし、それらの文化を伝えていく伝道師となることも、自分自身のライフワークとしてあるべき姿なのであろう。
無職である今、今後のことに想いを巡らせるには十分充実した旅であった。
松崎氏だけでなく、これまでお世話になった人たちにお会いした。まだまだ会いたいけど会えていない人もたくさんいるが、こうして今後の進むべき道は見えてくるのかもしれない。
巡るめく旅の行き着く先には、幸せのお裾分けを振り撒く自分が居るように。
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