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時間という概念 太陽と心臓

人類共通の運動物は、「太陽」であった。
それを「心臓」で割ったものが「時計」である。

たぶん「時間」の概念は、物理学のムズカシイ理論ではいろいろと説明があるのだろう。時間にも「方向」があるらしい?が、そのレベルはまたいつかの話題にしたい。

私の感覚では、(おそらく他の人も)何かが運動していないと時間の経過を認識できない。時計の秒針が止まっているだけなら「壊れてんのかな」で済むが、

歩いている人が全員立ち止まった

川の流れが止まった

風が止まった…

となると「時間が止まった???」と錯覚するだろう。
ではなぜ太陽に注目したか。温度や作物など生活に直結していたのはもちろんだが、
みんなが同じように見えて、いつも一定に運動しているのが太陽しかなかったのである。それがまた、分かりやすく周りを明るくしたり暗くしたりするものだから、さらに分かりやすい。

水平線から出たとき、真上のとき、など区切りもあって最高。なんて便利なんだ!

しかしもっと細かく、その間のその間は認識できないものか。

そこでもう一つの共通のもの。それは「心臓の鼓動」。

みんな少々の差はあるが「同じような感じの運動」が、みんなの中にあるじゃないか。それを細かい単位=「秒」の刻みとしよう。

つまり、時計とは太陽と心臓からできている

↑たぶん、たぶんですよ。

実際に、速いか遅いかの肌感は、心臓のリズムより速いか遅いかで分かれている気がする。もし時計の秒針が心臓の鼓動より明らかに早ければ、見てて落ち着かないからダメだろう。

音楽の速さも、Lento=♪52で、遅く、気楽にという尺度、Adajio=♪56-72 ゆるやかに となっているから、そのあたりが落ち着く平均なのだろう。

時間がモノの運動、の事例をほかにも確かめよう。

事故にあったときに、すべてがスローモーションに感じる、という。
これは「脳の計算活動」が、非常に詰め込まれる現象。普段よりも極度に「脳の運動」があるから、時間の経過が遅く感じる。

逆に歳をとると、1年が早く短く思えるという。「今年もあっという間だったな〜」と呟くオジサンが、毎年1,000万人はいるだろう。

過去を振り返ったとき、人は「覚えている活動、行動」でしか過去を思い出せない。歳をとるごとに、オトナは前と同じような行動をしがちである。なので振り返って記憶に残るような体験が減る傾向にある。

すると同じ1年、同じような回数、心臓は脈打ったはずなのに、一瞬で過ぎたような錯覚をする。

逆にいうと新しい体験をたくさんすれば、1年を長く感じることが可能、ということになる。

楽しい時は早く過ぎる、という。おそらく、集中し快楽を感じた脳がスムーズに動きすぎている状態だろう。慣れた、得意なことをしているから早いのだ。雑念が入り組んでいれば、苦しく遅く感じるはずだ。

皆が時間のデッドラインと置いている、「寿命」のことをちょっと考えよう。
1日は86,400秒、
1年は3,150万秒、
80年生きたら「25億秒」。
心臓はどんな動物でも「25億回程度」しかもたない、という話を聞いたことがある。

するといつもドキドキしている人?
は寿命が短いのか?と心配するが、
「新しい体験」をしてドキドキしているかもしれないので、それだけ濃いのかもしれない。

すると、、
人の寿命とは時間ではなくて、
運動や活動の量(記憶量)と思うほうが正しいのか? 
記憶力は感覚としての寿命を伸ばす力に相当するか?


・・・まあ色々と尽きないですが。

私にできることは何でしょうか。

これからも、「尺度としての時計」は見つつも。
記憶に残るような体験をして、
それを重ねていこうと思います。


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