私がADHDに向き合うまで
■はじめに
この度ADHDで通院することになり、その経緯を書いておこうと思います。
昨今このワードをずいぶんよく聞くようになりましたね。
ADHDに関する通院のきっかけは、正直今までの自分のだめな部分をADHDのせいにして楽になりたいという
心理からスタートしたというのが本音です。ただ、今はどちらかというと症状の改善をしていきたいという気持ちが強いです。
だいぶ情報も巷にあふれてますので、何も参考にならないかもしれませんが、同じように苦しんでる方の少しでも役に立てれば幸いです。
今回は私の幼少期からの状態をつらつら書いてます。
次回以降では病院での流れ、薬を飲んでの経過などお伝えしていければと思います。
■概要
・私の幼少期からの症状(忘れ物、時間にルーズ、整理整頓、集中が続かない)
・仕事への影響が大きくなる
・病院へ
■幼少期
昔からずっと以下特徴がある子供でした。
◯苦手分野
・忘れ物
ランドセルを持っていき忘れる
・ものを無くす
やり込みまくったポケモンクリスタルとゲームボーイを新幹線に置いてくる
スマホ、財布を落とす(数え切れないほど)
部活の試合にユニフォームを忘れる
・整理整頓
学校の机が汚すぎて親を呼ばれる
部屋が常に散らかりまくり、気を抜くとゴミ屋敷に
◯できたこと
・友達とのコミュニケーション
問題なく(多分)、友達もそれなりにいました。
おしゃべりな子供でした。
・勉強
勉強も比較的得意で生徒会長をしたこともありました
・とにかくハマる
昔から一つハマったらどっぷり入り込むことが多かったです
例)
-幼稚園:日本にある電車を全部暗記
-小学校:アンモナイトにハマる。
化石をみればどの時代のアンモナイトかすぐわかるようになる
-中高:好きな漫画を全巻暗唱
役立つかは置いておきながら、極端にできることもあった分、周りからはおっちょこちょい部分があるやつ、くらいに思われ
そこまで生活に影響はなかったと思います。
■大学時代
受験勉強から解放されはじめてのひとり暮らし。
本当に毎日が楽しく、遊び回る日々でした。
その一方で、
・とにかく朝が起きられない
・学校は行けない
・レポートや試験対策もギリギリまでできない、なんならできない
という怠惰も怠惰な生活になりました。
1年生前期では8/20単位しか取得できない状況でした。
大学学時代後半は友達と一緒に授業を取ったり出席をお願いしたり、ゼミの教授に助けてもらったりしてなんとかほんとギリギリ卒業できました
■社会人
社会人になり、本格的に影響がでるようになりました。とにかく作業ができない、ミスが多発する。
・細かい数字の管理ができない
・契約書の数字を間違える
・作業着手できない
◯パニックに
何か想定外のことが起きるとパニックのような感覚になり、物事の優先順位がつけられない状況になりました。
◯できたこと
他方お客様や社内メンバーと飲みに行ったり他愛もない話をしたりということは作業に比べるとできていたような気がします。
とにかくその場を取り繕っていました。
■コロナ禍
リモートワーク中心になったことで、お客様と話をする仕事が少なくなり、
以下のような苦手な作業仕事がどんどん多くなりました。
・契約書をエクセルで作る
・数字を入力する
・社内システムでの発注作業
■ADHDを知る
この頃が一番精神的につらい時期でした。
その中でADHDという概念を知り、調べたところ、不注意、多動性、衝動性全てに対して、自分が該当するような気がしました。
(当時は仕事ができないことや忘れ物無くしもの整理整頓ができないことをADHDのせいにしたかったと思います)
その頃一度病院へ行きました。
■その後転職
やりたいことや得意なことにマッチするであろう仕事を自分なりに考え、転職しました。
最初数年はやりたいこと、できることがうまく重なり、毎日の仕事がとても楽しかったです。
ミスなどもありましたがトータルではそれなりに上手くいってたと思います。
■部署異動
部署がガラッと変わり、大量のマルチタスクを捌いていくスキルがより必要な仕事に変わりました。
その結果以下仕事に相当影響が出てきました。
・タスク漏れ
・優先順位がつけられない
・パニックとなりボールをかかえてしまう
■改善のため病院へ
仕事のパフォーマンスを上げるため、原因の改善をするべく病院へ行き、ADHDなのかどうか、そうであれば対処しようと心に決めました。
文字が多くなってしまったため、病院での様子は別で投稿します。
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